結びつけること

 川岸に歌声があった。

 川はひどくにごっていたが、流れは穏やかだった。深い森の中に暮らして、川の景色だけが開けた大空を感じさせてくれる。青空には雲もあった。それでも集落から外れたこの場所は、ララが好きな場所の一つだった。

 増水期を終えた川岸では、ごつごつと硬く黒い岩肌が現れる。川がどれほどの泥を押し流しても削れない、不思議な岩だった。その上を裸足はだしで歩くと怪我けがをすることがあるほどで、ララも自分で作ったばかりのひもで木の皮を束ねて足に結んでいる。


 歌声の主はララだった。呪術師に習った歌を真似ている。まだ全てを覚えたわけではなかったが、好きな節回ふしまわしのところを飽きるまで適当に繰り返している。それでも初めて歌うとは思えないほど、ララの歌声は伸びやかで美しかった。


 また一つの岩の柱に近づいて、ララはその根元の岩に詰まった泥をき出す。何度か泥をすくうと、底の方に石が転がっていることがある。そうした中には、色付いた綺麗きれいな石がまぎれていることがあるのだ。ララの髪飾りも、そうやってマリアウルと一緒に見つけた石だった。マリアウルがそれを髪飾りにしてくれて、それ以来ずっとそれをつけている。


 ララはこの数日、ここに通い続けていた。ひもにつける飾り石や貝を見つけるためだ。もう妻贈りの儀式の日まで、月は半分よりも進んでしまっている。もしかすると精霊に会うための杖を作り終えるのは、旅立ちの前の日になるかもしれない。少しでも精霊に近づくためには、きっとさまざまな色の石がいるはずだった。

 しかしララにはもう別の目的もできている。この最後の日々でララが得たのは、自分にも何かが作れるという感動だった。だから旅立ちの日までに作りたいのは杖だけではない。大切な人たちのために、ララは飾り紐を作ろうとしていた。


 泥の中から一つの石を拾い上げる。泥に塗れた手で何度か表面をぬぐってみると、白い筋が入った濃い緑色が見えた。あまり見ない色だったが、ララはなんとなくその模様が気に入った。


「これユンロクおじさんのにするか」


 呪術師に借りたカゴに入れて、また次の泥に向かう。杖の分と渡す分で、あと何個か見つかれば足りるはずだ。


 ララはまた歌い始める。知らない言葉、聞き慣れないふし

 川の流れが石を運んできたように、きっとこの歌もどこか遠くから流れてきた。


 そう考えて、ララは手を止めて立ち上がった。


 にごった大河は不思議なうなりをあげている。騒々そうぞうしくも荒々しくもない。静かに水音を鳴らす水面がどこまで広がって、そのすべてが重なって聞こえていた。


 この川に沿って、自分もどこか知らないところに流れていくのだ。


 ララは初めて、妻贈りがどういうものか、本当の意味でわかった気がした。それは見慣れない石のようでもあるし、聞き慣れない歌のようでもある。


 だからこそ、きっとそれを美しいと思う人もいるはずだ。


 ララは胸いっぱいに息を吸って、もう一度はじめから歌い始める。歌声が川の流れに溶けていく。あの空の青、あの雲の白、にごった水の流れ、森をでる風。岩についた両足から糸がより合わさりながら伸び、深く吸い込む息は空から降りた糸をそれに結びつける。まるで大地パラのすべてがララの中に集まっていくようだった。震えるのどひびく胸で、それを一つのひもり合わせる。

 そのときララが得た感覚を言葉にするのは難しかった。ただララは途方も無いほど大きくて、受け止めきれないほど激しい流れが、ララの体の中にほとばしるのを感じている。

 ララはただ、自分がたしかに生きているのだと、それだけを言葉にできた。たとえどこでどう過ごすとしても、そこでも大地パラと共に生きられる。しかしその喜びは、自分がついに妻贈りを受け入れる覚悟ができたのだとララに自覚させた。これまでもこれからも、この寂しさと喜びと不安を抱えたまま、生き続けなければならない。

