第7話「奇病の森と父の教え」

 皇帝からの勅命は、鈴蘭に大きな動揺をもたらした。

 原因不明の奇病の薬を作れという。一介の女官である自分に、国の命運がかかるような大役が務まるはずがない。しかし、蒼焔の目を見て、彼女は断ることができなかった。その漆黒の瞳には、「お前ならできる」という、静かだが絶対的な信頼の色が浮かんでいたのだ。


(陛下は、私を信じてくださっている……)


 その事実が、鈴蘭の恐怖に打ち勝つ勇気を与えた。彼女は、父が残してくれた薬草の覚え書きを固く握りしめ、深々と頭を下げた。

「……御意。この鈴蘭、命に代えましても、必ずや薬を調合してごらんに入れます」


 鈴蘭は、侍医たちから奇病の症状について詳しく話を聞いた。高熱、赤い発疹、そして激しい喉の渇き。患者の報告が上がってくるのは、いずれも「霧の森」と呼ばれる湿地帯の近くの村々からだという。


(霧の森……)


 鈴蘭はその名に聞き覚えがあった。父の覚え書きに、その森にしか自生しない珍しい薬草についての記述があったはずだ。彼女は、夜を徹して、ぼろぼろになった覚え書きの頁をめくった。そして、ついに探し当てた。


「これだわ……。『銀龍草(ぎんりゅうそう)』」


 覚え書きには、こう記されていた。銀龍草は、強い解毒作用と解熱作用を持つが、その根には猛毒がある。毒と薬は、常に表裏一体。扱いを間違えれば、命を奪うことにもなりかねない。そして、その銀龍草の近くには、必ずと言っていいほど、その毒を中和する働きを持つ『月雫草(つきしずくそう)』という小さな青い花が咲いている、と。


 奇病の症状は、銀龍草の根の毒による中毒症状に酷似していた。おそらく、森の民が、何かのはずみで、銀龍草の根を口にしてしまったのではないか。あるいは、根の毒が溶け出した水を飲んでしまったのかもしれない。


「治療薬は、月雫草……! きっとそうだわ!」


 鈴蘭は、自分の推論を侍医長に話した。侍医長は、半信半疑だったが、他に手立てもなく、鈴蘭の言葉に賭けてみることにした。蒼焔は、すぐに腕利きの兵士たちに命じ、霧の森へ月雫草を採取しに行くよう手配した。


 この迅速な対応は、宰相である魏巌の計算を狂わせた。彼は、鈴蘭が薬を作れずにまごついている間に、「やはり罪人の娘に任せたのが間違いだった」と弾劾し、彼女を失脚させるつもりだったのだ。だが、鈴蘭はあまりにも早く、核心に迫りすぎていた。


(このままでは、本当に薬を作られてしまう……!)


 魏巌は焦った。彼は、腹心の部下に密命を下す。

「霧の森へ向かった兵士たちを妨害しろ。何としても、月雫草を都へ持ち帰らせるな」


 数日後、都に絶望的な知らせが届いた。月雫草を採取しに行った部隊が、森で賊に襲われ、薬草もろとも谷底へ転落したというのだ。

 それは、魏巌が手を回した偽りの報告だった。実際には、薬草は彼の手に渡っていた。


「薬草が、ない……」


 報告を受けた鈴蘭は、その場に崩れ落ちそうになった。あと一歩で、人々を救えるはずだったのに。自分のせいだ。自分がもっと早く気づいていれば。


 重苦しい空気が、麒麟宮を支配する。重臣たちは、口々に鈴蘭を責め立てた。

「だから言わんことではない! 小娘一人に頼ったのが間違いなのだ!」

「陛下、今からでも遅くはありませぬ。この女を罰し、別の策を!」


 だが、蒼焔は、そんな声には一切耳を貸さず、ただ静かに鈴蘭を見つめていた。

「鈴蘭。まだ、手はあるか」

 その問いに、鈴蘭ははっと顔を上げた。誰もが彼女を責める中で、皇帝だけが、まだ彼女を信じてくれていた。


 鈴蘭は、涙をこらえ、必死に頭を働かせた。月雫草が手に入らないのなら、別の方法を探すしかない。父の覚え書きが、頭の中で何度も反芻される。

(毒と薬は、表裏一体……。一つの毒には、必ずそれを制するものが自然界に存在する……)


 その時、鈴蘭の脳裏に、ある植物の姿が閃いた。それは、後宮の片隅にある、彼女の小さな薬草園に植えてある、ありふれた植物だった。


「陛下……!」

 鈴蘭は、蒼焔の前に進み出た。

「月雫草が手に入らないのであれば、別の方法で薬を調合いたします。ですが、それには、陛下の許可と、あるものが必要です」

「何だ、言ってみろ」

「後宮の、私の薬草園に生えている、金銀花(きんぎんか)を使わせていただきたいのです。そして……」

 鈴蘭は一度息を吸い、強い意志を込めて言った。

「私が調合した薬が本物であると証明するため、完成した暁には、まず私が、それを飲んでみせます」


 彼女の言葉に、その場にいた誰もが息をのんだ。金銀花は、どこにでも生えている平凡な植物だ。そんなもので、奇病の薬が作れるはずがない。もし薬が効かなければ、彼女は死ぬ。正気とは思えない申し出だった。


 しかし、蒼焔は、彼女の真剣な瞳から、目を離さなかった。

「……よかろう。許可する」

 彼は、静かに、しかしはっきりとそう告げた。

「だが、死ぬことは許さん。お前は、生きて朕の側にいろ。……これは、勅命だ」


 その言葉は、冷たい響きとは裏腹に、鈴蘭の心を強く、温かく支えた。彼女は、深くうなずくと、すぐに薬草園へと走り出した。


 金銀花には、月雫草ほど強力ではないが、同じように解毒作用を持つ成分が含まれている。父の覚え書きには、月雫草が手に入らない場合の代替薬として、金銀花を大量に使い、そこにいくつかの薬草を組み合わせることで、似た効果を得られると記されていたのだ。


 鈴蘭は、不眠不休で薬の調合を続けた。失敗は許されない。多くの民の命と、そして、自分を信じてくれた皇帝の信頼がかかっている。

 彼女は、祈るような気持ちで、薬を煎じ続けた。


 そして三日後、ついに一杯の琥珀色の液体が完成した。

 鈴蘭は、蒼焔と重臣たちが見守る前で、その薬を、一息に飲み干した。

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