生死の境
武内明人
生死の境Ⅰ(全編)
「人には生きる資格と死ぬ権利があります。私は、権利を行使したいと思っています。生きてきた人生に罪になるような事物はありません。でも、ずっと私の脳裏には、死ぬ事の方が明るく感じてきたのです。」山見静(やまみしずか)は、息を引き取る前に狭川医師に語り絶命した。令和4年3月、春はまだ足踏みして人間の心を切歯扼腕させていた。「寒いなぁ、いい加減にしてほしいよな。」狭川真二郎(さがわしんじろう)は病院への自転車通勤に嫌気がさしていた。自宅から車で15分と言う中途半端な距離で妻から減量を言い渡され電動だが自転車通勤を余儀なくされた。勤務する東丁総合病院には今年10年目を迎えた。インターン研修からずっとこの病院に通っているが、年々体躯が妻曰く「ボリュームがありすぎる。」と言われ去年の春、車から自転車への変更を余儀なくされたのだ。その自転車も去年、中学を卒業した娘のお古だ。娘は、新しく17万の折りたたみ電動アシスト自転車に乗り換えた。進学校への合格祝いには高すぎる代物だ。然し、一人娘に対する妻の気持ちと自分の気持ちは躊躇いなく金銭感情をを捨てた。「おはようございます。」皺としみの並びから看護師長の榎谷甫子だと分かった。「おはようございます。」最近は、個人情報の問題から、何々さんおはようと言うのも憚れる。挨拶は欠かさずとも少なからず時代の変化を感じる。自転車を駐輪場に止めていると、同じように自転車を止めようとしている鴨臥木院長に気付いた。「おはようございます。」狭川は院長が自転車通勤をしていなければ自分は果して自転車を使っていたただろうかと思った。「おはよう、今日も寒いねぇ。」院長の顔からそういう表情は全く感じない。院長はロードレーサー姿でスリムな体にふるえ一つない。噂では、院長のロードバイクは100万を超えるらしい。「そ、そうですね。」狭川にとっては神様くらいのお人だ。病院裏のスタッフ入口から入り、ロッカーで白衣に着替えると、精神科の診療室へと向かった。狭川はこの総合病院の精神科で医師として働いている。彼はゲートキーパーの研修を受け、自殺者への懸命な診療を続けている。勿論、来院患者を担当するが、時間外には病院内の医師、看護師、スタッフに対するゲートキーパーも行っている。「先生、次の方をお呼びします。」看護師の石礫聖美は狭川とは5年の相棒だ。「山見静さんどうぞ。」「はい。」と診察室の引き戸越しに石礫から呼ばれた女性は、黄金比に整ったアジア美人。ロングウルフレイアーで今時の水も滴る美女だ。静を目の前にすると狭川は自分の専門科を忘れそうになる。彼女の視線の位置やしぐさ、言葉づかいから希死念慮があるようにはとても思えない。然し、この診察室に間違えて入って来たのではない。先週から診療を始めたが、二回目の方が、表情が明るい。だが、語る表情とは裏腹に出てくる言葉は、死を求めて彷徨っている。「何故、そう思われるのですか。」狭川の質問に彼女は「意図しない状況でこの地に生まれました。前回は幼い日の事を話しましたが、今回は、学生時代の私の気持ちをお話します。学校は、法倭高等学校に行きました。」法倭高は卒業生に国会議員が多く、時の総理大臣もこの高校の卒業生だ。「勉強は楽しく、全てが頭の中に滑るように入ってくる事が快楽の様にも 思えました。」「所謂人間の吸収期間の状態ですね。其れはほんとに快感に思えるでしょう。」狭川は、自分の経験から同意を現した。そう肯定する事で繋がりを密にする事になる。静は続ける。「勉強だけではなく、部活動も全国大会へ私自身も出場が叶いチームのメンバーとは仲良く過ごす事が出来ました。」「部活動は何をなさいましたか。」「スケボー部です。」狭川はこの会話に対しても順風満帆落ち度などみじんも感じない完璧な学生生活に思えた。一つ気になったのは、楽しさややりがいのある話をしている割に表情が余りにも落ち着いている事だ。狭川は自分の専門から離れないと落ち着きさえも死を覚悟しているからだと思えてきた。「スケボーは我々のもっと前の年代からありますが、最近オリンピックなどでまたブーム化しましたね。」静は、答えを探せなかった。もっと前の年代からと言う意味がはっきりとは分からないからだ。生まれる前の話を聞く事は出来る。然し、実態の無いものの名前を探すことと同じで経験と知識が一致しなければ人間は認識できないのだ。狭川は、迷ったが、こう尋ねた。「高校時代には、死を考える事は有りましたか。」静は躊躇いなく「私は、一度も死を見失った事は有りません。」そう答えた目線は、狭川の視線をしっかり受け止めていた。「山見さん、今、悩みや辛い事は有りますか。」自殺企図を防ぐためには本人のよりそばにいる事が大事だ。一人で抱え込ませずに死と言う言葉の筋道を見極めなければならない。文章には主語があり述語で終わる。然し、修飾語になる、生きてきた道程を掴まなければ言葉は理解出来るとはいえない。然し、静は端的に答えた。「今は、楽しく、幸せです。」と。狭川は、静の診療を終えると彼女のカルテをもう一度見直した。「言葉自体に自殺念慮は垣間見えない。が、死と言うものに対して意志の強さを感じる。どこにその心因があるのか。」どう知識を吐き出しても彼女からは自殺するような気配を感じなかった。人の命が公益とするならば自殺すると言う事は公益を犯すことになり罪人となる。然し、命は本人のものであり最終決断が自殺であれば本人には有益と言える。議論は様々であり、今の自分を殺す事は将来の自分を殺害する事でもある。其れは、自分にとって有益なものであると言えるのだろうか。彼女がどういう形で自殺をしようとしているのか。リストカット症候群、パラ自殺、DSHと分かっている形であるのかないのか。
