第10話「森を侵す者たち」

 俺の聖なる刻印が覚醒してから、数ヶ月が過ぎた。

 カイとの生活は、穏やかで愛に満ちていた。彼の番として過ごす毎日は、これまで俺が経験したことのない幸福感で満たされていた。

 自分の手で魔力を操れるようになったことも、俺に大きな自信を与えてくれた。


 しかし、その平穏は、ある日突然破られた。

 その日、俺はカイと共に、城のバルコニーから森を眺めていた。

 ふと、森の一部から、黒い煙が立ち上っているのが見えた。


「……カイ、あれ」


 俺が指差すと、カイの表情が瞬時に険しくなった。

 彼の赤い瞳が、鋭い光を宿して煙の方向を睨みつける。


「この魔力の残り香……人間だ。それも、厄介な手合いのようだ」


 カイは低く唸ると、俺の方に向き直った。


「アキ、お前は城の中にいろ。決して外へ出るな」

「でも……!」

「いいか、絶対にだ。すぐに戻る」


 有無を言わさぬ強い口調。それは、王としての命令だった。

 彼は俺の額に素早く口づけを落とすと、次の瞬間、その姿を一体の巨大な銀狼へと変えた。

 体長は五メートルを優に超え、月光のように輝く銀の毛皮を持つ、神々しくも恐ろしい姿。それが、カイの本当の姿だった。

 銀狼は一声高く咆哮すると、バルコニーから身を躍らせ、驚くべき速さで森の中へと消えていった。


 城の中で、俺はカイの帰りをただ待つしかなかった。

 彼の強さを信じている。この森で、彼に敵う者などいないはずだ。

 そう自分に言い聞かせても、胸の不安は消えない。

 一時間ほど経っただろうか。カイが、人の姿に戻って城へ帰還した。

 彼の衣服は所々が焼け焦げ、頬には一筋の切り傷があった。


「カイ! 怪我……!」


 俺は慌てて駆け寄り、治癒の魔力を手に集める。

 傷口に手をかざすと、淡い光と共に傷はすぐに塞がった。


「……大したことはない」


 カイはぶっきらぼうに言うが、その表情は険しいままだった。


「一体、誰が……?」

「聖なる刻印の力を聞きつけた、魔術師崩れの連中だ。お前を捕らえ、その力を奪おうと画策していたらしい」


 カイの言葉に、俺は息をのんだ。俺の力が、外部の人間を呼び寄せてしまったのだ。


「……俺の、せいで」

「お前のせいではない!」


 カイが、強い口調で遮った。


「悪いのは、欲に目が眩んだ愚かな人間どもだ。お前は何も気にする必要はない」


 彼はそう言って俺を強く抱きしめたが、その腕が微かに震えていることに、俺は気づいてしまった。

 彼が、俺のことで怒り、そして恐れている。その事実が、俺の胸を締め付けた。


「連中は、どうなったの?」

「……森の土に還した」


 静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声。

 それは、彼が侵入者たちの命を奪ったことを意味していた。

 その日から、森の警備は一層厳重になった。カイは、俺が城から出ることを固く禁じた。

 俺の身を案じてのことだと分かってはいても、まるで鳥籠に閉じ込められたような息苦しさを感じずにはいられなかった。


 数週間後、再び侵入者が現れた。

 今度は、魔術師だけでなく、腕利きの傭兵たちも加わった、前回よりも大規模な集団だった。

 カイは再び銀狼の姿となり、彼らを迎え撃つために森へと駆けていった。

 俺は、観月の間から戦いの様子をうかがっていた。森のあちこちで、魔法の光が炸裂し、木々がなぎ倒されていくのが見える。

 カイの雄叫びと、人々の悲鳴が、ここまで微かに聞こえてくる。

 心臓が、嫌な音を立てて脈打っていた。

 カイは強い。分かっている。けれど、相手は大勢だ。もし、万が一のことがあったら……?

 その時、森の一角で、ひときわ大きな爆発が起こった。

 それまで聞こえていたカイの咆哮が、一瞬途切れる。


「カイ……!」


 俺は思わず叫んでいた。

 じっとしていられない。俺は、ただここで守られているだけの、無力な存在じゃない。

 俺には、力がある。カイの番として、彼の隣で戦う力があるはずだ。

 俺は決意を固め、部屋を飛び出した。侍女たちの制止を振り切り、城の厩へと走る。

 そこにいた一頭の馬に飛び乗ると、俺はカイが向かった方角へ、全力で馬を走らせた。


 森の中は、凄惨な状況だった。

 倒れた木々、抉れた地面、そして、あちこちに転がる侵入者たちの亡骸。

 その中心で、銀狼の姿のカイが、残った数人の魔術師たちと対峙していた。

 彼の銀の毛皮は血で汚れ、肩や足には深い傷を負っている。息も荒く、明らかに消耗していた。


「……しぶとい獣め。だが、それもこれまでだ!」


 魔術師の一人が杖を構え、強力な呪文を唱え始める。

 カイがそれを阻止しようと身構えるが、別の魔術師が放った拘束魔法に動きを封じられてしまう。

 まずい。あの魔法が完成すれば、カイといえど無事では済まない。


「やめろ!」


 俺は馬から飛び降り、叫びながら彼らの間に割って入った。


「アキ!? なぜここに……! 戻れ!」


 カイが、苦しげな声で叫ぶ。だが、俺はもう引き返せなかった。


「な、なんだこの小僧は?」


 魔術師たちが、突然現れた俺を見て戸惑っている。


「こいつだ! こいつが『聖なる刻印』の持ち主だ! 好都合だ、こいつを人質にしろ!」


 一人がそう叫ぶと、魔術師たちの目が、欲望にぎらついた色を帯びて俺に向けられた。

 俺は、自分の足が震えているのを感じた。怖い。

 けれど、それ以上に、カイを傷つけられることが許せなかった。

 俺は両手を前に突き出し、意識を集中させる。聖なる刻印が熱を発し、体中の魔力が両の手のひらに集まっていく。


「カイを守るんだ……!」


 俺が強く念じると、手のひらから眩いほどの白い光が放たれ、カイと魔術師たちを隔てる光の壁を形成した。


「なっ!?」


 魔術師たちが驚きの声を上げる。俺の創り出した壁は、彼らの魔法を完全に弾き返していた。


「アキ……お前……」


 カイが、信じられないものを見るような目で俺を見ている。

 俺は、カイを守れた。初めて、自分の力が役に立った。

 その事実が、恐怖に震えていた俺に、勇気を与えてくれた。

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