生き続けること

 雨が上がったのは、ララが旅立つ二日前のことだった。芋の畑はどうともなっていないという報告がすぐにあって、次には何人かが川に向かう。小屋に追い立てられていた犬と大ネズミがまた広場に放たれる。そうしているうちに広場のすみで火が起こされ、川から戻った一団が持ち帰ったしんかわいた木の切れ端がべられる。その周りでは次のまきの乾燥が始まった。川の水はかなり増していたが、二日あれば流れて戻るだろうと男たちは言い合っていた。


 もう誰もマリアウルの話などしていない。


 ララは雨上がりの湿しめった匂いを胸に吸った。もうユンロクはララを止めない。マリアウルの儀式は終わったのだ。マリアウルは死んだ。呪術師の元で、腹の子もろとも死んでしまった。


 しげみをかき分けると、あの日抱えていた草と石が泥にまみれて散っている。もう杖を作り終えることはない。あずけてある飾りひもと作りかけの杖を受け取るために呪術師の元へ行くのも、どこか間違っているような気がする。


 呪術師はマリアウルを殺した。


 いやマリアウルを殺したのはマリアウルの罪、兄ぃの身勝手さ、ララの臆病、ユンロクの意固地さ、そして何より村のおきてそのものだったのかもしれない。そうだとしても、おきての通りに最後に手を下したのは呪術師だった。それだけは、どうしてもくつがえしようのないことだ。

 雷雨の中で、ララは何度も呪術師を許そうとした。ユンロクのことも許そうと、心の中で言い続けた。そうするべきだとはわかっている。どうしたらこの心を抑えて二人を許せるのか、マリアウルと相談したかった。


 しかしララにはもう日がない。心の中であれこれ言い訳をつけて、ユンロクや呪術師と話す理由を作り出したり、落ち着くまで眠り続けたりなどできるわけもなかった。

 だからこの泥のような気持ちを抱えたまま、ララは歩かなければならない。足を泥に汚して、草木のつゆびながら、ララはあの荒屋あばらやへ向かう。マリアウルの最期を知るために。


 荒屋あばらやが近づくにつれ、張り詰めたつたを震わすようなあの歌声がれ聞こえた。呪術師もまた、マリアウルを忘れて日常へ戻ろうとしている。あの日が続いているのは、もうララだけだ。最後のしげみを出ると、平たい石の上に赤い仮面と全身をおおみのが座っていた。ララを見ると、大きく息をついて肩を落とす。


「マリアウルの最期を教えて」


 間髪かんぱつ入れずにララはつかみかかるほどの勢いで呪術師に迫った。呪術師は杖を鳴らしてララの鼻先に突きつける。


「聞いてどうする」

「忘れないで生きる。マリアウルはわたしの一番大切な人だった」


 答えに迷いはない。ララはこの集落で何一ついを残したくなかった。


「あの灰はたましいを殺す。つかまれたとき、お前の身も焼けるように傷んだろう」

「マリアウルは身体中に塗られた」


 呪術師は黙ってうなずく。ユンロクがすぐに水で流したおかげで、ララに傷は残っていない。あれを身体に塗られてああも長く置かれていれば、その身体にはひどい傷ができただろう。

 女の身体を集落の男全員で傷つけるのだ。それはむごい儀式としか言いようがない。しかしすべての男がためらいなくマリアウルを傷つけることができたからこそ、集落に父がいないと言える。それができないなら、ユンロクの弟のように先に死ぬしか道はない。


「あのあとこの小屋で一晩手足をしばる。そうすれば身体に傷となってきざまれ、邪霊も別人と見間違う。その死体を邪霊がうばうことがなくなる」


 という言葉にもララはひるまない。とうに覚悟していたことだ。マリアウルはもうこの森のどこかでありに食われている。ララに望むことができるのは、彼女が生きたままそうされていないことくらいだ。


「マリアウルがつけてた赤い石のひも飾り、取ってない?」


 呪術師は首を振った。


「どこかに落ちたんだ。帰りに見る」

「それはしなくてよい」

「死者の飾りは不吉だって言うもんね。でもあれはマリアウルのだし、それはこの集落の決まりで、わたしの行く知らないところではそうじゃないかもしれない」


 仮面の奥から深いため息がれた。次には立ち上がると、杖を両手で持って低い声で祈祷きとうを始めてしまう。ララはもうひとときも呪術師を待ちたくはなかった。


「母に会わせろって言ったけど、あれはもういい。もらった草を雨に濡らしてダメにした。杖が間に合わない」


 祈祷きとうが止まった。かと思うと木々を指差し数えるように高い声でトゥントゥンと言い始める。ララはそれも相手にせず、言葉を続けた。


「あんたのことも、ユンロクのことも、正直全然許せない。でもきっと二人とも正しいことをしたんだと思うようにしてる。だから預けてたひもと石、返して。ちゃんと仕上げて渡す」


 呪術師はようやく動きを止める。しかし荒屋あばらやに向かう様子はない。ただじっとララの瞳を仮面の底から見つめたかと思うと、また杖を突きつけた。それでも瞳はララを睨んでいる。