4月に入っても寒さは続いた。「三寒四温と言うけど、これじゃぁ三寒四寒だよ。」今日も電動自転車は狭川を病院へと導いた。日本は海外で起こった海底火山の大爆発の影響により、気候変動が起きていた。地球全体が0.7度気温低下を起こした。そのニュースをテレビで見た狭川は眉間に皺をよせ、暖かい室内でも絶えるようなしぐさを見せるようになった。「先生、有難うございます。今まで、ずっと人に言えなかった悩みを口に出して言えた事で死にたいと思う事がなくなりました。」佐伯譲汰21歳。6か月前から狭川の元で診療を受けている。然し、「死にたいと思う事が無くなったという言葉のあと数日中には自殺未遂を起こしている。」自殺は、本人たちの尊厳を守る為の一時的手段なのである。自殺を企てる事で人が自分の方に向いてくれる。いわば生きている希望が自殺なのだ。彼の治療法には感情調節集団療法を取っている。患者同士のグループを作り、感情調節、受け入れ、価値観などを見出し、回復へと導くのだ。そのデータを積み上げた結果として、言葉のキーワードを見つけ出した。其れが、「死にたいと思わなくなった。」である。それでも、狭川は佐伯の気持ちを受容し、「そうですか、とても悩んでらしたのですね。私も、佐伯さんのお話がとても前向きで安心感を持ちました。」狭川の言葉に頷くように笑顔を作った佐伯だが、診療室を出ていくときの顔は、自殺実行と言う目的をしっかりと持った顔つきだった。狭川は、石礫に家族へ電話を入れるように頼んだ。「こう言ってください。今日は、危険な日の様ですと。」診察室から窓の外を見ると、白い綿毛のようなものがちらちらと舞い落ちていた。「まさか、雪か。」狭川は立ちあがって、鉄格子が入った窓枠のそばで渋い顔をした。診察室は二階にある。飛び降りの危険回避の為、病院の窓には鉄格子あるいは、窓が開けられない作りになっている。建物自体は3階建てで三階は窓が無い作りになっている。「帰りが大変だ。」診察は、午前中に終わる。以降は、入院患者への回診をするのが茶飯事だ。回診日というくくりを持たず、患者を見回りながら気になる人に声をかけ症状を把握して行く。総合病院のため、精神科病棟に入院できる患者は限られた重症者のみである。「お疲れ様でした。」自転車置き場で、帰ろうとしていると鴨臥木院長から声を掛けられた。狭川は何時も申し訳なく思う。気付くのが遅い為挨拶を先にされる事が多い。しかも、相手は尊敬する院長だ。「雪がチラついていたが止んで良かったね。」院長に只頭を下げて後れを取った事と挨拶を同時にするのが狭川の日常だ。院長に「気をつけて帰られてください。」と言おうとするが、装備や乗っている自転車の格の違いに自分が一番気をつけなければならない事を悟って「お疲れ様でした。」だけを返すのが精いっぱいだった。
令和4年5月。早見静の三回目の診療日。季節は遅れた春を倍に返すように、連日の夏日が続いた。狭川は、ここのところ、ロッカーで下着まで気がえなければならなくなっている。「ついこないだまで、雪が舞っていたのに、汗かいて着替えが無かった時に自分の椅子が濡れていたのを患者に漏らしていると言われた時は恥かしいのなんのって。」それ以来、下着の換えもリュックに入れて持ってくる事にしたのだ。静は、落ち着きすぎるほど落ち着いていた。彼女に対しては、DBT弁証法行動療法で対応している。この療法では様々な人が関わり、24時間彼女を守る。然し、今の彼女は一仕事を終えた落ち着いている表情をしていた。「もしかしたら。」狭川は嫌な予感がした。服装からリストカットの確認は出来そうにない。それでも強引に腕をまくるような真似をすれば二人の信頼関係が崩れてしまう。たくさんの人達で守っているものを潰すような真似は厳禁だ。「この一カ月、生活の方はどうでしたか。」彼女は、一人暮らし。両親から離れ、自立をしたいという彼女の意志を尊重している。両親の反対は有ったが、昭和の古い考えによる間違った思想からだった。所謂家に閉じ込めると言う事だ。ある意味死にやすい状況を作る事に繋がる。「はい、彼が最近ご飯が美味しく料理の腕が上がったと言ってくれました。」狭川には幸せな言葉に思える。自分が作ったものが美味しいと言われる事は、物作りでお客に喜ばれるようなものだ。「そうですか、とても幸せな言葉を頂きましたね。」然し、彼女の表情は平素を保っていた。「それでは、今回、血液検査をしますが宜しいですか。」勿論、リストカットの確認もあるが、体調の確認も怠れない。「はい。」言葉に遅れが無い。「石礫さん、血液を。」