受け入れること

 ユンロクが狩から戻るのを、ララは立ったまま待っていた。腕を組み、一歩も動かず、しげみと木々の揺れる様をにらみつけている。それが動物に揺らされるたび、ララは一つうなった。

 ララは考えることが得意ではない。それでも集落に戻るまでには石で殴られたようにある考えがララの頭に降ってきた。もしそれが正しいなら、すべての答えを知っているのはユンロクしかいない。


 ララと呼びかけたやさしい声。あれは長老の声でもなければ、聞き慣れたマリアウルの声でもない。呪術師のいつものしびれたような声でもなかった。あれが精霊の声だと言い訳すれば、そう誤魔化ごまかすこともできるかもしれない。

 しかしララはもう、マリアウルが生きているのを知っている。そうであるなら、もう一人だけ生きているはずの人がいる。


「ユンロク!」


 しげみからユンロクが顔を出すなり、ララは大声でその名を呼んだ。ユンロクはいぶかしげにララを見ると、獲物のウサギを仲間に渡す。矢筒やづつを腰につけたまま、ユンロクは身体にまとわり付いた草をつまんで払いながらララの元へ寄る。


「どうした、呪術師のところで聞いたか」

「知っててわたしを行かせなかったのか」


 ユンロクは柔らかい困ったような笑顔を見せる。そして声を落とすために、少しだけララに身を寄せた。


「昔はみんな知っていた。いまは誰も言わなくなったから、お前が知らなかっただけだ」

「わたしが精霊の子だからだろ」


 ララも小声で応じる。ユンロクは今度は目を丸くしておどろきの表情を見せた。その表情に、ララは自分の正しさを確信した。この集落は、昨日まで考えていたような姿をしていない。皆がそろって嘘をついている。おきてという名の嘘を。


「呪術師の仮面の下にも、腕にも、見たことない傷がある。それにユンロクが生きている間で、あの儀式がマリアウルと別に一度だけあった。ユンロクの妹だ」


 集落に吹き込んだ風がララのほほを撫でた。川岸で歌っていたあのときのように、ララの身体をいくつもの筋がうず巻くように感じていた。その筋はユンロクからもつながっている。きっと呪術師からも。


「いまの呪術師は、ユンロクの妹だった。兄妹で子を身籠みごもったから、儀式で死んで呪術師になった」


 ユンロクは黙ってうなずいた。だからララが呪術師のところに行っていると知っていたんだ。きっと妹の様子を時折見に行っていたに違いない。呪術師も兄にはララのことを話したのだろう。


「でも本当に死んだわけじゃない。お腹の子だってそうだ。あそこで産んだんでしょ?」


 口をつぐんだユンロクのほほにも風が吹く。ララの瞳はめるでも、悲しむでもなく力強かった。今やララの身体には無数のひもり合わされている。ララがここでこうして生きていることは、この大地パラと集落の人々のささやかな願いが生み出した、固い固いひもだった。

 いつにないララの表情に、ユンロクもやがて観念する。ゆっくりと深く、瞳を閉じたままうなずいた。


「それがちゃんと育ったから、ユンロクが預かって森に連れて行った。それで小さな子を抱えたまま森から出てきて、大嘘をついたんだ。精霊の子を拾ったって。だから……つまり……呪術師がわたしの本当の」

「それより先は言ってはいけない、ララ。俺たちも教えてはならなかった。だが、よく考えたな」


 ユンロクはララの頭をつかむようにでた。まるで薬草をとってきた子どもをめるみたいに、温かみのある腕だった。成人する少女にれるのはふつう許されない。しかし同じ一族のめいなら、これをとがめる者はいないだろう。


 つまりララの考えが正しいことを、それに自分で気づけたことを、は認め、一族としてめてくれたのだ。それは「ララ」と呼びかけたあの声の次に、彼女が受け取った親族としての愛だった。


「俺たちはあのとき、お前を生かすことを選んだ。全員が知っているわけでもない。もちろん怪しむ者もいたし、そのときの長老はいい顔をしなかった。だがな、今の長老が説得した。お前を妻送りに出すまでの間なら、黙っておけば村は乱れないとな」


