第1話:新堂亜紀
――帰国してからの数週間。
私の机の上には、分厚いファイルと調整メモが積み上がっていた。
オークランドのビストロで米国大統領自らが口にした「SPVは日本に設置して構わない」という言葉は、私たちにとって何よりも大きな追い風だった。けれど、だからといって交渉が楽になるわけではない。むしろ、関わるステークホルダーが増えた分だけ、資本政策の設計は格段に複雑化していた。
まず米国JV。
米国資本60%、日本資本40%――その比率自体は早くから大枠合意していた。だが、実際に誰がどれだけ持つのか、その中身を詰める作業は容易ではなかった。
米国側は、GBC本社が15%。そこに州政府ファンドが10%、地熱発電特化型のグリーンファンドが5%、さらに地元銀行系のCVCが5%。残りをDeepFuture AIが15%、そしてAACが10%。
ローカル資本を必ず入れろ――そういうのが米国側の暗黙の要求だった。確かに、地域雇用と政治リスクを担保する意味では妥当だ。
対する日本側は、五井物産が30%、そしてグリゴラが10%。
資金力も発言力も十分だが、米国六割の中で埋もれかねない。その補強線として用意されているのが、日本に設置するSPVだった。
SPV――日米50%対50%。
日本側は五井物産35%、グリゴラ15%。米国側はGBC20%、DeepFuture20%、AAC10%。
数字の上では拮抗しているように見える。だが実際には、SPVが「最終統括」を担う以上、五井物産の35%という比率が効いてくる。拒否権を確保し、議題形成や実務統括の主導権は、こちらが握れる設計になっていた。
もっとも、これは紙の上の理屈にすぎない。
DeepFuture AIとAACは、日本JVにも米国JVにもSPVにも足を突っ込んでいる。つまり、三重の利害を持つ存在だ。米国側の交渉窓口と日本側の調整窓口の両方に立つ彼らは、いつでも天秤を動かせる。そのバランスをいかに管理するか――そこが最大の難関になるだろう。
(……結局は、人の問題。数字の配分だけで物事は決まらない)
大統領の鶴の一声が、日本にSPVを置く道を開いた。
けれど、それを本当に「日本主導」に仕上げられるかどうかは、私たち次第だ。
私が決意している事はただ一つ。
五井物産が、この巨大プロジェクトを仕切る。直也くんをこのプロジェクトの執行責任者として前に立たせながら、その実務面を、特に資本政策的に支えるのは私の役割だ。
その役割を十全に果たさなければならない。
※※※
会議室の窓から差し込む午後の日差しを背に、私は玲奈と向かい合っていた。机の上には、資本構成案の最新版。米国JVと日本SPV、それぞれの出資比率を明記したスプレッドシートだ。
「……やっぱり、DeepFuture AIの持ち分をどう扱うか、そこが最大の山場になるわね」
玲奈が書類を指で叩きながら、険しい目を向けてくる。
「米国側のローカル資本、州ファンドもグリーンファンドも、CVCも外せない。政治的にも象徴的にも絶対に必要。そうなると、DeepFuture AIの取り分を削るしかなくなる。でも麻里さんが、それを大人しく呑むとは思えません」
「そうね……」
私は頷いた。麻里――DeepFuture AI日本法人代表。直也くんの“元カノ”であり、今やプロジェクトのステークホルダーとして大きな影響力を持つ人物。
その彼女に「出資比率を下げて欲しい」と告げるのは、火薬庫に火を投げ込むようなものだ。
玲奈は冷静に続ける。
「麻里さんは、自分が日本側の“顔”でありたいと思っている。だから表面上はSPVにコミットするでしょう。でも、数字を削るとなれば、“直也の隣に立つ資格を奪われる”って受け止めるはずです」
「……つまり、要求が過剰化するリスクがあると?」
「そう。『その分、議決権を強めろ』『理事会での承認権を与えろ』とか、平気で言ってくる可能性があります」
私は小さくため息をついた。
米国JVにローカル資本を入れるのは既定路線だ。州政府ファンドを外せば州知事の支持を失う。グリーンファンドを外せば「環境事業」の看板が弱る。CVCを外せば地元銀行団の反発を招く。どれも外せない。
となれば、DeepFuture AIにある程度の妥協を呑んでもらう他ないのだ。
「……いずれにせよ、真正面から削減を突きつけたら反発しか生まないわ。提示の仕方を工夫するしかない」
玲奈がわずかに身を乗り出す。
「どうするつもりですか?」
「“全体を拡張したから調整が必要になった”というストーリーにするのよ。
麻里さんの取り分を単純に削るんじゃない。州ファンドやグリーンファンドの参画によって、プロジェクト全体の資金規模と社会的なインパクトが拡大する。その『広がりのための調整』だと説明する」
「なるほど……つまり、“あなたを削った”ではなく、“あなたのおかげで広がった”という言い方にするわけですね」
「そう。DeepFuture AIの存在感は、依然として中核だと伝える。そのうえで――こちらに譲ってもらう数字を、別の形で補填する。たとえば、AIインフラの技術仕様策定での主導権を保証するとか」
玲奈は少しだけ考えてから、皮肉っぽく笑った。
「なるほど……それなら麻里さんの性格からして“悪くない”と思うかもしれません。数字より、目立つポジションを欲しがるタイプですから」
私は小さく頷き、資料を閉じた。
「玲奈、あなたの警戒はもっともよ。だからこそ、どう提示するかが肝心。直也くんを盾に使うようなやり方はしたくない。私たち自身が、ちゃんと話を通す。――その準備を、今から整えましょう」
玲奈は真剣な表情で同意した。
二人で積み上げた資本構成案。
これをどう麻里に伝えるか――その瞬間が、この巨大プロジェクトの最初の正念場になる。
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