プロローグ3:谷川莉子
思い返せば――あの頃の私は、まだ高校生だった。
学校ではずっと軽音部で音楽に熱中していた。
もう高校三年生。そろそろ進路について考える必要がある。
私は別に大学や専門学校に行きたいという気持ちはなかった。
そんな事に時間を費やすくらいなら、むしろ卒業したら、本格的に音楽をやってみたい。そういう気持ちを胸に抱えていたのだ。
でも、両親には猛反対された。
「自分が好きだっていうだけで食べていけるほど、世の中は甘くない」
「現実を見なさい」
決まりきった言葉を繰り返す両親の声が、今でも耳の奥に残っている。
そんなことは分かっていた。
夢だけで食べていけるなんて思ってはいなかった。
けれど、それでも諦めきれなかった。既に諦めきれないだけの理由くらいは作っていたからだ。
私はその頃、既にボーカロイドを使っていくつかの楽曲を制作し、フリー音源としてネットに公開していた。
思いのほかその反応は良く、音源を活用してくれるユーザー数も、それから私の拙い専用チャンネルの視聴数も伸びてきていた。感想には「もっと聴きたい」「メロディラインがきれい」といった言葉が並んでいた。
だからこそ、もっと本格的に挑戦したい――その思いが強くなっていったのだ。
ただ、現実には環境が整っていなかった。
ボーカロイドで作曲を続けたり、専用チャンネル向けの動画制作を行ったりする為には、それに耐えられるスペックのパソコンが必要になってきた。家の古いノートパソコンでは性能的にも限界だった。
その悩みを、私は幼馴染の直也くんに相談した。
あの頃、直也くんは東都大学の三年生。理学部の情報科学科で量子情報理論という私には到底理解できない難しい研究をしていたが、それ故に、パソコンの扱いは実に手慣れたものだったのだ。
直也くんは昔から本当に頭が良かった。
中学、高校と、公立の中高一貫校に入って、そのまま東都大学に現役で合格してしまった。私とは本当に頭のデキが違うのだと思っていた。
その一方で、昔から本当に優しかった。
だから私はしばしば、両親に音楽活動について賛成してもらえない苦しさや、自分の活動内容について、直也くんに相談していたのだ。
「だったら、オレの自作PCの型落ちパーツを流用して、音源ボードだけ最新のものをセットして、まず一台組んであげるよ」
そう言ってくれた直也くんの笑顔を、今も鮮明に思い出す。
その言葉に、胸が震えるほど嬉しくなった。
結局、直也くんはその週末に必要なパーツを持ち寄ってくれて、私の部屋であっという間に一台のマシンを組み上げてくれた。
手際の良さに見惚れてしまうほどで、ネジを締める指先や、ケーブルを整理する姿がやけに頼もしく見えた。
完成したパソコンの電源が入り、画面に立ち上がるOSのロゴが表示された瞬間。
胸が高鳴って、私は無意識に声を上げていた。
「すごい……! これで、もっと曲も作れるし、いろいろと出来そう!」
そんな私に直也くんは、少し真面目な顔で言った。
「莉子。やりたいことを追求するのはすごく大切な事だ。でも、それを周囲にも納得してもらうには、莉子自身による努力の形をきちんと見せる事も必要だよ。結果だけじゃなくて、基礎的な知識をちゃんと積み上げているって、誰が見ても分かる取り組み方をした方がいい」
その一言が、私の心に深く刺さった。
私は、それまでほとんど、音符や音階の基礎を勉強してこなかった。耳で覚えて、感覚で曲を作ってきただけだった。
でも――直也くんに言われて、初めて自分が欠けている部分に気づいた。
それから私は、それから楽典の本を自分のおこづかいで買い、毎晩少しずつ音楽理論を勉強をし始めた。
ドレミファソラシドという音階の並びの意味。コード進行の仕組み。旋律と和声の関係。
知らなかったことを知っていくたびに、世界が広がっていくようで、心の奥が震えた。
そして、軽音の友人の先輩で、音楽大学で本格的に声楽をしていて、現在スタジオ経営している人を紹介してもらった。
スタジオの清掃や雑用手伝いの代わりにボイトレの基礎を教えてもらえる事になった。
――あの時、直也くんが背中を押してくれたから、今の私がいる。
もし直也くんがあの言葉をくれなかったら、私はきっと、夢を夢のまま諦めてしまっていただろう。
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