ララとユンロク

 雨は激しさを増していた。儀式を終えた人々は、いつものように屋根の下で退屈そうにしている。今のララには、それさえ許し難かった。反対側で兄ぃがわざとらしく大きな声で話している。ララを指差して、何かひどいことを言っているに違いなかった。ララはひざを抱えて顔をうずめる。


 もうマリアウルはいない。どこにも。


 隣には、あれからずっとユンロクがいた。その横顔は寂しげだった。しかしそのユンロクも、マリアウルにあの泥を塗っている。ララはまだユンロクとも話す気にはならなかった。

 どんなに理由があっても、それをされるべきなのは兄ぃの方だ。ここにいる全員で、アイツを袋叩きにするべきだった。

 ただ雨の音だけが包む屋根に、ユンロクが口を開いた。


「前に一度だけ、あの儀式があった」


 言葉を一つ一つ置くように、ゆっくりと、丁寧ていねいに語り始める。


「俺の妹が妊娠したときだ。そのときも、精霊は誰も焼かなかった」


 ユンロクに妹がいたなど、聞いたことがなかった。しかしあの儀式でさばかれたのなら、その相手はユンロクということになる。なら兄ぃと同じだ。ララは心の底で怒りが震えるのを抑えた。


「皆が妹の妊娠に気づく二日前だった。俺は弟に頼まれて、二人で狩に行った」


 ユンロクに弟がいたことも、誰も語ったことはなかった。まるで集落の全員がそれを隠しているようだった。だからそれを聞いただけで、ララにも全てがわかった。ユンロクではなく、弟の子だったのだろう。


「弟は様子がおかしかった。一人で森の奥まで進んで行って、矢もつがえようとしなかった。はなから狩りに出たんじゃないんだ。顔は青ざめていて、まるで……」


 ユンロクはため息をついた。沈黙を雨音が埋める。


「俺は気づいていたんだ。弟たちのことに。でも黙っていた。お前もそうだったんだな。辛かっただろう」


 ララはひざあごうずめて、ユンロクを横目に見る。鼻を鳴らすように、弱く返事をした。でも一番辛いのはマリアウルに違いない。同情を寄せるなら、マリアウルにしてあげてほしかった。今ならまだ助けられるかもしれないのだから。


「あの兄妹は仲がいいとは思っていたが、俺は気づかなかった。歳だな」


「だけど精霊はアイツを焼かなかった」


「そうだな。だがお前に焼かれた。ここの皆が知ったよ。でも黙ってる。そういうもんだ」


 ——


 どうして黙っていられるのか。ララの心の奥底で再び怒りがうずを巻く。マリアウルがどんなに勝手な娘として振る舞ってきたのかは知っていた。でもそうさせたのはあの男だ。あの男が妹に手を出さなければ、マリアウルがあんなやつにれるわけがない。ララは確信を持ってそう言えた。


「弟の時もそうだった。あの頃は皆が儀式を知っていた。だから弟は自分が焼け死ぬことになると信じていたんだ。あいつは言ってたよ。『いっそ焼け死ぬべきだ』ってな」


「でも焼かれなかったの? それでみんな黙ってたの?」


 ユンロクが静かに首を振って、ララは目を伏せた。土に塗れた足の先で、雨水が泥をはじいている。集落はにごった泥水に満たされていた。


 ——精霊は誰も焼かない。どんな罪を犯しても、精霊なんて——


「全部嘘なんだ。呪術師も、精霊も」


 きっとララに命を与えた精霊もいない。全部嘘だ。ララには母がいない。稲妻がとどろく。まるで結びついていたはずのひもたちが荒々しく引き裂かれる音にも聞こえた。


「それはわからない」

「なんで」


「弟は儀式の前に死んだ」


 ララは目を丸くした。ユンロクは次の言葉を求めて、一度口を開いたが、また沈黙に沈む。ただ彼は自分の手のひらを見て、握り、そして開いた。まるで自分に何かを問いかけ、それに答えようとするように。