 歌が終わる頃には、ララの瞳には涙があふれていた。その涙の理由を説明することは、ララには到底できそうもなかった。


素敵すてきな歌だね」


 誰かが来ているなど気づきもしなかった。しかし振り返ればそれはマリアウルで、彼女も目をうるませている。ララは自分の涙を腕でぬぐって、少しはにかんで見せた。


「ごめんね、黙って聞いちゃって。でもほんとうに、すごく素敵すてきだったから。なんだかとても遠くまで旅するみたいで……」


 そこまで口にして、マリアウルは顔を両手でおおい、声をあげて泣く。その姿に、ララはまた涙があふれてしまう。


「ごめんね、ララが本当に遠くにいっちゃうんだって、なんかすごく寂しくなって」


 言葉はそれ以上続かなかった。ララは何度も腕で涙をぬぐってみたが、次々に流れてしまって止まりそうにない。それでも笑顔を作って、大きな声で応じてみせた。


「私も寂しい!」


 マリアウルはすがり付くようにララに腕を回す。


「はじめて寂しいって言ってくれた!」


 二人は言葉にならない声をあげ、ただ抱き合ってわんわんと泣いた。

 マリアウルの腕の中で、ララは自分がどれほど妻贈りの旅を不安に思っているのかをようやく知った。そしてその不安の中には、マリアウルの行末を見届けられないという無念もある。あの秘密が暴かれるとき、ララは彼女の隣で彼女を守ることができない。どこか遠いところで、ただ祈るように歌うことしかできないのだ。


「ねえマリアウル」


 ようやく落ち着いた頃、川からの風を受けながら、ララはそっと切り出した。


「私はマリアウルのことを本当に大切に思ってる。私には親も兄弟も姉妹もいないから、このせかいで一番大切に思ってる」


「うん、ありがとう」


「だから二つだけお願いがある」

「ふたつ?」


 ララはマリアウルの肩に手を置いて、その美しい瞳を見つめる。


「兄ぃとはやめて、嘘でも他の人と結婚して」


 小さな口がきゅっと結ばれた。マリアウルが何かを言う前に、ララは言葉を続ける。


「そうじゃないと、私は向こうで安心して生きられない。マリアウルがどんなばつを受けるか考えながら生きるのはイヤだ」


 マリアウルは返事をせず目をらせる。何かを言いかけて口を開き、また閉じた。


「もう一つのお願い」


 ララは両手で乾いた泥を身体中に叩いて落とす。それから自分の腰蓑こしみのに結びつけていたひも飾りを一つ外した。それには光沢を帯びた結晶のような赤い石が縛り付けてある。一度後ろを向き、その出来をよく確かめると一つうなずいた。

 マリアウルの両手を取り、その上にそっと飾りひもを置く。飾りひもから指が離れたとき、小さな不安がララの指先を震えさせた。その場にとどめてしまった手を、ララは握って引っ込める。

 飾りひもは、もうマリアウルの手の中にあった。


「受け取って。私が作った」


 マリアウルはひもを目線にまでかかげて光を当てる。ゆらゆらと揺れると、赤い石は太陽の光をキラキラと反射した。彼女の顔はみるみるうちに明るくなる。


綺麗きれい。作ったの?」


「うん。呪術師に習った。私のこれと同じ石」


 ララは自分の髪飾りを指差す。マリアウルにもらった一番の宝物だ。


「間に合わなかったらイヤだったから、マリアウルには絶対に私と同じ石のやつを渡すって決めて、一番最初に作った。あとユンロクにも渡すけど、石は別。それが一番特別で、一番大切なの」


「これがお願い?」


「うん。大事にしてくれたら嬉しい。親友の証」


 マリアウルはもう一度ララに強く抱きつく。危うく二人は倒れそうになって、足場の悪い岩場で一度よたよたと互いの体を支え合った。


「受け取るよ! ありがとう! あたりまえでしょ! もうつけていい?」


 マリアウルは早速自分の頭に刺してあるくしを取ってひもを通す。


「そんな、目立つところじゃなくても」

「やだ。ほら、これで一緒!」


 ララの髪飾りと同じところに、飾り紐が揺れた。マリアウルの弾けるような笑顔に、ララはもう一度大きな鳴き声をあげる。その背をマリアウルが優しく叩いた。

 耳元で、優しくマリアウルが語りかけた。


「ほんとうにありがとう、ララ。兄ぃのことも、ララの言う通りにする。だから安心して旅立って」


 ララはその顔を見ないまま、マリアウルの腕の中でうなずいた。

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