石礫は、腕受け台を用意し、隣の検査室に彼女を誘った。「採血を致しますが、どちらの腕にしますか。」石礫は、採血と同時にリストカットの確認も怠らない。「左腕に。」静は、右利きで、左腕を出すのは自然と言える。「少し、チクっとします。」注射針を静脈に差し込む時、手首の確認を気付かれないよう瞬時に確認した。「矢張り。」石礫は、静の診療を聞いていて、少し違和感を覚えていたのはこれだったのだと悟った。狭川は軽快に「それでは、今日は、ここまでにしましょう。繰り返し聞きますが、悩みごとなど有りませんね。」静は、はっきりした声で、「有りません。」と答えた。彼女が診察室を出てから、石礫から報告があった。「深いリストカットが1本ありました。」狭川は、得体の知れない失望感に包まれた。リストカットは知識のいる自殺方法だ。彼らは死ぬ事が目的ではない為、人に助けてもらう事で自分の存在を見せなければならない。つまり、死にいたる個所は切らないように避けるのだ。彼女は所謂リストカッターや自傷ラーとは違う。自殺企図を起こしうる重症患者だ。自傷行為は彼女の本懐ではない。自傷行為者は、この広い地球の中で自分と言う命がどんな存在なのか。其れを教えるのは、「助けてくれる人。」なのだ。生きている価値、人間は生きて何をこの世に残すのか。その答えを出せる人はこの世にいるのだろうか。早見静の次に診察に訪れたのは、初老の男性だった。作業ジャンパーに汚れた作業服。風貌は荒んでいる。「千条武さん、はじめまして。私は、狭川と言います。よろしくお願いします。」返事は帰ってこなかった。自殺未遂でこの病院に担ぎ込まれてきた。首を吊った為喉に虎ロープによる線条痕が残っている。「首の方は大丈夫ですか。」その瞬間だった。千条が狭川に向かってこぶしを振り上げてきた。仕舞った。」間に合わなかった。右の頬に千条の左拳がぶつかる。声を出したため舌を噛んだようだ。薄い血液の味がした。さらに千条は狭川の襟元をものすごい力で絞り上げていた。「だ、誰か。」石礫の悲鳴に、3人の男性看護師が慌てて千条を引き離す。それでも力仕事で培ったのか、掴んだ手が離れない。4人目の看護師が駆け付け、千条は隔離病棟へと連れて行かれた。狭川の白衣は、襟から腹にかけて裂けていた。「誤診だ。言葉を選び間違えた。」自殺企図の個所をうっかり聞いてしまったからだった。其れは、個人の最も触れられたくない真実であり、デリケートなところだ。しかも、それは死を願う人間にとって最終の決断によって生じた現実であり、そこに触れれば死を持って制裁を受ける。自分の為に人を傷つける事は自身の生命保持の場合は許されるとしている。また、他人を傷つける可能性がある場合、生命保持のため、傷つけようとする人間を傷つける事も良しとされる。その日、病院では、警察を巻き込むかどうか会議が開かれた。結果、精神科の専門病院へ千条を移す事で一致した。
令和4年は遂に半分を迎えた。6月、電動自転車を漕ぐ狭川は、裾の裂けた雨合羽で出勤していた。「チェーンに合羽の裾が絡まるなんて昭和じゃないんだが。」娘のお古のこの自転車は改造車だ。至る所を取り外し、シンプルだが、チェーンカバーも無い。雨に気を取られて裾ベルトを忘れて足元を引っ張られる感じがしていた。病院に着き裾を見ると折り目の部分が完全に裂けていた。「寒いの後は熱い、今度は水攻撃。季節は何故人間を責める。」道理に合わない理屈を捏ねながら診察室へと向かった。「早見静さんどうぞ。」石礫の歯切れのいい声が診察室前の廊下に響いた。中へ入って来た静は、物憂げな表情に見えた。「雨が続きますが、気が滅入ったりしませんか。」狭川は、診療では無く、私事として気持ちを聞いた。「先生は、季節によって気分が変るとほんとに思っていますか。」ドキリとした。彼女の眼は、憂いから挑戦する目に変っていた。リストカットによる影響である事と狭川は捉え、「そうですね、人の気分と言うものには実態が無いですから、季節により人が変る事は実証しようがないですね。」彼女は、「心も実態は無いですよね。」「その通りです。私達の診療は有ってないようなものですよ。」精神は、心と言う時代は崩壊しつつある。自殺を考える脳に疾患があると理屈では立てられている。、外傷の無い、心の傷がみえる医者など一人もいないだろう。どんなに研究がすすめられ、試験やデータを積み上げようと、人の心と言う空虚な世界を理解出来る天才もいないだろう。「もう少し、静さんの事を知りたいと思いますが、前回高校時代のお話を聞かせていただきました。その後は、大学の方へ進みましたか。」落ち着いた顔に戻り、「はい、慶唐大学へと進みました。」慶唐大学は、ノーベル賞を受賞した歴代の研究者が目指した国内屈指の名門大学。決して裕福な家庭環境では無い早見家で彼女は人間の限界を超えるような努力を続けてきた事が窺われた。高校時代には狭川に分かる自殺念慮の原因は無かった。大学時代に有るとすれば社交不安症であるかもしれない。SADと呼ばれるこの精神疾患は、併存症で大学生の自殺原因に多い。これと併存して大うつ病エピソードMDEが発症すれば、自殺企図の確立が高くなる。