 ユンロクは握りかけた拳を閉じきれないまま、ララと同じ泥水を見て、ようやく言葉を続けた。


「俺が殺した。あいつに頼まれた」


 ララの中で天地が返るようだった。ユンロクはここにいる誰よりも温厚で優しい男だ。ララを蹴ることもののしることもない。そのユンロクが、人を殺したことがあるなど、信じられようはずもない。まして自分の弟を手にかけるなど、このユンロクがするはずもないことだ。

 しかしユンロクは淡々たんたんと言葉を続ける。降り出した雨が止められないように、隠されてきた秘密が流れ出した。


「毒矢だ。皆には間違って当たったと言った。だが薄々気づかれたろうな。ほんとうは、あれに頼まれたんだ。『もし俺が焼け死ねば、妹の子は禁忌きんきの子になって、妹も子も殺されてしまう。そんなことにはしたくない』……そんなことを言っていた。本当の覚悟だったよ。俺も一族の名誉のためには、それしかないと思った」


 その口ぶりは、ララを信じさせるには十分だった。ももの上に力無く広げた両腕を、ユンロクは目を細めて見ている。その腕の中で弟が死んだ日のことを思い返しているのが、ララにもわかった。まだ弟の重みが残っているのだ。毒を受け、泡を吹いて、それでも兄の決断に感謝し、最後まで妹の幸福を祈りながら死んだ弟の重みが。

 もしララが自分の命でマリアウルを救えたなら、きっとそうしただろう。それよりも意味のある命なんて、どこに行っても得られない。しかしララの命はマリアウルを救うには軽すぎる。ユンロクの弟の気持ちが、少しはわかる気がした。


「妹と子どもはどうなったの?」


 ユンロクはまた首を振る。


「皆が怪しんでいたからな。誰も父を名乗り出なかった。弟が死んだ理由もみんなわかったはずだ。儀式があって、誰も焼かれずに、妹は森に連れられて殺された」


 ララの胸がえぐり取られた。乾いたはずの涙がまた込み上げる。


「マリアウルは違うよね? 戻ってくるでしょ?」


 ユンロクはララの瞳をじっと見て、静かに重く、首を振った。


 ララは立ちあがる。ひざに力が入らない。一度泥に手をついて、ようやく雨の中へと進み出る。雨がなんだ。進もうとした腕を、ユンロクが引いた。ララは雨水の中でその腕を振り解こうとする。


「行かないと。マリアウルが……助けないと」

「もうマリアウルは死んだ。あの儀式の灰は、たましいを殺す。邪霊に子を産ませないためだ。皆にとって、マリアウルはもう死者だ」


「わたしにとってはマリアウルはマリアウルだ!」


 稲妻が光って雷鳴がとどろいた。ユンロクの腕をどれほど振りほどこうとしても、その腕は固く結ばれていた。


「そう思うなら、今は行くな。儀式はやり通さなければならない」


「意味わかんない!」


 ララは集落にひびくほどの大声で怒鳴どなる。


「いっつも儀式とかおきてとか言ってさ! ちゃんとマリアウルを助けてよ! マリアウルがいなかったら、わたしが生きてても意味ないんだよ!?」


「俺は弟を助けられなかった! 妹もだ!」


 ララが初めて耳にしたユンロクの怒声どせいだった。


「だが、それで正しかったんだ。あいつらが罪を犯したからじゃない。物事が正しく進むには、それしかなかったからだ」


 ユンロクの力強い眼差しがララに何かをうったえていた。


「どうしようもないんだ、ララ。俺たちにできることはこれだけだ」


 有無を言わせない態度に、ララはなおもにらみ返す。


「もしお前が行けば、俺はお前を毒矢で射殺す。決して行くな」

「そんなことできないくせに」


「ああそうだ。だからやらせるな。二度とやりたくない」


 何が『どうしようもない』のだろう。なぜユンロクは、弟や妹さえも殺してしまったこの儀式を信じていられるのだろう。もっと他に『できること』があるんじゃないのか。

 ララは心の中でき起こる疑問と感情を抑える術を知らなかった。ただその身を雨の下に晒して、何度も何度も、言葉にならない叫び声を上げ続ける。屋根の下の人々はララを嘲笑うでも同情するでもなく、まるで犬の遠吠えでも聞いたようにチラと見るだけだった。

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