「なに?」


 ララは口をとがらせる。しかし呪術師はまったく飾りひもを取りに行く気配がない。


「何が不満なの? 決まり守らないから? いいでしょ、どうせすぐにいなくなるんだよ」


 呪術師は木のように動かない。しかし仮面の奥でまぶたが閉じた。その様子は、珍しく人らしく何かを考えているようだった。

 しばらくすると森で鳥の高い鳴き声がひびく。次にはたちが騒いだが、やがて静かになった。いくつもの風が吹いても、呪術師は身動き一つせず何かを考えている。ララに何を伝えるべきか、真剣に考えているのだ。そしてこれほど悩むのであれば、それはこの集落を立つララにとって、きっと意味のあることを言おうとしているに違いない。呪術師の考えがララにわかったのは、これがはじめてのことだった。

 ひもと歌の礼もある。ララは今しばらく、呪術師の悩みを待つことにした。集落の外に暮らし、精霊と言葉を交わし、すべてを知っている呪術師をして決めかねるようなことだ。日がかたむくまででも待って、そうしてひもを受け取って帰ればいい。


「弟子を取った」


 ようやく呪術師の口から出たのは、ララが全く考えなかった言葉だった。


「そうなんだ」

「今は精霊と言葉を交わせるまで、口を開いてはならない。だから決して言葉を交わすな」


「会っていいの?」


 ひとつうなずくと、呪術師は荒屋あばらやへ向かう。れた草をめくって中に呼びかけ、そこにいる誰かにも口を開かないよう念を押す。杖を持った手を振って外へ招き出されたのは、もう一人の呪術師だった。つまり土のような緑の仮面をつけ、全身をみのおおった姿をした何者かだ。


 しかしララにとって、それは彼女でしかあり得なかった。


 その指。背格好。足先。腕につけた赤い石の飾り紐。

 肌にひどい傷がついていても、ララがそれを別人と見間違うはずもなかった。


「マ」

「あん!」


 口にした名を、呪術師が大声で埋めた。すぐに杖で叩かれたあたり、それだけは絶対に禁忌タブーなのだろう。そうだ、マリアウルは死んだ。少なくとも、儀式のうえでは。

 マリアウルは話すこともれることも禁じられているのだろう。ただ両手を強く握ってうなずいた。仮面の奥の瞳は、悲しそうだったが、決して輝きを失ってはいない。ララは抱き合いたい衝動しょうどうを必死にこらえて、その瞳に力強いうなずきを返した。


「これに名はない。そのうちただ呪術師とだけ呼ばれる。マリアウルは死んだが、弟子ができた」


「きっとすぐ精霊とも話せるよ。絶対才能ある。そんな気がする」


 ララの口をついて、次から次に言葉が出てくるのを抑えることができない。


「そうだ、もしいいんだったら、わたしの杖を使わせてあげて。作りかけだけど、精霊の子が作ったんだから、きっとどんな杖より精霊も気にいってくれるでしょ?」


 マリアウルは呪術師を見る。仮面の中でまた深く息をついたが、呪術師は投げやりに「好きにせい」とだけ言った。ララはいよいよ目からあふれるものを抑えられなかった。笑顔のまま、一つ二つと涙が流れる。


「すっごい呪術師になってさ、気に入らないやつなんてみんな呪い殺しちゃってよ。できるよ」


 また呪術師に杖で叩かれる。ララはそれさえも嬉しく感じて、へらへらと笑ってしまう。


「よくはないのかもしれないけど、でもよかったって思おう。この人は変だけど悪い人じゃないし、いろんなこと知ってる。わたしにも優しいから、そこも一緒。ここだと寂しいかも知れないけど、精霊たちがたくさん話してくれるだろうし、わたしも向こうで精霊たちにお願いして言葉を伝えるから……その、精霊と話せるようになったらだけどさ」


 向こうの集落にも呪術師と精霊がいるのだろうか。ララはきっとその教えを受けようと心に決める。歌がララと大地パラを結びつけたように、精霊たちはララとマリアウルをつないでくれるはずだ。マリアウルも力強くうなずく。言葉は禁じられていたが、二人の思いははっきりと通じた。


禁忌タブーではなかったか、呪術師」


 ララの背から老婆の低く冷たい声がした。

 振り向けばそこにはマリアウルの祖母、長老の姿がある。長老はマリアウルの姿に全くおどろかない。まるでこうなることを全て知っていたかのように、落ち着いたまま三人のもとへ歩み寄る。


「帰れララ。ここに来ることを二度と禁じる」

「なんで」


 長老は答えなかった。ただきつくにらみ、ララのほほを張った。


「帰れ」


 ララは今一度マリアウルを見て、黙って歩き出す。道はまだぬかるんでいる。


「ララ」


 聞いたことのないやさしい女性の声で呼びかけられる。しかし振り向いても声の主は見当たらない。ただ呪術師が何かをほうった。


 ララが受け取ったのは緑に白い筋の通った石のついたひも飾りだった。


「いろいろありがと! お母さんの精霊に会ったら、向こうで元気にしてるって言っといて!」


 飾りひもを握った手を振って、最後にもう一度マリアウルを見る。寂しさの中で、優しく笑みを作ってみる。


「ほんとにさよならだ」


 ララは小さな声でそう言って、ぬかるんだしげみの中に踏み出した。

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