「受験勉強は、一日どのくらいでしたか。」「高校三年の時は、二日に一度、3時間の睡眠を取る以外は、全て勉強に当てました。」狭川は、彼女の表情に達成感と言うものが感じられない事が気になった。「勉強熱心で素晴らしいですね。」心底思った感想だ。人間の集中力問題や、引き出せる力問題など様々なデータにより解析が進むが、人に限界は無いという事は言えるだろう。集中が切れたところで目で見、頭で考える事は人にとっては自然な行いだ。「大学生活は謳歌しましたか。」静の口元に笑みが浮かんだ。狭川は、幸せ一杯だったんだと思ったが、彼女の口から出た言葉は、「闇の中でした。」だった。「大学の入学式の日に母と彼が結ばれたんです。」狭川は目を大きく広げた。「彼は高校の同級生でした。2年の時、付き合い始めました。彼と私は同時に心が繋がったような気がします。どちらかが付き合って下さい的な行動は無く、只自然にそばに寄り添うようになりました。高2の終業式が終わって家に帰ると彼と母がセックスをしていました。体位から彼の方が積極的なようでした。」静は、何故か安心した雰囲気を醸し抱いていた。「だから、私は高3では勉強だけをし続けたのです。ただ、その状況がそれを行う事でしたから。」そこまで話すと狭川は、「今、体調に変化は有りますか。辛いとか苦しいとか。」「平素の自分です。」そう言いきった彼女の手は行儀よく腿の上に置かれている。「そうですか。又次回お話を聞かせてください。」彼女は快く引き受けた言葉遣いで「分かりました。」と答えた。
雨は天気予報の予想を外れ、一週間降り続き梅雨入り宣言が出された。合羽を辞め発水性の有るスポーツウエアに変えた狭川は、「体を良く吹かなきゃ汗と湿気が混じった匂いがきつい。」ロッカーでバスタオルを下半身に巻いて上半身をふき巻いたバスタオルで下半身を入念に吹き上げる。最後に、ボディーメイクで香料を塗ると清潔感のある白衣の医師に戻る。「石礫さん、最初の患者を。」「平倉幹夫さんどうぞ。」平倉は、ひきこもりから鬱になり、飛び降り、首つり、リストカットと三度の自殺未遂がある患者だ。何時も狭川より先に話を始める。「先生、今日はね、子猫を拾って家に連れて帰ったら、母さんに捨てなさいと言われたんだ。でもね、こっそり、自分の部屋に持ち込んで買う事にしたよ。僕って偉いよね。」自己主張が全体の話の8割だが、決して人を否定しない心やさしい男性だ。「そうですか、素晴らしい動物愛護の精神ですね。野良ネコはたくさんの危険が周りにあって、生きる事が難しい環境ですから、平倉さんのおかげで一つの命が救われましたね。良かった。」狭川は、ひきこもり自体が自殺の原因にはならないと思っている。昭和初期には、家に何もない家庭が多く現代の様に在宅で生活出来る仕事がある時代背景とは比較にならない面が多いと考えていた。平倉は34歳で、スマホに依存した青年だ。若者のスマホ病も新しい時代の生活スタイルであって、「スマホばかり弄る。」と躾をする親は時代の勉強不足と思える。現代の会社は、パソコン、スマホ、タブレットの三種の神技で成り立つところが大きい。昭和で言えば一つの物事に長ける人間は出世するといえるのだ。「平倉さん、スマホで今はどんな事をしていますか。」狭川の言葉は平倉が最も求めるものは何なのか引き出す意味だ。「お母さんに、携帯会社との契約を打ち切られたので、電波の繋がらないスマホの使い道を考えています。」平倉は、躁の状態に変化した。自分が最も聞いてほしい事だと認識したのだ。「先生は、もし、スマホが通信不能になったら携帯会社にかけ込むでしょう。僕は違うんです。通信料を払わないでいいし、スマホは、フリーワイファイを使えば使い買っては変わらないんですよ。スマホは、電話じゃなく媒体なんです。」狭川は、自分の不得意分野ではあったが、本気で興味がある事を平倉に伝えた。彼は、満面の笑顔で、ダウンロードすればワイファイから離れても動画や書籍が読み放題だと自慢げに話す。だんだんと気分はマックスに近づいた。声のトーンが大きくなり、社会への恨みつらみを攻撃的な言葉で話し始めた。狭川は、「そろそろだ。」と平倉を平静に戻し始める。「今回は、大変勉強になりました。平倉さんの話はとても参考になります。お母さんに聞かせてあげたい。」と言ったところで平倉はくしゃくしゃな笑顔から平常心を取り戻した。平倉は、母親に絶対服従な態度で平素から逆らう事が無い。初診では、母親が同席し一語も口に出さなかった。その一人立ちの手前で立ち止まっているのだ。ただ、彼は自殺行動を常に変化させている。どんな方法を使って自殺企図を遂げようとしているのか判断がつかない。「では、又次回は来月の3日で宜しいですね。」と狭川が言うと籠った声で「はい」と答えた。
