白檀の香り『静寂の泉をもとめて』

志乃原七海

第1話## 序章



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### 小説『静寂の泉』


#### 序章


彼女のデスクの周りだけ、流れる時間が違うようでした。


受話器を片手に熱のこもった声が飛び交い、どこか遠くで上がった歓声が、大きな波のようにフロアを揺らします。タバコの煙がゆらりと立ちのぼっては、インスタントコーヒーの香ばしい匂いに溶けていく。そんな熱気に満ちた場所の真ん中で、壬生(みぶ)さゆりさんの周りには、まるで清らかな空気に守られた小さな庭のような、穏やかな静けさが広がっていました。


ふとした瞬間に、どこからか白檀の優しい香りが漂ってくることに、同僚たちはいつの頃からか気づいていました。それは、さゆりさんが手首にそっとつけている練り香の香り。夢と情熱が渦を巻くこの場所で、その香りだけが、凛として佇んでいるかのようでした。


「昨日の視聴率、また二桁だったみたいだね」

「バブルの頃に比べたら、可愛いものだけど」


通路を挟んだデスクで交わされる軽口が、さゆりさんの耳をかすめていきます。1993年。世の中はまだ華やかな光の中にありましたが、その足元には、ひんやりとした冬の気配が少しずつ忍び寄っていました。


朝日放送メディアワークスは、そんな時代の最前線に咲いた徒花(あだばな)のような場所。大きな組織から独立し、自由な発想を持つ人たちが集うこのオフィスでは、誰もが自分の企画で新しい花を咲かせようと、互いに腕を磨き合っています。


そんな声のさざなみを背中で聞きながら、さゆりさんは分厚い資料の束に、静かに瞳を落としていました。彼女が担当しているのは、深夜にひっそりと放送されるドキュメンタリー。一部の目利きが褒めてくれるだけで、大きな話題になることはありません。


給湯室から戻ってきた若いアシスタントディレクターが、先輩にそっと囁きました。

「壬生さんって、どうしてここにいらっしゃるんでしょうね」

「さあ…。僕たちには、わからないよ」

「だって、あの壬生さゆりさんですよ。少し前まで、夕方のニュースの顔だったじゃないですか。僕、毎日見ていました」

「うん。週末の番組では、本当に楽しそうに笑っていたよね。あの笑顔が好きだった視聴者も多かっただろうな」

「そのまま局にいれば、きっと今頃は看板キャスターだったでしょうに。何かあったんでしょうか」

「僕も気になってみたけど、何も。不思議なほど綺麗な円満退社で、ご自分の意思でここに移ってきたんだって。理由は誰も知らない。それが、この会社の七不思議のひとつ、かな」


それは、このオフィスに漂う、いちばん大きな秘密でした。どうして光の当たる場所から、自らの足で歩み去り、この裏方の場所へやってきたのか。視聴率でも、名声でも、お金でもない何かを求めているかのように、彼女だけが違う時を刻んでいるのです。


そんな噂話がすぐそばで交わされていることにも気づかない様子で、さゆりさんは資料のページを一枚、そっとめくりました。そして、ふと顔を上げ、デスクに置かれた一枚の写真立てに視線を移します。そこに写っているのは、深い緑の森に抱かれるようにして佇む、古びた山荘。


その写真を見つめる彼女の瞳が、ふわりと和らぎます。遠い日の光を思い出すように、口元にはかすかな微笑みが浮かんでいるのに、その瞳はここではないどこか、遠くを見つめているよう。まるで、静かで深い泉の水面が、空の色を映しているかのようでした。


やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がります。資料の山から数枚の紙を抜き取ると、部屋の奥で葉巻を燻らせているプロデューサーのもとへ、迷いのない足取りで歩いていきました。あれほど騒がしかったフロアのざわめきが、彼女が歩くたび、嘘のように遠のいていくのです。


差し出された企画書を、プロデューサーは意外そうな顔で受け取りました。そして、その一枚目に記されたタイトルに、小さく目を見張ります。


『静寂の泉をもとめて』


それは、彼女自身の心の行方をそっと指し示すような、長い旅のはじまりを告げる言葉でした。

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