後宮の毒見係、植物の知識で氷の皇帝の心を癒し、国の運命を変えるまで。

藤宮かすみ

第1話「物言わぬ毒見係」

 翡翠宮(ひすいきゅう)の朝は、新鮮な空気で始まる。夜の間に降り積もった香の匂いを追い出すように、朝日と共に窓という窓が開け放たれるからだ。きらびやかな衣装をまとった女官たちが行き交い、朝の挨拶を交わす声が華やかに響く。

 しかし、後宮の広大な敷地の片隅、陽光さえも遠慮がちに差し込む裏庭の一角は、まるで忘れ去られたかのように静まり返っていた。


 鈴蘭(りんらん)は、その場所でしゃがみ込み、小さな薬草園の土をいじっていた。

 彼女の仕事は毒見係。皇帝や高位の妃たちの食事に毒が盛られていないか、その身をもって確かめるのが役目だ。いつ命を落としてもおかしくない、後宮の最下層。罪人の娘である彼女に与えられた、唯一の居場所だった。


「大丈夫。少し水が足りなかっただけね」


 少しだけ葉がしおれた薄荷(はっか)に優しく触れながら、鈴蘭はそっとつぶやいた。

 彼女には、植物が発する微かな声が聞こえるような気がした。もちろん、本当に言葉を話すわけではない。葉の色つやや茎の張り、土の湿り具合。そういったもの全てが、彼女にとっては植物たちの言葉だった。

 栄養が足りない、喉が渇いた、陽の光がもっと欲しい。

 そんな健気な訴えを、彼女は誰よりも敏感に感じ取ることができた。


 父親が、無実の罪で投獄されたのはもう十年も前のことだ。薬師だった父は、いつも植物に囲まれていた。その父から受け継いだ知識と、生まれ持ったこの不思議な感覚だけが、鈴蘭の心を支えている。

 後宮の人間たちは、罪人の娘である彼女を汚れたもののように扱い、目を合わせようともしない。だが、この薬草園の植物たちだけは、何も言わずに彼女を受け入れてくれる。だから鈴蘭は、仕事以外の時間のほとんどをここで過ごしていた。


 その日も、昼餉の毒見を終えた鈴蘭は、いつものように薬草園へ向かった。厨房から漂う豪華な料理の匂いも、妃たちが纏う高価な香の匂いも、彼女には縁のない世界のものだ。

 毒見の仕事は、恐怖と隣り合わせだった。銀の匙が変色しないか、一口含んだ後に痺れや痛みがこないか、全身の神経を研ぎ澄ませる。幸い、今日まで大事に至ったことはないが、いつその「幸運」が尽きるかは誰にも分からなかった。


 薬草園で土に触れていると、張り詰めた心が少しずつ解けていくのを感じる。

 ふと、女官たちのひそひそ話が風に乗って耳に届いた。


「今夜は、皇帝陛下が主催される観月の宴ですって」

「まあ、素敵。珠妃(しゅひ)様もさぞお喜びでしょうね」

「陛下は、珠妃様以外の妃には全く見向きもなさらないもの。まさに『冷酷皇帝』よね」


 若き皇帝、蒼焔(そうえん)。彼に関する噂は、後宮の隅々にまで流れていた。

 先帝の崩御後、激しい後継者争いを制して玉座に就いた彼は、反対派の貴族たちを容赦なく粛清したという。その冷徹なやり方から、いつしか「冷酷皇帝」と呼ばれるようになっていた。感情を見せることのないその顔は、まるで精巧な氷の彫刻のようだと、一度だけ遠目に姿を見かけた女官が震えながら話していたのを鈴蘭は覚えている。


(皇帝陛下……)


 自分とは住む世界が違いすぎる、雲の上の存在。

 鈴蘭は、そんなことをぼんやりと考えながら、再び土に意識を戻した。彼女のささやかな日常は、これからも変わることなく、この静かな薬草園と共に続いていく。

 そう、思っていた。


 その夜、観月の宴が最高潮に達した頃、けたたましい悲鳴が後宮を切り裂いた。


「毒だ! 誰か! 誰か来てくれ!」


 侍従の切羽詰まった声が響き渡り、華やかだった宴の雰囲気は一瞬にして凍りついた。

 鈴蘭は、毒見係たちが寝泊まりする小さな部屋でその騒ぎを耳にした。胸騒ぎがして、部屋を飛び出す。宴が開かれていた正殿の前には、大勢の衛兵や女官たちが集まり、騒然としていた。


「皇帝陛下の酒盃に、毒が盛られていたらしい!」

「陛下はご無事なのか!?」


 飛び交う怒号と悲鳴。鈴蘭の体も、恐怖で震えた。皇帝陛下の毒見。それは、毒見係の中でも最も経験豊富な者が担当するはずだった。まさか、失敗したというのだろうか。


 やがて、衛兵隊長が厳しい顔で現れ、その場にいた全ての者の顔を見回した。

「これより、宴に関わった全ての者を尋問する! 料理人、配膳係、女官、一人たりとも逃がすな!」


 その厳しい声が響く中、鈴蘭はふと、宴会場から下げられてきた食器を乗せた台車の一つに目を留めた。豪華な料理が並ぶ中に、見慣れない植物の葉が飾られている。

 それは、この国の南方にしか自生しないはずの珍しい植物。どうして、こんな場所に?


 胸のざわめきが、ただの恐怖から別のものへと変わっていくのを、鈴蘭は感じていた。

 これは、ただの毒殺未遂事件ではない。もっと深く、暗い何かが、このきらびやかな後宮の奥底でうごめいている。


 鈴蘭は、自分の無力さを知りながらも、その飾り葉から目が離せなかった。

 まるで、その小さな葉が、声なき声で何かを訴えかけているように思えたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る