抗えないこと

 また数日後の午後、遠くで雷が鳴った。森も湿しめった風にざわついている。それでもララは呪術師のところで歌をもう一度聴かせてもらい、歌いながらひもを作っていた。もう新しい杖にはいくつかのひもが付いている。まだ振ってもいい音はしなかったが、精霊と語れる日がもう近くに来ているという期待は、ララの胸をはずませていた。

 しかし雷雨になれば、呪術師のところに通うのは難しい。ララはいくつかの草束と石をもらって帰ることにした。集落でこれを続ければ誰かにとがめられるかもしれない。しかし残された時間で杖を完成させるにはそれしかなさそうだった。


 だからいつものように草陰から集落を覗き見たとき、その腕には乾かした草と石が抱えられていた。そのときララはそれをすべて落としそうになって、ようやく抱え直した。それでも、立っているのは難しかった。


 マリアウルが両手をしばられて、広場の中央に引き立てられていた。腰蓑こしみのがされて、ただ頭にララの渡した飾りひもだけが残されている。


 その状況が意味するものは明らかだった。マリアウルの秘密が知られてしまったのだ。しかしそうだとすれば、兄ぃもこの広場のどこかで打ちえられていなければならない。ララは場所を変えて、別の草を手で押さえてあたりを確かめる。兄ぃは他の兄弟や親と一緒にその様子をただ見ていた。


 木を組んで縄でしばって作られた台に、マリアウルは両手をあげてしばり付けられる。ララの全身は怒りに震えていた。


「呪術師を呼べ」


 そう指図する長老はマリアウルの祖母だ。その目はけわしく、およそ愛情らしいものは感じられなかった。まるでけものか敵を見るような目だ。


「この集落の男でお前と交わったという男はいない。それは邪霊との子だな」


 マリアウルが力無く何かを言い返した。しかしその言葉はララには届かない。


——どうすればいい?


 ララはいっそう身をかがめて、気配を消そうとする。しかしマリアウルを助けられるのは自分だけだともわかっていた。といってあのひもを切ることも、台を壊すことも、ララにはできそうにもない。駆け寄ってマリアウルを許すよう懇願こんがんしても、誰も聞く耳を持たずり捨てられるだけだ。

 足が震えていうことを聞かない。こんな日がいつか来るとはずっと考えていた。その日を目にすることなくこの集落を去るのだと、小さなずるさを抱きもした。しかしなによりも、こんな日など来ないでほしいと心から願ってきた。その光景はララが想像しうる限りで、最も恐れてきたものだった。


 別の草陰から、呪術師を連れて男たちが姿を表す。その手には木をえぐって作った水瓶みずがめが抱えられている。呪術師はまずマリアウルの元に寄って、そのほほに触れて何かを言った。杖をがしゃがしゃと震わせて、呪文を唱え始める。足踏みといい舞といい、その動きにはいつにない不気味さがある。


 水瓶みずがめにごった水に、呪術師は何か薬を加えた。杖先でそれを混ぜると、大きな声で呪文を唱え始める。その声はいつもに増してしびれ、どこか途切れ途切れにも聞こえた。だからというわけでもないが、それはララも初めて聞く呪文だった。

 やがて詠唱えいしょうを終えた呪術師は、またマリアウルの耳元に身を寄せ、何かを話したようだった。マリアウルがそれに応じる素振りはない。

 呪術師はわざとらしく杖をガシャガシャ言わせながら、ゆっくりと振り返った。そして村中の男たちを仮面の下でにらみながら、大声で警告する。


「男たちはこれを指につけ、この者に塗る。もしこの者の子の親がこれをやれば、そのいつわりが邪霊を招き、たちまちその身は燃え上がって食い尽くされるだろう!」


 呪術師はそれを三度繰り返す。

 ララはまた兄ぃの表情をうかがった。その顔から血の気が引いている。やはり兄ぃの子には違いないのだ。だったらなぜ、マリアウルへのこんな仕打ちにのうのうと立っていられるのか、ララは怒りに奥歯をめる。


 男たちが次々に泥を三本指につけ、マリアウルの身体にで付けていく。美しく日に焼けていたマリアウルの肌は、たちまち泥の筋に満たされる。マリアウルが身を震わせて泣いているのが、遠目にもわかった。


