第9話「あの人は…本気です」



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### 第7話 狼の震え


報道フロアは、厚生労働省の特別監査決定のニュースで、まるで祝祭のような雰囲気に包まれていた。誰もが「歴史的快挙だ」と口にし、その中心人物である壬生さゆりを英雄のように称えた。


しかし、渦中のさゆりは、その喧騒から逃れるように一人、資料室の薄暗い片隅に身を潜めていた。

彼女の顔色は青ざめ、先ほどの父からの電話で握りしめていたスマートフォンの跡が、掌に赤く残っている。


『これはもう、お前一人の復讐劇では済まなくなるぞ』

『お前が守ろうとしているものすべてを、私も全力で壊しにいく』


父の静かな声が、耳の奥で不気味に反響していた。

それは、これまで彼女が相手にしてきた「権力」という名の巨大で無機質な壁とは全く違う、粘着質で、個人的で、容赦のない悪意だった。さゆりのすべてを知る父だからこそ可能な、最も残酷な攻撃を予告する声だった。


不意に、背後から声がかかった。

「おい、こんな所で油売ってていいのか。今頃、祝勝会でもやってるんじゃないのか、英雄さんよ」


振り返ると、そこに立っていたのは宮崎だった。彼は朝日放送メディアワークス設立時からのメンバーで、数々の修羅場をくぐり抜けてきたベテランの報道記者だ。無精髭に、いつもタバコの匂いをさせているが、その取材能力とジャーナリストとしての矜持は、誰もが認めるところだった。さゆりが唯一、弱音を吐ける相手でもあった。


「宮崎さん…」

「なんだ、その顔は。国まで動かしといて、まるで幽霊でも見たみたいな顔じゃないか」


宮崎は、さゆりの尋常でない様子に気づき、冗談めかした口調を潜めた。

「…何か、あったのか」


さゆりは、しばらく黙って俯いていた。完璧な鎧をまとっていたはずの彼女の肩が、かすかに震えているのを宮崎は見逃さなかった。


やがて、彼女は絞り出すような声で呟いた。

「…逃げなきゃ、だめかも」


宮崎は目を見開いた。あの壬生さゆりの口から、決して出るはずのない言葉だった。

「何を言ってるんだ。明日は最終夜だろうが。お前がここまで積み上げてきたものを、全部放り出すってのか」


「あの人は…本気です」

さゆりの声は、震えていた。

「私が守りたいもの…それは、この番組や、ジャーナリズムとしての正義だけじゃない。宮崎さんたち、ここまで信じてついてきてくれた仲間や、情報を提供してくれた人たち…そして、ご遺族の…」


父は、そこを的確に攻撃してくるだろう。

情報提供者の身元を割り出し、社会的に抹殺するかもしれない。番組スタッフの過去のスキャンダルを捏造し、週刊誌にリークするかもしれない。さゆり自身ではなく、彼女の周りの、最も弱い部分から崩しにかかってくる。父なら、それができる。


「私一人の復讐のために、これ以上、皆さんを巻き込むわけにはいかない…」

それは、さゆりが初めて見せた、本心からの弱音であり、恐怖の告白だった。復讐という名の孤独な道を突き進んできた狼が、初めて自分の牙が仲間を傷つける可能性に怯え、震えていた。


宮崎は、黙ってさゆりの話を聞いていた。

そして、深く、タバコの煙を吐き出すと、静かに言った。


「…馬鹿野郎」


さゆりが、はっと顔を上げる。


「俺たちが、何でここまでお前に乗っかってきたか、わかってんのか。手柄が欲しいからか?違うな。お前が、たった一人で背負ってるもんの重さを、みんな感じ取ってるからだ。だから、せめてその荷物の一部でも持ちてえと思ってんだよ」


宮崎は、さゆりの目をまっすぐに見て言った。

「それに、今更逃げられると思ってんのか。お前が番組を降りたところで、あの化け物が止まるもんか。むしろ、喜んでお前の仲間を一人ずつ、なぶり殺しにするだけだ」


「……」


「前に進むしかねえんだよ、壬生。お前が狼煙を上げちまったんだからな。だったら、最後まで牙を剥き続けろ。刺し違えてでも、喉笛を食い破るしか、俺たちが生き残る道はねえ」


宮崎の言葉は、荒々しかったが、不思議な温かみがあった。

それは、孤独な戦いだと思い込んでいたさゆりの心を、静かに溶かしていくようだった。

自分は、一人ではなかった。


さゆりの瞳に、再び強い光が戻り始めた。

そうだ。もう、後戻りはできない。恐怖に足を止めれば、自分だけでなく、守るべき仲間たちが餌食になるだけだ。


「…ありがとうございます、宮崎さん」

さゆりは立ち上がり、深く頭を下げた。

「少し、怖くなっただけです。もう、大丈夫」


彼女の周りに、いつもの白檀の香りが戻ってきた。それは、恐怖を乗り越えた者の、覚悟の香りだった。


「最終夜の準備に戻ります」


資料室を出ていくさゆりの背中は、もう震えてはいなかった。

宮崎は、その小さな背中を見送りながら、新しいタバコに火をつけた。

「…全くだ。手のかかる後輩だよ」


だが、その口元には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。

嵐は、すぐそこまで来ている。だが、彼らはもう、逃げも隠れもしない。最終決戦の準備は、整った。

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