狭川一家は、妻、長男、次男、長女の5人暮らしだ。長男の翔は大学4年で就職も薬剤師の道が決まっている。次男は今年高校受験、情報処理科のある学校に進むつもりだ。長女は高一で有るが、スポーツ推薦での進学。それぞれが生きる希望で胸一杯だろうと狭川は思っている。中でも翔が薬剤師になるとは夫婦とも意外に思った。大学の専攻は生物学。人間も生き物だと言われればそれまでだが、漠然と医療とは無関係だと決め込んでいたのだ。一流大学では無かったが、狭川も子供たちに医療を一度も進めていない。もっと言えば「医者になどなるものではない。」とも思っていた。医療は生命に命を吹き込むような仕事ではない、かけた部品を新しいパーツに入れ替えるだけの修理屋だ。今の医療では、永遠の命は保証できない。延命に努めるだけのサラリーマンだ。「石礫さん、最後の患者さんを。」本日最後に入室したのは、小学6年生の女の子だ。父親に連れられてきた。「皆川ひかるさん、こんにちは。」少女はかたくなな態度と海に沈む貝の様に口を閉ざしている。「すみません、先生。」父親の恭介は、娘を憐れみな目で見つめながらそう言った。「いえ、誰でも彼でも話さない方が、いまの時代安全です。」申し訳なさそうにする父親の意に反して娘のひかるは窓に立つ鉄格子を眺めていた。「ひかるさん、アニメをペンタブで書いているそうですね。今度見せてほしいです。」ひかるは、母親の死をきっかけに小学校の3階から飛び降りを図ったが、植え木の上に落下したため、肋骨を骨折しただけで命は救われた。母親っこだった事で父親とのコミュニケーションは失われたままだ。狭川は、彼女の診療には同年代のグループセッションを考えていた。それと大事な事は長い時間だと。梅雨は3週間で収まった。台風と大雨の影響で病院のボイラー室が浸水したが、焼きつく一大事だけは守られた。大都市なのに自然に対しては田舎と変らず不便さが多い。人間の視野では、地球的災害は今後も防げそうにない。自殺企図を試みる人達の8割は病院受診に至らず死亡して仕舞う。本人たちの思う相手は病院の医師では無く周囲の人間なのだ。自分の存在が忘れ去ろうとすると「自分はここにいる。」と主張を続ける。一人の人間、一つの生き物、そしてたった一つの命。命の重さを人はどう考えるのか、生きるとは本人たちには意味の無いもの、存在こそが彼らの尊厳だ。
早見静は、研究室に籠っている。「生物の集団行動。」と言う論文の作成をこの1週間作り続けていた。大学卒業後、国家公務員1種試験に合格、キャリア官僚として国会答弁の文書作成を行っていたが、1年ほどで辞職し、母校である慶唐大学の研究室へと転職した。辞職願に「死を求めたくなりました。」と書かれていた事から、狭川の病院へと紹介されたのだった。殺人的な労働時間を指摘されていた官僚で有ったため、静に対しての保護願いの意味もあった。「これ以上、過重労働を指摘されたくない。」と言う行政側の願いでもあった。研究机の上にはガラス水槽が置かれ中には土の断面に細いトンネルが見える。蟻の巣を観察できる物だ。静は、生物の集団行動のデータとして蟻の生態系を研究資料にしている。「あ、又一匹死を迎えた。良いな蟻は。死ねば周りの蟻たちが寄ってきて運んでくれる。まるで、神を祭った神輿を担ぐように。」働きアリの寿命は2年ほどだと言われ親になる女王アリは20年。働きアリは一生を掛け女王の為、餌を運び、女王を守る。「私には、守ってくれる人はいない。私が死んでも、誰も見向きもしない。」ノートパソコンをタッチタイピングする速さは益々上がる。ありの生活を覗き見ながら彼らの行動を寸分たがわず文章化していく。タイピングを終えると蟻の巣の入り口に出来た小さな蟻塚のサイズを測りデータ入力して行く。彼女は思っている。「私は、人間に踏みつけられている蟻たちよりも存在の無い女。」と。
狭川は一人の男性と対峙している。見那間一樹(みなまかずき)。彼は、自殺念慮はない。自傷行為が顕著な患者だ。ボディーピアスはへそ、陰部、に及ぶ。勿論、耳、舌にも付けられている。洗濯洗剤を大量に飲み、酸素欠乏を起こし救急車で運ばれた履歴がある。見那間には周囲に暴力団の影があるが覚せい剤などの反応、犯歴は無い。シングルマザーの母親は一昔前に流行ったコギャルだと一樹は言った。「また、アクセサリーが増えましたね。」狭川は目を開いて驚いた。彼の指爪に5個ずつ動物のアクセサリーが飾られている。人を見返したいのだと常に奇抜な行動を取る。そのこと自体に興味があるわけではない。「皆がね、凄い凄いと褒めるから俺気分良くて。」注目を浴びる事に対して執着する。典型的な自虐型だ。中学を卒業し高校進学はせず、夜の街を徘徊している。父親は、不明。母親は、狭川の心配をよそに「自分に似ているから大丈夫死ぬ事はしないよ。」と楽観視している。確かに死に直結する行動は見受けられないが、体を切り刻む事は何かしら身体に負担がかかり将来的に死と結び付く事もある。この病院を受診を選んだのは、彼の祖父だ。「孫が物の様に扱われている。」と騙されて人に付けられていると主張する。本人の意志とは違う何者かがそうさせていると繰り返し訴えてきた。社会通念から考えれば本人が付けたと断言はできない。テレビや映画、タレント、俳優。そう言った人達の模倣であるとも言えなくはない。だが、人間の認識と言うものは自己解釈によって大きく変わることもある。周囲の認識と本人の認識はずれがある可能性もあり、そのずれと言うものが本人の個性だと言えなくも無いのだ。自分の体を傷つける行為は外野が中心に対してどうする事も出来ない問題でもある。「体に何か変った事はありませんか。」「大丈夫っす。ゴリマッチョだから。」狭川と見那間の診療はこの言葉で締めくくられた。「自殺企図の可能性は薄いだろう。友達が注目している間は。」気になりながらも狭川は彼の元気さに安心感を持った。
