第30話
昼下がり——
病室の窓から差し込む光は、どこか遠く感じられた。
夏海は、ベッドの上で膝を抱えながら、静かに考えていた。
(……再発のことなんて、正直、考えてなかった)
智代が、再発という現実と向き合い、今まさに手術に臨んでいる。
その姿が、夏海の胸に重くのしかかっていた。
(……私は、頑張れるだろうか)
点滴交換に来た看護師に、思わず尋ねた。
「智代さんの手術、終わったんでしょうか……?」
看護師は、カルテを確認しながら、素っ気なく答えた。
「まだナースステーションに連絡来てませんね」
その言葉に、夏海は小さく頷いた。
けれど、胸の奥の不安は、さらに膨らんでいった。
昼食が運ばれてきたが、箸はほとんど進まなかった。
味がどうこうではなく——
智代のことが、気がかりで仕方なかった。
(……智代さんは子どもたちの写真を見て泣いてた)
(……生きたいって、言ってた)
その言葉が、夏海の胸に静かに響いていた。
時計の針が、ゆっくりと進んでいく。
けれど、待つ時間は、あまりにも長く感じられた。
手術は、8時間に及んだ。
智代のベッドを整える看護師の手が、どこか静かだった。
けれど——智代は、まだ戻ってこなかった。
気になった夏海は、再び看護師に尋ねた。
「智代さんの手術は……?」
そのとき、ちょうど通りかかった担当医の井上が答えた。
「工藤さんは無事、手術を終えて集中治療室にいるよ。
窓越しからなら会えるから、行ってくるといい」
「……先生、ありがとうございます!」
夏海は、胸を撫で下ろしながら、急ぎ足で集中治療室へと向かった。
その背を見送りながら、看護師が井上に小声で尋ねた。
「先生……よろしいんですか? あの子、まだ手術前ですよ」
井上は、少しだけ目を細めて答えた。
「見ておくのも、悪くないだろう。……でも、そうだな。不安になるかもしれないな」
集中治療室の前——
夏海は、慣れない機械音と心電図の電子音に、思わず肩をすくめた。
(……こんな音、初めて聞く)
ふと、窓越しに目をやると——
そこには、呼吸器をつけ、麻酔で眠る智代の姿があった。
ぐったりとしたその姿に、夏海は胸が締めつけられた。
ベッドのそばには、家族らしき人影。
スーツ姿の男性と、幼稚園くらいの女の子。
(……写真の子だ)
(……良かった。無事、終わったんだ)
夏海がそっとその場を離れようとしたとき——
男性が気づき、病室の外へ出てきた。
「あの、すいません」
「え?」
「智代と同室の方ですか?」
「はい……すいません、気になって来ちゃいました……」
夏海は、照れくさそうに頭を掻いた。
「そうですか……ありがとうございました」
「いえ……お互い頑張ろうって、昨日話したんです」
その言葉に、男性の表情が一瞬だけ曇った。
夏海は、そのわずかな変化を見逃さなかった。
(……あの顔、何かを隠してる)
けれど、問いかけることはできなかった。
今はただ、智代の無事を祈ることしかできなかった。
“ありがとうございました…。”
過去形…?
ううん…たまたまそう言う言い方になっただけだよ…夏海…変な考えしたらダメだよ…。
夏海は自分に言い聞かせるようにその場を離れ病室に戻った…。
病室から倉田が慌て顔で出てきた。
「倉田さん…?」
倉田が夏海に気がついた。
「夏海ちゃん…居ないから焦ったよ…。」
「え、あ…ごめんなさい…。」
「なにかあったんじゃって…。」
夏海の目から自然に涙が溢れてきた…。
「夏海ちゃん?」
その声にハッとして夏海は涙を拭った…。
「ごめんなさい…。」
「どうしたの…?なにかあった?」
夏海は沈黙した…。
なんて倉田に言ったら良いのかな…。
不安に押し潰されそうな気持ちわかってくれるかな…。
色々考えたが口から出た言葉は…。
「大丈夫…心配させてゴメンね!」
精一杯の笑顔てま笑って見せた。
倉田が、夏海をぎゅっと抱きしめた。
夏海は、震えていた。
もし——
治らなかったら。
再発したら。
その不安が、胸の奥で膨らみ続けていた。
倉田は、そっと耳元で囁いた。
「……大丈夫。大丈夫だから」
その言葉に、夏海は倉田の顔を見上げた。
その瞳は、まっすぐで、揺るぎなかった。
「……部屋に戻ろうか」
ふたりが病室へ戻ると、空きベッドに目をやった倉田は、何となく察した。
食事のトレイには、ほとんど手がつけられていない煮物が残っていた。
「食べて、体力つけなきゃ」
「……だって……」
「“だって”じゃないよ?」
倉田は、笑いながら言った。
「夏海ちゃんが食べないなら、僕が食べるよ?」
「……どうぞ」
「……あはは、参ったな……」
倉田は、煮物に箸を伸ばし、口に運んだ。
夏海は、その様子をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……美味しくないでしょ?」
倉田は、少し顔をしかめながらも笑った。
「……確かに。でも、夏海ちゃんのことを考えての食事なんだから、食べなきゃ」
その言葉に、夏海は小さく頷いた。
「……うん」
それは、ただの食事ではなかった。
命を守るための、そして未来へ繋ぐための——小さな一歩だった。
倉田は、面会時間ギリギリまで夏海のそばにいてくれた。
その温もりが、夏海の心を少しずつ落ち着かせていた。
ピンポンパンボーン♪
“間もなく面会時間の終了時刻になります”
「……もう?」
倉田が腰を上げようとした瞬間——
夏海は、そっとその腕を掴んだ。
そして——
唇を重ねた。
「今日は……ありがとうございました」
「うん。また来るよ」
「ロビーまで行く!」
「……あぁ、うん」
エレベーターに乗り込むと、夏海は倉田の服の袖をぎゅっと掴んでいた。
その手は、離れたくないという気持ちをそっと伝えていた。
「夏海ちゃん、明日澪、連れて来ようか?」
「え?」
「いや、澪も心配してるからさ」
「……うん」
エレベーターが止まり、ドアが開いた。
そこには、黒服を着た男の人が立っていた。
(……葬儀屋か)
倉田が、ぽつりと呟いたその言葉に——
夏海はピクッと反応した。
「……どうしたの、夏海ちゃん?」
「……ううん、なんでも……」
(もしかして……智代さん……?)
「……まさか、ね」
倉田を見送ったあと——
夏海は、静かに集中治療室へと足を進めた。
廊下の灯りが、彼女の影を長く伸ばしていた。
第31話につづく…。
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