Caput III : Cena Lucernarum(灯火の夕食)
Sub lucernis auratis, voces leniter fluunt.
Mensae micant, quasi astra humilia.
(金の灯の下、声はやわらかに流れ、
卓は、低く瞬く星のようにきらめく。)
──────────
夕刻の屋敷は、昼の熱気を静かに手放していました。
長い廊下に吊された燭台の灯は、淡い金色の揺らめきを壁に落とし、石造りの床に映る影は、歩む者の足音に合わせてゆるやかに揺れます。
日が落ちてゆくとともに、廊下の空気はしんと冷えて、静けさの中に小さなざわめきだけが残りました。
広間へ続く扉を押し開けると、食堂の空気が胸に流れ込みます。
白布をかけた長卓の上には磨き上げられた銀器が並び、幾つもの燭台が灯火を揺らし、その光が器の縁に柔らかく反射していました。
従者たちは無駄のない仕草で皿を置き、卓の中央には香り立つ料理が湯気を上げています。
甘く香ばしい匂いと、肉を焼いた香りとが混じり合い、胸をくすぐるように漂っていました。
すでに席に着いていたのはカシアンとフェリクス。
二人は並んで軽く言葉を交わしていましたが、扉の音に気づいたカシアンが顔を上げ、セレスティア達に向けて穏やかな笑みを浮かべました。
「やっと来たな……待ちくたびれたぞ」
その声音は責めるのではなく、むしろ安堵と喜びがにじんだ兄らしい響きでした。
「お待たせしてごめんなさい、兄さま」
セレスティアは裾を整えて軽やかに一礼し、用意された椅子に腰を下ろしました。
向かいに座るフェリクスが、静かに微笑みかけます。
「こうして夕餉をご一緒できるのを楽しみにしておりました」
「ありがとうございます、フェリクス様」
礼を返したとき、ちょうど最初の皿が供されました。
芳醇な香りが卓に広がり、金の縁取りをもつ器の上で、温かなスープがやわらかく揺れています。
匙を手にしたセレスティアは、ふと昼間に味わった菓子の記憶を思い出し、抑えきれずに声を弾ませました。
「ねぇ、今日いただいたビスケット……陽だまりを溶かしたみたいで、幸せな味だったの!」
その表情は本当に楽しげで、頬を紅潮させた瞳は一層輝いています。
「お前は……甘いものの話になると止まらないな」
カシアンはため息をつきながらも、目元に小さな笑みを浮かべました。
「だって、一口で胸があたたかくなるんですもの。まるで春の庭に座っているみたいで……」
セレスティアは夢見るように語り、皆の視線を引きます。
フェリクスは興味深そうに首を傾げました。
「陽だまりに庭……聞いているだけで、こちらまで心地よくなりますね。ますます食べたくなりました」
「兄さまも食べてみたらわかるわ!」
「俺は晩餐で十分だ」
そっけなく返す兄の言葉に、三人の間に小さな笑いが生まれました。
そのやり取りを眺めていたルキアが、やわらかな声で新たな話題を添えました。
「そうだ、明日は王都で市が開かれるそうよ。菓子屋もたくさん並ぶって話みたい」
「まあ!」
セレスティアは椅子から身を乗り出すほどに瞳を輝かせました。
「だったらきっと、あのビスケットも見つかるはずよね」
ルキアは目元を和らげ、落ち着いた声音で続けます。
「市は朝から賑わうの。菓子だけじゃなく、布や飾り、広場では楽器の演奏もあるそうよ」
「まぁ……演奏も? 素敵! お菓子を食べながら聴けたら最高だわ!」
セレスティアがうっとりと声をあげると、カシアンが苦笑して肩をすくめました。
「街に出るなら、お前に似合うものを探そう。そうだな、リボンとか、髪飾りとか……」
「リボンよりビスケットの方がいい!」
即座の返事に、場の空気が一気に和みました。
