Caput V : Invitatio ad Noctem(夜への招待)

Sub velum vespertinum, lux et ventus colloquuntur,

et stellae micant velut noctis promissum.

(夕べの帳の下で、光と風が語らい、

星々は、夜の誓いのように瞬いています。)


──────────


日が傾きはじめたころ、天幕の影が細く伸びていきました。

往来の人波がゆるみ、店じまいの声がぽつり、ぽつりと落ちていきます。

角の広場まで戻ったところで、フェリクスが足を止めました。


「ここからは所用がありますので、私は失礼いたします。――道中お気をつけて」


「また任務か。王立警備隊はやはり大変だな。……無理はするなよ」

カシアンは穏やかな声でそう告げました。


「とても助かりました、フェリクス様」

セレスティアが小さく会釈します。


「楽しい一日になりましたわ。フェリクス様もお気をつけて」

ルキアも柔らかく微笑みました。


こうして穏やかなやり取りのあと、フェリクスは人の流れに紛れ、夕暮れの光の中へ静かに消えていきくのでした。



市を離れるころには、空は群青に沈みつつありました。

石畳を渡る車輪の音が遠ざかり、馬車の窓を流れる灯りが細く伸びてはほどけていきます。

セレスティアは指先を窓枠に添え、遠くに光る一番星を見つめていました。

胸の奥では、昼の雑踏の中で手首を支えてくれた青年の声が、まだ淡い余韻のように残っている気がします。

銀灰の髪と、夜を映したような瞳――その静けさは、賑やかな市の中にあっても、どこか遠い星の光を思わせました。


「今日はずいぶん賑やかだったな」


向かいに座るカシアンが、外套の襟を整えながら言いました。

声には安堵と、妹を案じる響きが混じっています。


「ええ。本当にたくさんの人がいて。歩くたびに見たことのないものに出会えたわ。少し疲れはしたけれど、とても楽しかったの」


セレスティアが微笑むと、隣のルキアがくすりと笑いました。


「あなた、終始目がきらきらしていたものね。転ばないか心配したくらい」


「だって、あの美味しかったビスケットのお店以外にも素敵なものがあったんだもの。……でも、次はよそ見をしないようにする。兄さまにも注意されそうだから」


「当たり前だ。大きな怪我でもされたら困る」


「ごめんなさい。気をつけるわ」


カシアンはわずかに息を吐き、表情を和らげました。

馬車の中に穏やかな沈黙が戻り、車輪の音だけが静かに響いていきます。

やがて速度が落ち、門の灯りが近づいてきました。


「もうそろそろで到着だな。――ルキアも疲れただろう。早めに休んでくれ」


「ええ。そうするわ。今夜はありがとう、カシアン。セレスティアも」

「こちらこそ。ゆっくり休んでね、ルキア」


「おやすみなさい。また明日ね」

「おやすみなさい、ルキア」


ルキアは手袋を整え、セレスティアの手を軽く握ってから、門内へと入っていきました。

灯がひとつ揺れ、花の香りが夜気へほどけていきます。

馬車はふたたび静かに動き出しました。


丘を上りきるころには、ルミニス家の屋根が見えていました。

門を抜けると、庭の花の香りが夜気に混じって流れ込み、重なった灯りが帰りを待っていたかのように揺れていました。

玄関の内側で外套を預けると、屋敷の空気が静かに落ち着いていきます。



カシアンと別れて部屋に戻ると、屋敷のざわめきはもう遠くにありました。

灯を落とし、窓の掛け金を外すと、夜風が頬を撫でていきます。

温室の硝子越しに星々が瞬き、花の影がその光を映していました。

セレスティアは窓辺に手を置き、静かに空を見上げます。


「ねえ、聞こえてる?」


声は小さく、それでも確かに夜の向こうへ届いていくようでした。


「今日は市に行ったの。焼き菓子の匂いや笛の音が溶け合って、あなたたちの光みたいにきらきらしていたわ」


星がひとつ、遠くで明るさを増しました。まるで返事をするかのようです。


「少し転びそうになったけれど、支えてくださった方がいたの。不思議な方だった。人混みの中なのに、なぜかそこだけ静かで……目が、とても綺麗で」


もうひとつの星が瞬き、レースのカーテンが風に揺れました。

昼の喧噪が言葉にほどけ、静けさが胸の奥まで満ちていきます。


「あの方にまた会えると思う?……わたしは、なぜだかまた会える気がするの」


胸の奥で、幼いころに聞いた星の囁きが蘇りました。

――“まもなく訪れる再会が、喜びをもたらす”。


