第6話「悪夢の先にある光」
満月が近づくにつれて、俺の心は期待と不安の間で揺れ動いていた。
カイの番になることへの喜びと、未知の儀式への恐怖。
そんな不安定な精神状態が、忘れていたはずの過去の記憶を呼び覚ましてしまったのかもしれない。
その夜、俺は悪夢にうなされていた。
夢の中の俺は、村の薄暗い小屋に一人でいた。扉の外から、村人たちの罵声が聞こえる。
「化け物!」「疫病神!」「お前のせいで村が滅ぶんだ!」
次々と投げつけられる石が、粗末な木の壁に当たって、乾いた音を立てる。
俺は耳を塞ぎ、部屋の隅で体を丸めて、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを待っていた。
怖い。寒い。誰も助けてくれない。孤独と絶望が、冷たい泥のように体中にまとわりついてくる。
夢だと分かっているのに、体が動かない。声も出ない。
あの頃の無力な自分が、そこにいた。
「アキ! しっかりしろ、アキ!」
誰かが俺の名前を呼んでいる。体を強く揺さぶられ、俺ははっと目を開けた。
そこはいつもの寝室で、俺はカイの腕の中に抱かれていた。
彼の赤い瞳が、心配そうに俺の顔をのぞき込んでいる。
「……カイ?」
「すごい汗だ。……うなされていたぞ」
カイはそう言うと、濡れた俺の前髪を優しくかき上げてくれた。
彼の手に触れた瞬間、夢の中で感じていた凍えるような寒さが嘘のように消え、温かい安心感が全身を包み込んだ。
「……怖い、夢を、見てた」
声が震える。村での記憶が、生々しく蘇ってきていた。
俺は、あの孤独からまだ完全には抜け出せていないのだ。
カイは何も言わず、ただ俺を強く抱きしめてくれた。彼の胸に顔をうずめると、力強い心臓の音が聞こえる。
その規則正しいリズムが、俺のパニックに陥った心を少しずつ落ち着かせてくれた。
「もう大丈夫だ。俺がここにいる」
背中を優しく撫でる大きな手。耳元で囁かれる低い声。その全てが、悪夢の名残を消し去っていく。
俺は、まるで子供のように彼の胸にしがみついて、しばらくの間、ただその温もりを感じていた。
落ち着きを取り戻した俺を見て、カイは体を少し離すと、俺の涙で濡れた頬を指で拭った。
「村の夢か」
彼の言葉に、俺はこくりとうなずく。全てお見通しだった。
「……俺、まだ怖かったんだ。みんなに石を投げられて、汚いって言われて……。カイがそばにいてくれるのに、まだ、あの頃のことから逃げられてない」
情けなくて、また涙が溢れてきた。
こんな弱い心のままで、俺は本当にカイの番になる資格があるのだろうか。
するとカイは、俺の両肩を掴み、その赤い瞳で真っ直ぐに俺を見つめた。
「アキ。お前がこれまで受けてきた仕打ちは、そう簡単に消えるものではないだろう。無理に忘れろとは言わない。だが、一つだけ覚えておけ」
彼の瞳には、いつものような絶対的な支配者の力強さと、深い慈愛の色が浮かんでいた。
「お前を傷つけた過去の全てを、俺が塗り替えてやる。孤独も、絶望も、俺がお前の中から消し去ってやる。だから、お前はただ、俺だけを見ていればいい」
力強い宣言。それは、彼の揺るぎない決意の表れだった。
「俺は、お前を愛している。お前の過去も、その傷も、全て含めて愛している。お前は、俺にとって世界で一番価値のある、尊い存在だ」
その言葉は、まるで光の矢のように、俺の心の最も暗い部分にまで突き刺さった。
今までずっと、自分は価値のない、汚れた存在だと思い込んできた。
けれど、この人は、銀狼王であるカイは、俺を「尊い」と言ってくれた。
ああ、俺は、この人に会うために生まれてきたのかもしれない。
そう思った瞬間、俺の中から恐怖や不安といった感情が、すうっと消えていくのを感じた。
代わりに、熱い想いが腹の底から湧き上がってくる。
俺は、この人が好きだ。心の底から、愛している。
この人の隣にいたい。この人の力になりたい。ただ守られるだけの存在ではなく、この人を支えられるような、強い存在になりたい。
「カイ……」
俺は自らの意思で、カイの首に腕を回した。そして、彼の唇に、自分から唇を重ねた。
最初はただ触れるだけだった口づけ。しかし、込み上げてくる愛情を抑えきれず、俺はもっと深く彼を求めたいと思った。
カイの唇を食むように吸い付くと、彼は驚いたように一瞬体を硬直させたが、すぐに俺の意図を理解したのだろう。
彼の舌が、俺の口内を優しく探るように入ってきた。
初めての、深い口づけ。息をするのも忘れ、ただ夢中で互いを貪る。
カイの腕が俺の腰を強く抱き寄せ、隙間なく体を密着させた。
長い、長い口づけの後、どちらからともなく唇が離れた。互いの口からこぼれる熱い息が、部屋の静寂に響く。
「……アキ」
カイが、驚きと喜びに満ちた声で俺の名前を呼んだ。
「俺、もう怖くない。……カイの番になりたい。早く、あなたの本当のものになりたい」
俺は、彼の赤い瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
もう、迷いはなかった。悪夢が、俺に本当の気持ちを気づかせてくれたのだ。
俺の言葉を聞いたカイは、一瞬息をのみ、そして、これまで見た中で最もどう猛で、最も美しい笑みを浮かべた。
「……ようやくその気になったか、俺のかわいい番」
彼は俺をベッドに押し倒すと、狼のような鋭い光を宿した瞳で、俺を見下ろした。
「後悔しても、もう逃がしてやらんぞ」
その声は、甘く、そして抗いようのない支配者の響きを持っていた。
俺は恐怖を感じるどころか、その支配下に置かれることに、歓喜さえ覚えていた。
「逃げない。……あなたのそばに、ずっといたい」
俺は彼の首に再び腕を回し、その体を強く引き寄せた。
満月は、もうすぐそこまで迫っていた。
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