従者たちの表情さえ、どこかやわらかにほどけるようです。
兄妹のやり取りに、フェリクスは喉の奥で小さく笑い、肩の力を抜いて言った。
「じゃあ、並ぶのは僕がやります。セレスティア様はゆっくり見ていてください」
ルキアは頷き、目元に柔らかな笑みを浮かべながら言葉を添えた。
「助かるわ。市は人であふれるもの。甘い匂いに気を取られていると、すぐに流れに巻き込まれてしまうから」
「迷子なんてもうならないわ!」
セレスティアがむっと頬をふくらませると、場がまた和みました。
「そういえば――」と、カシアンが妹へ目を向けます。
「まだ小さかったから仕方ないが、前に市で迷って泣いたこと、覚えているか?」
「兄さま、それは……!」
セレスティアは思わず顔を赤らめ、両手で頬を覆いました。
「人混みの中で立ち尽くして、『お母さま~』と……」
「やめて!」
慌てて声を上げる妹に、フェリクスが堪えきれず吹き出しました。
「失礼……でも、想像すると微笑ましくて」
「今はもう迷わないもの!」
セレスティアが小さく抗議するように言い返すと、ルキアが隣でやさしく笑みを浮かべた。
「ええ、今のあなたなら大丈夫ね。……でも、そのとき泣いていた姿もきっと可愛らしかったと思うわ」
「ルキアまで!」
再び頬をふくらませるセレスティアに、卓の笑いは一段と弾んだ。
◇
やがて従者が新しい皿を置き、香ばしく焼かれた肉料理と彩り豊かな野菜が卓に並びました。
外の夜気が窓から差し込み、灯火の明かりと溶け合うように室内を包みます。
談笑は尽きることなく、思い出と未来の話が交互に浮かんでは流れていきました。
杯を手にしたフェリクスが、少し真剣な声音で切り出します。
フェリクスが真剣な声音で告げる。
「護衛と道順は、僕が確認しておきます。人混みは危険もありますから」
「さすが、フェリクス」
カシアンは感心したように笑みを見せ、その言葉にルキアも静かに頷いた。
「ええ、あなたがいてくれるなら心強いわ」
セレスティアは胸の奥で温かな灯を感じ、自然に微笑みがこぼれました。
頼れる二人に囲まれている――その実感が、言葉にならない安らぎとなって胸に広がります。
カシアンはそんな妹の表情を見とめ、ふと視線をまっすぐに向けました。
少しの沈黙の後、わざと肩をそびやかし、冗談めかした響きを混ぜて言います。
「護衛や道順はフェリクスに任せるとして、俺は荷物持ちかな。重たいものからお前を守るのも兄の務めだからな」
セレスティアは思わず瞬きを繰り返し、「兄さまが……荷物を持つの?」と真剣に驚いた声をあげました。
その反応にフェリクスが吹き出し、「それは……なかなか珍しい姿になりそうですね」と肩を揺らします。
ルキアもくすりと笑みを浮かべて、「想像したら……少し愉快だわ」とやわらかく言葉を添えました。
「笑わないで!」
セレスティアは頬をふくらませたが、結局は自分もつられて笑ってしまい、卓の上には温かな笑いが広がりました。
その笑い声に従者たちもほほえみを隠せず、食堂全体が和やかさに包まれていきます。
灯火の下で、セレスティアは深く息を吸い込み、声を弾ませました。
「明日の市……とても楽しみだわ!」
凛とした響きに、カシアンは穏やかに頷き、フェリクスはやさしい笑みを浮かべ、ルキアは静かに「ええ」と応えました。
窓の外には夜の静けさが満ちていき、卓上の灯火は小さく揺れながらも、絶えることなく燃え続けていました。
笑みと安心が重なり合い、灯火の卓はやわらかな余韻に包まれていました。
その余韻は外の星々へと溶け込み、明日を待つ心をやさしく照らしていました。
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