「ねえ、覚えてる? 星たちが教えてくれたあの言葉。……わたし、その“再会がもたらす喜び”が、どんなものなのか知りたいの」


空の群れが一瞬だけ明るくなりました。

セレスティアは小さく笑みを浮かべ、そっと呟きます。


「今日も聞いてくれてありがとう。おやすみなさい、わたしの星たち」


灯がひとつ揺れ、窓の外の空気が静かに流れていきました。

星々はやわらかな明るさで瞬き、彼女を包み込むように夜を照らしていくのでした。



朝は薄い金の光とともに満ちていき、鳥の声が庭の方で重なると、屋敷がゆっくりと息を整えていきます。

控えめなノックがあり、侍女が銀盆を捧げて部屋へ入りました。


「封書をお持ちしました」

「ありがとう。机の上へお願い」


侍女が一礼して退きます。

封蝋は深い赤で、厚手の紙にはわずかな凹みがありました。

セレスティアは指先で縁を確かめ、呼吸をひとつ置いてから封を切ります。

紙の香りがやわらかく立ちのぼり、流れる筆致の文字が光を受けて静かに浮かび上がりました。


“夜会へのご招待”。

日付と式次第が記され、結びには主催者の名があり、セレスティアはその一行へ視線を留め、胸の奥で小さく鼓動が弾むのを感じました。


食堂では、カシアンがすでに席に着いており、茶の湯気が細い糸のように立ちのぼっていました。

 「おはよう、兄さま」

 「おはよう。――封書は見たか」

 「ええ。アストリア公爵家からのものね」

 「ああ、王族や各領の代表が顔をそろえるらしい。断るわけにはいかない」

 「わたしも出席するの?」

 「もちろん。ルミニス家としても出ねばならない。支度は進めておくといい」

 「わかりました」

 「そう緊張するな。お前なら大丈夫だ」


短いやり取りのあと、セレスティアはひと口だけ温かなスープを含みました。

味が胸に落ちていくのと一緒に、昨夜の星の囁きがかすかに形を取り直していきます。

――必ず再会は訪れます。喜びを伴って。

それは、心の奥をそっと支えてくれるようでした。



屋敷は、それから少しずつ速い呼吸を始めました。

衣装部屋では侍女たちの手が整然と動き、群青の生地や淡い灰青の布が明かりの下で重なっていきます。

午後には仕立ての最終確認が終わり、鏡の前で布の重みを確かめながら、セレスティアは胸元の銀糸に指先を滑らせました。


「派手すぎない方が落ち着くから、星の刺繍はこのくらいでお願いします」

「承知いたしました」


針が布をくぐる音が静けさの中で細く響きました。

そうして慌ただしい時間が落ち着いてきたころ、ルキアが訪ねてきたのでした。


「入ってもいい?」

「もちろん。――ちょうどルキアと話したかったの」


ルキアは椅子を引いて腰を下ろし、首をかしげました。

「顔が少し強張ってる。何かあったの?」

「今朝、招待状が届いて。アストリア公爵家の夜会に出ることになったのよ」

「まあ……すごいわ。でも、急ね」

「ええ。兄さまは平然としていたけれど、私はどうすればいいのか分からなくて」

「大丈夫。あなたなら堂々としていれば十分よ。慌てないで、息をひとつ置くだけで落ち着いて見えるわ」

セレスティアはその言葉にふっと笑いました。

「ありがとう、ルキア。そう言われると少し安心するの」

「ふふ、終わったらまた話を聞かせて。きっと素敵な夜になるはず」

ルキアの柔らかな声が部屋に残り、やがて扉が静かに閉じました。



夜会の当日。

屋敷の回廊に灯がともり、床へ細い光の帯が伸びていきます。

鏡の前で最後の確認を終えると、胸元の銀糸が淡く息をしているように見えました。


控えめなノックがあり、カシアンの声が扉の向こうから届きます。

「準備はできたか」

「できました、兄さま」

「行こう」


玄関へ出ると、夜の空気がやわらかく頬に触れました。

最初の星が輪郭を結び、門の外へ続く道に灯りの列が生まれていきます。

「セレス、足元」

「ええ。ありがとう」


馬車の段に足を乗せると、裾の刺繍が灯をひとつ拾いました。

腰を下ろしてから窓へ視線を移すと、庭の影が静かに後ろへ流れはじめます。

扉が閉まり、車輪がゆっくりと動き出しました。

灯りが後方へ流れ、石畳の振動が静かな鼓動のように伝わっていきます。


セレスティアは手袋の縫い目に指先を置き、胸の中で言葉にならない祈りをそっと形にしました。

外の空は群青を深め、星がひとつ、またひとつと増えていきます。

馬車は王都の灯の輪へと滑り込み、夜会の音が遠くでかすかに立ち上がっていきました。


心は静かに、しかし確かに前へ進んでいくようでした。

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