語らないこと

 それから何日か経った日の午後だった。差し出された葉皿には、芋の葉につぶした芋と煮豆、それになんとわずかばかりのいた肉がえられていた。ララがとってきた食事の中では、その日の食事は明らかに豪華ごうかだった。


「へぇ、ありがとう」


 礼を言われても、ユンロクおじさんは何も言わなかった。そこまではいつも通りのことで、ララも早速豆をつまんで食べようとする。しかしユンロクはどかりとララの隣で同じ向きに座ってしまった。


「なに?」


 こちらを見るわけでもない。集落の真ん中で燃えているき火を見て、その周りでだらしなく寝てしびれ葉っぱを噛む男達を見る。次にはその向こうでかたむいた太陽の光に手をかざして、しわきざまれた顔で目を細めた。薄いくちびるが口の中に巻き込まれて、薄い皮膚が張り付いたような横顔だった。ララはユンロクが知らぬ間にとしをとっていることに気づいた。


「お前を拾ったから、これは俺のセキニンだった」


 ユンロクがララに話しかけるのは、両手で数えられるほど珍しいことだった。「ん」とか「おい」とか言うことはあっても、言葉らしい言葉を話すのは本当にほとんどないことだった。

 それでもララが本当に小さかったとき、としの離れた成人間近の子ども達にひどく扱われた日、不器用にもそばに座っていてくれたことを覚えている。あの日のユンロクがいなければ、ララはどこかで生きることをあきらめていたかもしれない。

 そういうとき、ユンロクは決まってという言葉を使った。その言葉の意味は、ララにはなんとなくしかわからなかった。マリアウルは「やらないとしかられること」と言っていたが、ユンロクが食事を分け与えなかったとして、きっと誰もユンロクをめなかったはずだ。


「うん、知ってる。ありがとう」


 長い沈黙ちんもくだった。森から虫の声が聞こえていた。ピチピチとさえずる鳥達も、夕方によく聞く声だ。ララは声の主の名を知らない。だから一つ一つを聞こえたままの名で呼んでいる。これはで、次に鳴いたのはだ。それからどこか遠くでの声が聞こえた。これはきっとけものだろうとララは想像している。

 森かられ聞こえる声のどれか一つが、ララの母、精霊の声かもしれないと考えるだけで、ララは森を好きでいられた。もちろん精霊の声がいまのララに聞こえるはずもないのだが。


「妻贈りが近いな」

「うん」


 つまらなそうな話に、ララはひとまず芋と豆を指先につまんで頬張ほおばる。このところ慣れないことをしているからか、いつもより腹が減るような気がしていた。


「不安はないか?」

「ない」


 豆を口の中に詰めたままのその声には、なんの考えもなかった。どちらかといえば、ゆっくり一人で飯を食わせてくれとばかりララは思っていた。

 しかしユンロクのとしを重ねた横顔をもう一度見て気が変わった。このところ、ララは自分が少しずつ変わっているのを感じていた。少し前までなら、「あっちいってよ」とさえ口にしていただろう。それがどういうわけか、このおじさんに少しだけ時間を使ってやろうとしている。

 もしかしてこれが大人の余裕かとひらめくと、ララはむしろ前のめりにユンロクに話しかけることにした。


「ねぇ、妻贈りって見たことないんだけど、わたしってだまってついて行けばいいの?」


 ユンロクの顔が少しだけこちらに傾いた。それでも目はこちらを見ない。


「何もしないでいい。普通は一族の歌を歌うが、お前にはない。そのあと船に乗る」


「船!? 川を渡るの?」


 手が止まった。どこか遠くの集落とは言っても、歩いて行けるところだと思っていた。川を越えるとなると、一人で帰ってくることは決してかなわないだろう。もちろん帰ってこようなどと思っていたわけでもない。それでも地続きであるだけで安心できるものだ。ララは初めて、自分が想像したよりもがあることを思い知った。


「川をずっと登っていって、それが五回曲がる」


 五回。ララは言葉の意味を考えた。川は何度か見たことがある。大きくて広くて水がずっと流れている、匂いが違う場所だ。あんなものが曲がってしまうなら、そこでは大地の方がねじくれてしまってはいないだろうか。右手の指を順に折りながら、ララは森の中に迷うような、あるいはしびれ草の汁を飲むような心地がしていた。


「そしたら次の曲に小さな岸がある。そこに船をつないで、それから森を歩く」


「どのくらい?」


「長くだ。俺もその森には詳しくない」


 いよいよララは背を地面につけて倒れる。川を伝って、それから森をずっと歩いて、そんな場所に本当に人が住めるのだろうか? 同じように土があって、長屋根ロングハウスがあるんだろうか? 住んでいる人というのは、自分たちと同じ形をしているんだろうか?


