第5話「痩せなさい! 1キロ太って1万の魔物を産む者よ!⑤」

「――っていう夢を見たんだけどさ。広瀬はどう思う?」


 尾本は隣の席に座る職場の後輩、広瀬ひろせあかりの反応を待った。


「先輩、あなた疲れてるんスよ」


 広瀬はちらりと尾本を見て、軽く肩をすくめた。彼女の黒髪ボブが軽やかに揺れる。

 時計の針はすでに正午を指しているのだが、広瀬はキーボードを叩く指を止めない。

 広瀬は入社四年目の二十六歳。会社の主戦力となるプログラマだ。

 年齢以上のあどけなさを残す顔立ち。その言動にはどこか子どもっぽさが残っており、場の空気を明るくするムードメーカーでもある。そんな彼女の笑顔がなければ、この殺伐さつばつとした開発室はもっと陰鬱いんうつな場所になっていたに違いない。


「よし、デバッグ完了っと……」


 広瀬が小さく呟き、キーボードを叩く手を止め、大きく背伸びする。どうやら、キリがいいところまで終わったらしい。


 広瀬の背伸びにつられるように、尾本も軽く肩を回しつつ、室内を見回した。


 ベンチャー企業ディープワイズ株式会社の開発室は十畳ぐらいの狭い部屋で、6人分の机が所狭しと並ぶ。だが、その狭い室内にいるのはシステムエンジニア(SE)の尾本と、プログラマ(PG)の広瀬のふたりだけ。

 たったふたりでシステム開発と運用……それは明らかに異常で、明らかにブラックだった。


「夢の中に、異世界の女神様が現れて?

 ダイエットしなさいって言われた?」


 広瀬はニヤニヤしながら、机の引き出し――通称〈広瀬ボックス〉を開けた。中には駄菓子屋のごとく、お菓子やカップ麺がぎっしり詰まっている。


「先輩、お歳はおいくちゅでちゅか?」

「今年で三十七ちゃいだよ。……つか、お子様広瀬にだけは言われたくねえな」


 広瀬は尾本の皮肉を笑って無視し、赤と緑のパッケージのカップ麺をふたつ取り出す。


「赤いヤツと緑のヤツ、どっちにするっスか?」


 尾本は、広瀬の机の上に置かれた豚の貯金箱に小銭を入れる。


「赤いヤツで……しかし、やっぱ痩せた方がいいのかな?」

「当然っスよ。健康診断が終わったからって油断しすぎっス。つか、また太りました?」

「そんなに太ってねえよ……たぶん」


 尾本は語尾のボリュームを下げながら、開発室の隅に置かれた姿見に映った自分の姿を眺めた。学生時代に散々サバゲーで鍛えた体も、今ではすっかり「中年のぽっちゃり」に近づいてきている。猫背気味の姿勢も相まって、どう見ても精悍せいかんさの欠片もない。

 今朝の夢で女神にも言われたが、十年で20キロ増……とくに、ここ二年間での10キロ増はたしかにまずいかもしれない。


「いや。やっぱ太ってきてるっスよ」


 広瀬が、容赦なく尾本の脇腹をポヨポヨとつつく。


「おっさん相手へのセクハラはよせ」

「うす」


 つっつく場所が、脇腹からほっぺたに変わった。


「……いや、つつく場所の話じゃねえ。

 でもまあ、ストレス太りはあるかもな。黒森くんが抜けた穴がデカすぎた」


 愁いを帯びた黒森くろもり真琴まことの顔がふと浮かぶ。半年前に同業他社に転職した、後輩のPGだ。彼が退職直後に黒森家の愛犬が亡くなるなどしてタイミングが合わず、最後まで送別会が開けなかったのが、今も心残りだった。


「黒森さんが辞めて半年もたつのに、補充のプログラマはまだ来ないんスかね?」


 広瀬がニ人分のカップ麺にお湯を注ぎながら尋ねてくる。


「求人はずっと出してるらしいけどな」


 ――だが、弊社の待遇の悪さを知れば、誰も応募などしてこないだろう。

 開発部六人のうち、三人はクライアント先でのオンサイト開発のため、他県の離島に出向中。それも、もう二年前の話だ。

 この二年間、尾本・広瀬・黒森の三人で、既存業務をこなしつつ、新規案件にも対応していた。そして半年前、黒森が「一身上の都合」で退職……。

 この半年間、尾本と広瀬のふたりだけで全業務を回してきた。

 そして、不運はまだ続く。離島に出向しているPGふたりが、牡蠣にあたって同時にダウンしたのだ。しかも、向こうでやってるのは公共案件。開発を一日も止めるわけにはいかないらしい。そこで、上層部の命令により、来週月曜から二週間、広瀬が一時的にサポートに行くことになっていた。

 つまり、その間はSEの尾本ひとりで開発室を回すことになる。もちろん、「SEとPGは別物だ」と上層部には伝えたのだが、上としては「SEはPGの上位互換」という認識を変えることはできないらしい。

 もう説得は諦めた……。

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