「かあ。」皮膚がちりちりと焼けつき一枚一枚くねりながら剥がれていくそんな暑さの真夏日。令和4年7月。夏は、人間を陽炎のように焼けつく亡霊と化した。院長に倣ってロードレーサースーツで出勤した狭川は既に一日の労働力を使い果たしている。「熱くなったから、院長を真似てみたけどそれでも熱すぎる。」だらりとする身体を気力で直立させる。ロボットの様な動きになったが構わず診察室へ急いだ。「先生、少し痩せたのでは。」静はそんな暑さにも冷静な顔で呟いた。思わず同意をした狭川だが、顔つきは出来るだけ変らないように喜んだ。相手が女性の場合、身体に関する問題はデリケートだ。良く「私は太っている。」と勘違いする人が多い。それぞれがそれぞれの基準を持って体系を作っている。過食、拒食、両方。それもその人なりの基準があるのだ。「それでは、前回を踏まえて大学以降の事を窺えますか。」静の眉が下がった気がした。「先生、私の略歴など聞いても参考にはならないと思います。私は、生まれ持った自殺志願者です。世界の人口を考えればそんな人間が珍しいとはいえないのではありませんか。」狭川は少し間を開けた。「地球上のすべての人間の事が分かる医者などいない。ましてや、人間そのものが医療に完全に認知されているわけでもない。医者は、人の一部補填をするのが関の山だ。命一つ、永遠に守る事が出来ないのだ。100年後に人間は永遠の命を得る事が出来るだろうか。その確率は0に近い数字だろう。人の心を人が救う。其れは、永遠の命を得た人間にしかできないのかもしれない。人は何時か死を迎え骨と化し、生命を失う。其れが現実である以上、自殺企図を願う者に横槍は入れられないのではないだろうか。」狭川は、自分の診療の無力さに太刀打ちできるような気力があるとは思えなかった。「先生、私、先生が好きです。でも恋愛感情ではなく、私を救うべく懸命に努力なさっている姿に憧れます。私の命は私のものです。法益だとか、社会の財産だとか絶対に言われたくありません。私の物は、これだけなんです。他に何もありません。だから、自由に使いたいだけです。」それ以上彼女に話しかける事が出来なかった。狭川は彼女の信念に負けた。自分の力の無さではない。人は人により生まれ、その人となった日から誰も入る事の出来ない人生観を持つ。本人の一生は他の誰にも作ることなどできない。自分が積みあげ、削りながら作り上げるのだ。二日後、静の自殺未遂の報告が狭川の耳に届いた。研究室の硫酸を頭から被ったと両親は電話で話していた。幸い、最初に掛った個所の猛烈な痛みに残りを掛ける事が出来なかったらしい。それでも、頭に中等症のやけどを負った。今回の一件で慶唐大学のメンタル専門職員の奥行美奈子と棟丁総合病院の看護師石礫が静のゲートキーパーとして選任された。勿論、二人共研修済みだ。さらにソーシャルキャピタルとして慶唐大学全体が協力を了承した。ソーシャルキャピタルは、外部を。ゲートキーパーは内心をと言う事だ。その日、棟丁大でゲートキーパー会議を行った。「彼女の言動から、推察する事は出来ませんでしたか。」奥行美奈子は豊満な体で見た眼に圧倒されるが、言葉尻は軟らかく話を相手の筋書きに乗せるのを得意としている。決して相手の話を詰まらせない。然し、こういう場では、ずばりと確信を突いてくる。「彼女の話は、全てが幸せに包まれています。辛い話や、苦しい思い、困った事は皆無と言っていいほど出てきません。」石礫も頷き「私もお話を影で聞いていますが、精神的な問題は殆んど感じませんでした。」三人は、同様に思考を巡らせた。最初に切り出したのは狭川だ。「どうでしょう、私の患者さん同士でのFGIをしたら。」
FGI(フォーカスグループインタビュー)の事で、あるテーマをモデレーターと呼ばれる司会者の元、対象の認識、解釈、信念を理解すると言うものだ。グループとして社会的にも文化的にも同じ境遇の人達が選ばれる。「そうですね。同じような経験者が別の事について話しながら生きていきたいと思う事が出来れば。」奥行が目を輝かせながら頷いた。石礫は自分から意見は挟まず狭川の指示を待っている様子だ。「それでは患者さんに詳細を伝え確認してみます。」狭川が締めくくり会議は終了した。