「やがて大木があって、それを抜けたら歌を歌いながら進む。この歌もお前は歌わなくていい。花嫁は着くまで秘密だからだ」


 もうララに何かをたずねる気力は残されていなかった。途方もない旅路たびじの果てに、ララは一人放り出されてしまう。

 倒れたまま見上げた空に、星がひとつふたつと輝き始めていた。しかしララと星の間を雲が流れてさえぎり、輝きは戻ってこなかった。


「じゃあほんとにさよならだ」


 火が燃えてまきれる音がした。まだ胸の辺りがグルグルとする。ララはそれを押し込むために、えいと起き上がってこれでもかと芋を口に詰め込んだ。ユンロクは何も言わなかった。

 大切なとき、ユンロクは話すのをやめる。ララのそばにいるのに、あと一歩近づこうとしない。ララに優しくするようで、いつもおびえているようでもあった。

 ララははたと気づいて口にした。


「セキニンってさ、わたしに怒られるってこと? わたし怒んないよ?」


 ユンロクは声も出さずに優しく笑った。子供の頃ならきっと頭もでられていただろう。どうやら的外まとはずれなことを言ったようだった。ララは今度は残りの豆を全部口に詰め込む。


「お前、呪術師のところに行っているだろう」


 豆と芋を頬張ほおばったまま、ララは目を丸くしてユンロクの横顔を見つめる。しばらくそうしていてから、誤魔化ごまかせばよかったと後悔こうかいした。だがユンロクの口元にはまだ、優しい笑みが残っている。

 ようやく豆を飲み込んでから、ララは応じた。


「だって別に禁止されてなかったから」

「ああ、それはいい。禁止じゃない」


 ララは一度腕をいてひじを伸ばす。ようやく落ち着いて、残りの肉と芋を口に運ぶ。


「なんだ、怒られるかと思った」


 あわてて飲み込んで損したとララは思った。しかしよく考えれば、叱られる日にこんな飯が与えられるはずもない。


「ねえ、なんで知ってるの? 見てた?」


 ユンロクおじさんは頭を痛めたような表情でララをチラリと見た。最後に目が合ってからもうどれくらいたったのかわからないほど久しぶりだった。


「聞いた」

「だれに?」


 答えてくれなかった。ララはしばらく考えて、マリアウルのはずがないとだけは思った。マリアウルとユンロクは別の一族だし、ユンロクは妻を亡くしていて子もないから、二人だけで秘密を話すと意味が変わってくる。


「え、呪術師だ。だよね?」


 またユンロクは答えてはくれなかった。

 ユンロクは呪術師に何かを頼むような人ではない。そもそも自分を最後に一族をほろぼしてしまおうとしている変わり者で、誰かをうらむことも想像できなかった。それに祝祭の指揮しきを取るほどえらくもなかったし、病気に苦しんでいる様子もない。


「いろんなことを教わっておけ。妻贈りまでなら、長老も何も言わんだろ」

「もうひも作れるんだ。ほら」


 ララはまた腰蓑こしみのはさんでいたひもを取り出して振り回す。初めてのものよりはいくらか引きまっていて、風を切る音もするどかった。

 ユンロクは立ち上がって、手振りだけでひもを腰にしまっておくように言う。しかしララは下唇したくちびるを突き出してこばんだ。

 ひもが回るにまかせて指にくるくると巻きつけると、今度は両端を持ってたわませて遊び始める。自分の力で生み出したひもは、ララにとって不思議な魅力みりょくを持っていた。それを引っ張り、振り回し、結んでみるたびに、なにか自分がひどく尊敬される何かになったような気さえしていた。


 ——そうだ!


 ララはこのとき一つのことを思いつき、口元をゆるませた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る