 その様子に、ララの目からも涙がとめどなく流れ落ちる。今すぐ行って彼女の身体を抱きしめてあげたかった。しかしそれが許されないことくらい、ララにもわかっている。


 これがマリアウルと兄ぃの犯したつみの果てなのだ。


 呪術師は順に水瓶みずがめを示して男たちを招いたが、兄ぃを呼んだのはその最後だった。呪術師は兄ぃとマリアウルの関係を知っている。きっと兄ぃに考える時間を、愛するマリアウルが屈辱くつじょくを受ける様に、怒りを燃やし、覚悟を決める時間を与えたのだ。

 ララは兄ぃにすがるような期待を寄せていた。マリアウルを救いうる唯一の男は兄ぃだった。罪を認め、許しをい、マリアウルだけでも助けるよう、その身を破滅させる代わりに懇願こんがんできるのは、兄ぃその人をおいて他にいない。


 差し出された水瓶みずがめから泥をすくって、兄ぃはマリアウルの前に立つ。その指は、マリアウルのひたいに下され、涙に濡れたほほを汚した。


 兄ぃは天をあおいだ。まるで雨の降るのを待つように。ただ木々の揺れる音だけが聞こえる。


 兄ぃの身体から、炎が出ることはなかった。呪術は、精霊たちはマリアウルを裏切ったのだ。


 兄ぃが顔をおろし、再びマリアウルを見たとき、ララは抱えていた全てを手放して、しげみから駆け出した。


 彼はあざけりの表情を浮かべていたのだ。マリアウルを侮辱ぶじょくする表情を。


 ララは叫びながら兄ぃに飛びかかり、馬乗りになって殴りつけた。何をしているのか、何がしたいのか、ララ自身にもよくわからなかった。


「お前が! お前! 死んじまえ!」


 兄ぃに腕をつかまれた。焼けるような痛みが走る。だが痛みがなんだ。マリアウルの心を思えば、そんなものがなんだと言うのだ。

 ララは声をあげてつかまれていない右の腕を振り抜く。左の腕も相手から引きがして、もう一度左右で殴りつける。

 次の腕が空を切った。ララの身体が浮かび上がる。別の誰かが横から組みついたのだ。誰かの肩の上で、ニヤついた兄ぃの顔が遠ざかっていく。


 マリアウルが、遠くに行ってしまう。


「離せ! あいつは! あいつが!」


 ララは抱え上げられた肩の上で暴れたが、次には投げるように下され、腕に水をかけられる。

 ララを抱えていたのはユンロクだった。


「ユンロク! なんで! あいつだ!」

「儀式は儀式だ」


 ユンロクはララの左腕をつかんでその肌を確かめた。そのまま腕を強くつかまれ、ララは立つこともできない。


「すまない。続けてくれ」


 ユンロクは広場に向けてそれだけを言う。広場の中央で、立ち上がって土をはらった兄ぃが大声をあげた。


「儀式をしても俺にはなんともない! こいつは邪霊と交わったまわしい女だ! すべての精霊が俺に罪がないことを示した! 黙れ、精霊の娘が!」


 ララはもう一度怒りに踏み出そうとしたが、ユンロクに首を抱えて止められる。


「何も言うな。耐えろ」


 ユンロクの声はララにだけ聞こえた。


「許せない」

「許さなくていい。今は耐えろ」


 涙ににじむ視界の先で、マリアウルの身体が震えている。その悲しみとむなしさに寄り添えないことが、ララには耐え難かった。


「マリアウルのとこに行かせて」

「ダメだ。儀式は儀式だ」


 雷鳴がとどろいて、雨が降り始める。儀式を終えたマリアウルは、乱暴に腕の縄を引かれて泥の中に転がされる。ようやく立ち上がると、その背を兄ぃにられまた泥に倒れた。

 ララは再びみ出したが、ユンロクはなおもそれを許さなかった。立ち上がったマリアウルは、なんとか半身はんみを返して、ようやく認めたララの姿に大声をあげた。


「ララ! ごめんね!」


 誰からともなく投げられた石がマリアウルのひたいを切って、雨と泥にかすかに血が混じった。


「助けに行くからね!! 絶対!!」


 ララは声の限り叫んだが、マリアウルの姿はすぐにしげみの中に消えてしまう。ただ雷鳴と雨音だけが、あたり一帯に残された。

 ララは大声をあげて泣き崩れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る