アラサー姉さんのお漏らしな日常
片桐アリス
第1話 大人になってからのおもらし
――大人になってから、おしっこを漏らしたことはありますか?
私はある。
しかも、よりにもよって電車の中で。
二十代後半、黒髪ロングに眼鏡。
部下からは「先輩」、同期からは「姉さん」と呼ばれ、会社ではそれなりに頼られる存在だ。
男っぽいくらいに仕事はこなし、クールだと言われることもある。
……でも恋愛はずっとご無沙汰。彼氏はいないし、夜はひとりで過ごすばかり。
そんな私が――あの日、新宿からの終電で、みっともなくおもらしした。
そしてその瞬間を、よりにもよって“後輩”に見られてしまったのだ。
あの夜の飲み会は、新宿の雑居ビルに入った安い居酒屋だった。赤提灯が灯り、油の匂いとタバコの煙が充満した、いかにも昭和な店。
「おいおい、姉さんはもっと飲めるだろ! 若いんだから、ほら一気だ!」
パワハラじみた声とともに、ジョッキが私の前に突き出される。上司の顔は真っ赤で、目は据わっていた。
「……は、はい」
断れない。私は下戸じゃない、むしろそこそこ飲める。それが逆に厄介で、注がれるままにビールを流し込む。喉を通る冷たい液体が、あとで自分を苦しめることになるのを、この時はまだ気づいていなかった。
「姉さん、顔赤いっすよ。大丈夫っすか?」
隣で心配そうに声をかけてきたのは部下の男の子。
「はは、また捕まってるな、姉さん」
同期が半笑いで茶化す。
私は眼鏡の奥から睨み返すが、返事をする余裕はなかった。頬の熱と胃の重さで、すでに限界に近かったからだ。
終電が近づいているのを時計で確認して、ようやく解散の気配が漂う。
「送ってやろうか?」「今度二人で二軒目行こうな」などとセクハラ混じりの声を背中に受けながら、私は逃げるように会計を済ませ、雑踏の夜の街へ出た。
ネオンが滲んで見える。足早に駅へと向かいながら、ふと下腹部に違和感を覚えた。
――しまった、トイレに行ってない。
けれど立ち止まる余裕はなかった。
改札の時計は、終電の発車時刻を指しかけている。
ヒールを鳴らしながら駆け込み、滑り込むように車両へ乗り込んだ。
ドアが閉まると同時に、安堵の息が漏れた。
……だが、その瞬間だった。
下腹部に鋭い痛みが走る。
忘れていた。いや、気づかないふりをしていたのだ。飲み会で散々飲まされた酒が、今になって容赦なく膀胱を圧迫している。
――やばい、トイレ、行ってなかった。
座席はすでに埋まっており、私はドアのすぐ横に立ったまま耐えるしかない。
窓に映る自分の顔は赤く、髪の隙間から汗が滲み出ている。メガネを押し上げながら、必死に平静を装った。
「……次は高田馬場、高田馬場です」
無機質な車内アナウンス。
耳に入ってくるたびに、あと何駅と数えてしまう。だが数えるほどに気が遠くなりそうだった。
車内は程よく混雑していて、目の前にはスーツ姿の会社員。スマホを弄る音、吊り革の揺れる音、誰かの咳払い。
そのすべてが遠くに感じられる。私にとって世界は、下腹部の痛みと脚の間に集中していた。
揺れる。腰が震える。
腿を交差させ、必死に押さえ込む。だが、酒で膀胱はいつも以上に言うことを聞かない。
――漏れるかもしれない。大人になってから一度もなかった恐怖が、現実味を帯びて迫ってくる。
そのとき、不意に電車が急に減速した。
「……ただいま線路内に人が立ち入ったとの情報があり、安全確認を行っております」
機械的なアナウンスが響く。
車内の空気が一瞬ざわつき、すぐに諦めたような沈黙に包まれる。
窓の外は闇。遠くにネオンが滲んで流れるが、やがて完全に止まり、何も動かなくなった。
――やめて、止まらないで……。
焦燥で胸が締め付けられる。あと数分で駅に着くはずだったのに、その数分が奪われる。
膀胱の奥で痙攣が走る。腰が抜けそうになる。必死に脚を擦り合わせながら、私は歯を食いしばった。
車内は沈黙していた。誰も口を開かない。
聞こえてくるのは、空調の低い唸りと、どこかでカチカチ鳴る吊り革の金具の音だけ。
その静寂の中で、私の荒い呼吸だけが浮き上がっている気がしてならなかった。
脚を組み替える。腰を揺らす。子供みたいな仕草。
だが、もう恥も外聞も構っていられない。膀胱の奥はカッと熱を帯び、痙攣を繰り返していた。
――落ち着け、まだいける。
――ここで漏らすなんて、絶対にダメ。
理性が必死に叫ぶ。
だが、その声にかぶさるように、もう一つの囁きが胸の奥から響いてきた。
ねえ、もう我慢できないでしょう?
だったら出しちゃえばいいじゃない。ほら、あの痛みが全部消える。
「ちが……違う……っ」
唇を噛み、震える声を殺す。隣に立つサラリーマンが視線を向けた気がして、慌てて俯いた。
車窓に映る自分の姿は、眼鏡の奥の目が潤み、汗で前髪が張りつき、必死に耐える哀れな女だった。
膝の奥に力を込める。腿を擦り合わせるたびに、スカートの裏地とストッキングがきしむ。
――冷たい汗が背中を伝う。尿意は波のように寄せては返し、次の瞬間には一気に決壊しそうになる。
もし出したら……気持ちいいかもよ?
あの瞬間、楽になると同時に……快感に包まれるんじゃない?
ゾクリと背筋が震えた。羞恥と恐怖のはずなのに、なぜか下腹部の奥が疼き、身体が震える。
「だめ、そんなこと考えちゃ……」
けれど、考えまいとするほど誘惑の声は鮮明になっていく。
――止めなきゃ。
――でも、もし……。
電車はまだ動かない。
沈黙の車内で、私は自分の膀胱と心の声に支配され続けていた。
下腹部に、さらに強い痙攣が走った。
身体が勝手に前へ折れ、片手でスカートの上から股間を押さえる。必死に食いしばった歯の隙間から、かすれ声が漏れた。
「……っ、あ……」
――その瞬間だった。
膀胱の奥が弾け、熱いものが細い筋となって下りていく。
ショーツの布地をじわりと濡らし、下の毛を伝って絡む。
「だめっ、止まって……!」
声にならない声が喉で震える。
股間に当てた手のひらが、ほんのり温かく濡れを吸い込んでいく。
ほんの一雫。ほんのわずかなはずなのに、それだけで全身が粟立つ。
――聞かれた?
――見られた?
心臓の鼓動がうるさすぎて、周囲の音が遠ざかる。
だが、耳の奥では電車の騒音がはっきりと響いていた。
ガタン……ゴトン……。
車内アナウンスが無機質に繰り返す。
「……安全確認を行っております。しばらくお待ちください」
しばらく。
その言葉が、私には絶望の宣告にしか聞こえなかった。
太腿の内側を伝う微かな温もり。
ストッキングが湿り、わずかな重みが生まれる。
――もう、一筋こぼしてしまった。
誰にも気づかれていないはずなのに、その事実だけで頭が真っ白になる。
ほら、気持ちよかったでしょう?
もう少し出しても、誰にもわからない。むしろ、もっと楽になれるよ?
誘惑の声が耳元で囁く。
私の身体は震えながら、その囁きを拒もうとして――けれど股の奥では、次の波がもう待ち構えていた。
――――
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