FGIの準備が始まった。モデレーターは奥行が、サブインタビューアーを狭川が、記録係を石礫が担当する。観察係は三人が、兼任する事にした。患者は、早見静、平野幹夫、見那間一樹の三人だ。テーマを「生活に必要不可欠なアイデア商品」と銘打った。このテーマは石礫のアイデアだ。彼女は「困った時に役立つ商品」と言う表現をしたが、狭川が、「困ったはネガティブだから、必要と言う言葉を入れて。」との発言で奥行がこのテーマに辿り着いた。三人でアイデア商品をネット検索し、いくつか取り寄せた。その商品について意見を求める。「これはどんな時に使うのかな。」狭川はアイデア商品に関して全くと言っていいほど知識がない。そもそも医療器具さえも、全てを知っているわけでもないのだ。「この輪っかになったゴムは何に使うのですか。」さっぱり用途が分からない狭川は不思議な顔で石礫に聞いた。「ベルトです。」と自慢げに言うと「ベルトって、これどうやって締めるのでしょうか。」「ここを外したら。」石礫は実際に自らのズボンのベルト通しにコムを滑らせた後、ホックをはずし、ポケットあたりでホックを止めた。「なるほど、これならおなかがポッコリとならないですね。」感心しきりの狭川は、続けて「これは又ドラえもんの竹コプターですか。」笑いながら奥行が「これはベランダサンダルカバーです。上部の竹コプターは庭に違和感を感じないよう作られています。特に、茶色のサンダルでしたら、土の中から新芽が顔を出しているように見えます。」「なるほど。細かい所にこだわっていますね。」狭川は三つ目が気になっていた。眼鏡にプリズムレンズが取り付けられた物。「これは私も使っている寝たまま眼鏡。寝たままレンズで屈折させた文字を読むと言う優れものです。」狭川が自信を持って説明すると、奥行と石礫は「おじ様ね。」と笑っていた。
11月の初めにインタビューを行った。時間は10時とした。この時間は、共通に安心できる時間帯の様で、三人の患者は遅刻者なくそろった。朝が苦手、朝早い人両方に対応できる時間の様だ。「それでは第一回フォーカスグループインタビューを始めます。」司会の奥行は、まじめな性格そのままで挨拶をした。「今日の商品はこちらです。」狭川が感心した三つの品物が、木製の純白机に等間隔で並んでいる。「それぞれ、手にとってこの商品についてどんな事でも発言してみてください。」見那間一樹がいきなり「便利グッズだよ。」虚仮下すような態度で気が進まぬ気持ちを露わにした。「一つ意見が出ました。見那間君の意見から進んでみましょう。」狭川は、場のムードをポジティブ展開する為、助言をした。「それは、意見じゃなく見たまんまでしょ。其れについて話しするんだから、固有名詞じゃオウム返しだよ。」平野幹夫のあきれ返った言葉に静が呟いた。「お二人がこの商品から会話をした現実に私は驚きました。物は生き物ではないから静止していれば息もしないし、音も無い。見那間君の便利グッズへの反応は、無の存在が起こした条件反射の様に思えます。」「難しいな。」と小声で呟きながら見那間は、鼻ピアスをいじりながら山見静と言う人となりを探っていた。「非常にこの空間について論理的に考えた意見ですね。それでは、その無の存在が起こすことについてまた進めましょうか。」奥行の進行は新たな注目テーマを辿る。「物は人間に認識されなくても、そこにあるんだから。当然、大きな障害物があれば人は避ける事を経験智で選ぶから無の存在から、人の認識によって空間の変化は現れるような気がする。良く分からなくなったけど。」平野は、知識の少なさに照れ隠しをしたが、自己満足感を漂わせていた。この自殺とは全く関係の無いテーマによって得られるものは、思考転換である。つまり、今持っているくぐもった考えを一旦横に置くのが目的だ。そうすることにより、目的意識を変化させたり、諦める気持ちを思い出させる。自殺念慮の患者は、無理してでもやり通す事に囚われている帰来があるからだ。平野の照れくさそうな思いを察した静が、「物体は、存在している様でそこにいない。其れは、人間についても同じ。平野君、見那間君と言う人達を人間は、自分の眼球を通して、人体構造、声音等もろもろ覚えた知識を持って二人の人間の存在を作り上げる。。でも、それは、個人の認識であり、それぞれが別の認識を持っている。人間以外のこの空間にあるものの認識は決して人を人と判断しないです。でも、その空間は、赤ちゃんが出来た瞬間、確かに変化します。そこに一人の人間が表出するのですから。」「素晴らしい意見が出ました。」静の話に感動さえ覚えた奥行は冷静さを失うくらい感動している。狭川も「話の流れが凄くいいですね。単なるアイデア商品を見るだけで出産に辿り着けるすばらしい。」と期待を膨らませる。石礫は奥行、狭川の言葉のたびに大きく頷く。「俺ついていけ無い。」見那間は、退出した。FGIは、強制力の無いインタビューで部屋からの退出は自由だ。「俺だって着いていけないけど踏ん張っているのに。」と平野も疲れを感じているようだ。其れを察して奥行が狭川に合図を送る。狭川が頷くと「ここで休憩を入れましょう。」まだ始まって5分程だが、長い短いではない。このインタビューで無理がかかれば本末転倒だ。然し、休憩後、三人が戻ってくる保証は無い。このまま、不在となればFGI終了となる。短い時間でもかなりのデータが揃ってはいた。
