孤独に浸る〜 Unwind in solitude 〜

火之元 ノヒト

第1話 レンタル・サイレンスルーム

 ​完璧な角度で注ぐ午後の光が、ラテアートの繊細なリーフ模様を照らし出している。ミサキは寸分の狂いもなくスマホを構え、シャッター音を三回、立て続けに鳴らした。すぐさまアプリを起動し、彩度を少し上げ、暖色系のフィルターを薄くかける。完璧だ。


​『新作のオーツミルクラテで、ちょっとひと息。優しい甘さが心に沁みる……♡


#新作フラペ #カフェ巡り #自分へのご褒美 #丁寧な暮らし』


 ​洗練された文章とハッシュタグを瞬く間に打ち込み、投稿ボタンを押す。その直後から、画面上部からひっきりなしに通知のバナーが滑り落ちてきた。数秒でつく「いいね」のハートマーク、肯定的なコメントの数々。ミサキは口角を上げ、完璧な「インフルエンサーの微笑み」を顔に貼り付けた。アパレルブランド『MIMOSA』の広報として、この微笑みは彼女の鎧であり、商売道具だった。


 ​だが、その鎧の下で、彼女の心はとっくに悲鳴を上げていた。


 ​会社のデスクに戻っても、地獄は続く。業務用チャットの通知、鳴り止まないメールの着信音、そしてプライベート用のスマホに届く無数のSNSのリアクション。上司からは「今月の投稿のエンゲージメント率、先月より5%落ちてるぞ。もっとユーザーに刺さるコンテンツを考えろ」と無機質な声で告げられる。刺さるコンテンツ。まるで、自分の心をナイフで切り刻んで、その断面を見せろと言われているようだった。


 ​その夜、ベッドに入っても、ミサキは液晶の光から逃れられなかった。指が勝手にタイムラインをスクロールし、煌びやかな友人たちの週末や、見ず知らずの他人の幸福な日常を浴び続ける。ふと、自分の投稿に寄せられた一件のコメントに目が留まった。


『いつも同じような写真ばっか。本当に心から楽しんでるの?』


 ​心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。分かっていた。自分でもずっと感じていたことだった。だが、活字になったその悪意は、鋭利なガラスの破片となってミサキの胸に突き刺さった。息が浅くなる。画面を消しても、その言葉が網膜に焼き付いて離れない。


 ​助けて。


 どこか、誰もいない場所へ行きたい。

 誰の声も聞こえない、誰の視線も感じない場所へ――。


 ​その願いが通じたのか、眠れないまま無意識にネットの海を漂っていたミサキの目に、小さなバナー広告が飛び込んできた。


 ​『レンタル・サイレンスルーム。誰にも邪魔されない、あなただけの無音を。』


 ​吸い寄せられるように、彼女はそのリンクをタップした。ウェブサイトのデザインは極端にシンプルだった。余計な装飾も、利用者の声もない。ただ、サービスの概念と、予約フォームだけが存在していた。都心の一等地にあるビルの地下。一時間、五千円。ミサキは、何かに憑かれたように一番早い日時のスロットを選び、震える指で予約ボタンを押した。


 ​翌日、ミサキは誰にも告げず、早退してそのビルに向かった。無機質なコンクリートの打ちっぱなしの地下へ続く階段を下りると、小さな受付があった。スタッフは一度もミサキと目を合わせることなく、タブレット端末で予約を確認し、一枚のカードキーを差し出すだけだった。


「13番のお部屋です。時間になりましたら、室内のランプが点滅しますので、ご退室ください。携帯電話などの電子機器は、あちらのロッカーにお預けください」


 ​言われるがままにスマホとスマートウォッチをロッカーに入れ、鍵をかける。それだけで、まるで体の一部をもぎ取られたような心許なさに襲われた。


 ​13番と書かれた、分厚い鉄の扉の前に立つ。カードキーをかざすと、重い音を立ててロックが外れた。息を飲み、中へ入る。背後で扉が閉まると、まるで深海に沈んでいくかのように、世界から音が消えた。


 ​しん……。


 ​自分の呼吸の音、心臓の鼓動、血液が流れる微かな音までが、耳の奥で増幅されて聞こえる。部屋には、簡素な椅子が一脚あるだけ。壁も床も天井も、音を吸収する特殊な素材でできているのか、一切の反響がない。本当に、何も聞こえなかった。


 ​最初の十分間は、地獄だった。何かをしなければという強迫観念。ポケットを探り、スマホがないことに絶望する。そわそわと部屋の中を歩き回り、意味もなく壁に触れる。ノイズがない空間では、自分の頭の中のノイズが、かえってやかましく鳴り響いた。上司の声、アンチのコメント、フォロワーの期待。

 ​だが、十五分が過ぎた頃、ふと、体の力が抜けた。ミサキは、椅子に座るのも忘れ、その場にへたり込んだ。


 ​もう、何もしなくていいんだ。

 笑わなくていい。

 「いいね」なんて、気にしなくていい。

 誰にも、見られていない……。


 ​その事実に気づいた瞬間、彼女の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。最初は静かな嗚咽だった。それがやがて、堰を切ったように激しい慟哭に変わる。声を殺す必要すらなかった。この部屋では、彼女のどんな叫び声も、悲しみも、ただ無音の中に吸い込まれて消えていくだけだ。


 ​子供のように泣きじゃくり、疲れると床に大の字に寝転がった。天井の、何もない一点を見つめる。演じることをやめた「素の自分」が、硬い殻を破って、ようやく呼吸を始めたような感覚だった。


 ​どれくらいの時間が経っただろうか。壁際のランプが、ゆっくりと赤く点滅を始めた。終了の合図だった。


 ​ミサキはゆっくりと体を起こす。不思議と、心は凪いだ湖のように静かだった。


 ​重い扉を開け、外に出る。受付のスタッフは、やはりこちらを見ることなく会釈しただけだった。ロッカーからスマホを取り出すと、画面にはおびただしい数の通知が表示されていた。けれど、以前のような息苦しさは感じなかった。むしろ、そのカラフルなアイコンたちが、どこか遠い世界の出来事のように思えた。


 ​地上へと続く階段を上り、雑踏の中へ戻る。車の走行音、人々の話し声、店のBGM。今までノイズでしかなかったそれらの音が、なぜか不快ではなかった。まるで、世界と自分との間に、一枚の薄くて丈夫な膜ができたような感覚だった。


 ​ミサキは立ち止まり、スマホの画面に目を落とす。そして、慣れた手つきでSNSアプリのアイコンを長押しした。表示されたメニューの中から、『通知をオフにする』という項目を選び、迷わずタップする。


 ​それは、世界に対する、ほんのささやかな反逆。


 そして、失われた自分自身を取り戻すための、静かな第一歩だった。


 ​ミサキはスマホをバッグにしまうと、空を見上げた。ビルの隙間から見える空は、いつもより少しだけ、青く澄んで見えた。

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