灯の記憶
をはち
灯の記憶
その夜、父が語る物語はいつも同じ始まりだった。
山深い里で育った父の実家では、かつて七頭の山羊を飼っていた。
山羊たちは家族の大切な財産であり、毎朝、父やその兄弟たちは小屋の世話を欠かさなかった。
だが、ある晩、誰かが山羊小屋の扉を閉め忘れた。
それがすべての始まりだった。
「山羊が逃げ出したんだよ」と父は言う。
声は低く、どこか遠い記憶をたどるように震える。
「あの夜は、家族全員で山に分け入った。懐中電灯なんてない時代だ。ランタンの火だけが頼りだった」
ランタンの炎は、確かに暖かい光を放つが、闇を切り裂く力はない。
ぽぉっとした淡い光は、木々の影にすぐに飲み込まれ、遠くまでは届かない。
父たちは闇の中を、ランタンを手に山道を歩いた。
生まれ育った山だ。
暗闇でも迷うことなどなかった。
だが、その夜は違った。
「人魂がいたんだ」と父は言う。
目に見えない恐怖が、父の声に滲む。
「あちらこちらに、ふわふわと漂う光が浮かんでいた。青白く、まるで生きているかのように揺れていた」
父は子供だった。
まだ十歳にも満たない少年が、ランタンの光を握りしめ、怯えながら山羊を探した。
家族は散らばり、それぞれが闇の中で光を頼りに歩いた。
だが、父の背後には、いつも一つの光が付きまとっていた。
ふわふわと、まるで意思を持ったように父を追いかけてくる。
「逃げても逃げても、そいつは離れなかった」と父は言う。
「まるで私を捕まえるためにそこにいたんだ」
父はその「人魂」に捕まった。
恐怖で足がすくみ、ランタンを落としそうになった瞬間、闇の中から現れたのは兄だった。
手に持ったランタンが、青白い光を放ちながら揺れていた。
「お前、どこほっつき歩いてるんだ!」と兄は笑った。
山中に浮かんでいた無数の光は、家族が持つランタンの光だったのだ。
父はほっと胸を撫で下ろした。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
翌朝、家族が山羊を見つけたとき、七頭すべてが死んでいた。
腹は裂かれ、内臓はすっかり抉り取られ、血は一滴も残っていなかった。
「まるで、誰かが丁寧に吸い尽くしたみたいだった」と父は言う。
死体は冷たく、しかし不思議なほど損傷が無い。
まるで、何か得体の知れないものが、生命のすべてを奪い去ったかのように。
キャトル・ミューティレーション。そう言っても彼らには分からないだろうし、
当時には無かった言葉であろう。だが、私にはそれが、そうとしか考えられない。
そして、叔父の言葉が父の物語にさらなる闇を落とす。
「あの夜、空に妙な光が飛んでいた」と叔父は言った。
星とも月とも違う、脈打つような光。
まるで生き物のように山の上を滑るように動いていた。
「あれは、ただの光じゃなかった。まるで…何かを見張っているようだった」
叔父は、その光が父の方へ降りてくるのを見たのだと言う。
慌てて父のもとに駆けつけたが、父はただ立ち尽くしていた。
ランタンを握りしめ、虚空を見つめながら。
「それからだ」と父は囁く。
「あの夜以前の記憶が、まるでないんだ」
父の目は遠くを見ているようで、どこか空っぽだった。
それをアブダクションっていうんじゃないのかい、と私は心の中でつぶやいた。
私は父の息子だ。
父の血を引く、ただの人間のはずだ。
だが、父の物語を聞くたびに、胸の奥に冷たい疑問が広がる。
あの夜、父を追いかけた「人魂」は、本当に叔父だったのか。
空を舞った光は、ただの幻だったのか。
そして、父の記憶を奪い、山羊の命を吸い尽くしたものは、いったい何だったのか。
夜が更けるたび、私は思う。
私の血には、父から受け継いだ何かがあるのではないか。
人間ではない、何か――
鏡に映る自分の顔を見ると、その瞳の奥に、青白い光が揺れている気がしてならない。
灯の記憶 をはち @kaginoo8
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