「長老って、マリアウルのおばあちゃんの?」


 呪術師のところでララをにらんだときの顔が浮かぶ。


「お前とマリアウルが親しくするのは好かなかっただろうな。マリアウルがこんなことになって、お前を生かすことにした自分への罰だと思っているだろう」


「だったらあいつを追放すればよかったのに。兄ぃのほう」


「あれもが仕方ない。弟みたいに罪を背負うと、代わりに一族がおしまいになる。だからああやって女に罪を全部渡して、なんとか言い訳して一族を残す。そうやってやってきたんだ」


「ひどいね」

「まぁ……それはそうだな」


 不思議とララの心には怒りがき立たなかった。マリアウルが名前を失ったのは、そのくだらない言い訳のためだ。やさしいユンロクが一族を滅ぼすのは、そのくだらない言い訳に自分で納得できなかったからだ。だがララがこうして生きているのも、そのくだらない言い訳に守ってもらったからだ。

 おきてとか決まりとか言われてきたものは、ララたちを重たく押さえつける岩ではなかった。ずっと憎かったものにこそ、ララは守られてきた。マリアウルと兄ぃがもろからで守られ続けたように、許されない子だったララもまた、おきてが用意した小さな屋根に守られ続けている。


 ——精霊の子。


「今度の精霊の子もちゃんと大きくなるかな」

「どうだろうな。まず無事に育つかどうかだ。しばらく生きれば、精霊の子として迎えられる」


 集落のあちこちでさばいた獲物が火にかけられはじめた。女たちは集めた草と豆を煮ている。それぞれの一族が食べ物を分ける。ユンロクの取ったウサギも、別の一族で分け合おうとしている。ユンロクは手で合図をして、自分の分とララの分を残すように伝える。相手はそれが当たり前のことのように、座ったまま適当に返事をした。

 すべてを知ってみると、おきてが守ろうとしていたのは、このなんでもない営みそのものだった。なぜララにも食料を分け与えるのか。それはなぜユンロクから渡されるのか。なぜそれぞれの一族で食事を分け合うのか。なぜララはすみで寝て、兄ぃはあの一族で寝ているのか。なぜ一族なんて決まりがあるのか……

 どんどん大きな話になるようで、結局は小さな話だった。生きていくとは、そういうものなのだ。


「あれ? 男の子だったらどうするの? 妻贈りで追い出せないよ」

「誰かの一族に入る。別の一族じゃないとダメだがな」

「ふぅん」


 なんだっておきてで決まっている。妙なことが起こっても集落が困らないように。ずっと昔から、いろんな人が頭を悩ませながらおきてを作ってきたんだろう。

 想像できないほど長く続くものを、ララは川のほかに知らなかった。だからララはその長い長い集落の日々を川のように思い描いていた。それは長老が生まれるよりも前の、そのまたずっとずっと前の昔からはじまって、いまララのところに流れている。

 その川の流れのうえで、みんなが長い長いひもみ上げてきた。それがおきてだ。何が起きても切れないように。一族の生活が続いていくように。そのひもがララの命も守ってくれた。会ったこともない昔の人たちの優しさに、ララは静かに感謝する。


「もし男の子だったらさ、ユンロクの子どもにしてあげてよ」

「あ?」

「精霊の子の父親役、いい感じだったよ。それに一族も残るし、ほら、わたしいなくなったら、新しい“セキニン”欲しいでしょ?」


 ユンロクは苦笑いしたが、やらないとは言わなかった。

 どこまでも真面目でやさしい男。それがユンロクだ。ララはこの何日かでそれを知った。だからユンロクになら、マリアウルの子を任せられる。


「そうだ、。最後のお願い。明日ひもを作りたい。呪術師のところに草は集めたから、みんなに配ってちょっとずつ分けてもらって、わたしにちょうだい。このくらいの長さで作るから」


 ララは両手で紐の長さを示す。ユンロクは柔らかく笑った。


「全部わかった途端とたんに人使いが荒いな」

「いいでしょ、

「他でそう呼ぶなよ」


 ララは悪戯いたずらっぽく笑った。

 雨上がりの森を抜けてきた風が香る。ララは胸いっぱいにそれを吸い込んだ。すべてが生まれ変わったような新しい風が胸を満たしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る