「見那間君。」病院から出て道路の反対側にあるスタバに向かって歩いていた時、山見静が声を掛けてきた。「ごめんね。私がかってな事を言ったから。」その言葉には自分を卑下したり、自虐するような感じは感じられず素直に謝っていると思った見那間は、「別に誰が悪いとかないよ。俺は、時間つぶしに来ただけだから出ていったのは、時間だからだよ。山見さんが気にする事じゃないよ。」静にはその言葉から気持ちの様なものは感じられなかった。慰めとかやさしさとは関係の無い只時間の経過の様に思えた。「そう、でもごめん。」静は、病院の方へ又引き返して言った。部屋に残っている三人は、観察記録をつけていた。ICレコーダーを了承の元置いていたので再生して言葉尻や、表情、感情の表出等を石礫がパソコンに入力して行く過程で呟いた。「戻ってくるでしょうか。」狭川、奥行の表情には答えが無かった。部屋のドアが開いた。待ち構えていた三人は、一斉に視線を送る。「あー疲れが癒えた、煙草切れ起こしてた。」見那間だった。「病院は禁煙ですよ。」石礫が困った顔で言うと、「今時、病院内でたばこ吸う人間はいないでしょ。敷地内でも吸ってないよ。」見那間が得意そうに言った。狭川は笑顔を作った。煙草嫌いの奥行は話をスルーして司会の準備を始めた。まだ、二人帰ってきていないが、一番の心配が解決した事で、再開できると踏んだのだ。暫くして平野、山見両者が揃って入室した。帰って来た三人は、それぞれ飲み物と軽食を持参していた。FGIでは、飲食も自由としている。「それでは、先ほどの商品の一番手としてこれについてインタビューを始めます。」奥行が指示したのは、寝ながら本が読めるメガネだった。患者の3人は一様に昭和のサングラスをイメージした。「これっ古い刑事ドラマの小道具だよね。」見那間が積極的に発言すると、「昭和の。」と平倉も笑いながら同意した。「子供の頃、親が見ていた番組で似たのを見た事があります。」と静も口角が上がっている。狭川は複雑な思で場の雰囲気が一気に上昇気流に乗っていくような気がした。「3人が3人とも笑顔になるとは。」と達成感が心地よかった。「でも、見た眼で何となく分かるよな。屈折を使うって。」平倉が、興味心身に椅子から立ち上がり、メガネを持ちあげる。見那間が上に向けた顔をメガネの方に向け「多分、寝ながら字を読むんだよ。」商品当てクイズだったら「正解。」と言ってみたいものだと狭川は嬉しくなった。「でも、屈折させる対象物の位置関係はどうなるの。」静は見当がつかないと言った。見那間は、立ちあがったと思うと、平倉からメガを貰って床の上に寝転がった。「こうじゃない。」胸の上にA4用紙を置きメガネを掛ける。「やっぱり見えるよ。」意表を突く行動に狭川の眼は山見、平倉の表情を読み取っていた。奇異な行動に対する感情の変化を確認した。「体たらくの発明だ。」平倉は見那間の姿を見て親近感を覚えていた。見那間の行動力は他の二人より群を抜いている。静は自分にないものが彼にはある事が羨ましかった。それぞれが席に着き再び奥行が走り出す。「では次の商品に移りましょう。」次に示した者は、サンダルカバーだ。「竹コプター。」ドラえもんのまねで平倉が呟いた。今度は提供側の三人がくすりと笑った。狭川と同じ発想だったからだ。その事で、平倉は機嫌の変化を見せた。椅子から立ち上がりその場を後にした。自由退室で気持ちを落ち着かせるつもりだ。「馬鹿にする事無いよ。」そう呟き、トイレの便器に座り頭を抱えた。平倉は三人が馬鹿にして笑ったと勘違いしたわけではない。早見静がニコリともしなかった事に自信を無くしたのだ。時々病院で出会う彼女に好意を寄せていた。だから自分の話が面白いとアピールしたかったのだ。インタビューは3人揃っての開催である為、ここで狭川は「休憩にしましょう。」と全員に伝えた。ゲートキーパーには3原則がある。「気付き・見守り・繋ぐ」この3項目を基本理念として患者に対しての活動を行う。気付いてあげる事で心の健康を取り戻させる。見守る事で良き相談者としての役割を持つ。そして地域や行政などと繋がっていく事で失った心のパズルを見つけ出す事が出来る。今、平倉は、何を考えたのか気付く事で解決方法を本人自身が見つけられるよう命の糸を投げてあげる。そして、この部屋にいる全員が一本の糸で出来た輪を掴めば今回のFGIはやる意味があったと言える。15分程、患者二人は、飲食しながら、おしゃべりを楽しんでいた。すると平倉がふっと部屋へ入って来た。気持ちの整理が出来た様だと狭川は喜んだ。「皆さんには申し訳ないのですが、時間の方が余りありませんので、最後の一品について意見を頂きます。」指し示したのは、バックルの無いベルトだ。「それ使ってます。」平倉は先ほどの事を忘れ、椅子から立ち上がり、ズボンのベルトを全員に見えるよう腰のあたりに手を当て下半身を前に出した。「バックルないじゃん。」見那間が興味心身に平倉の横に立ち、手のひらでベルトを擦った。「バックルがあるときつく締めすぎるから。」静はおなかポッコリが恥ずかしくて滅多にベルトをしない事を語った。見那間は、テーブル上の黒いベルトには見向きもせず、平倉のゴールドレッドのベルトに魅かれている。「この色いいね。」見那間が余りにも興味を示すので平倉はベルトを外し「椅子に座って見てもいいよ。」と渡した。「ちょっと着けてもいいかな。」遠慮がちに見那間言うと二つ返事で了承した。見那間の横に座る静も覗きこむようにその光沢ベルトをまじまじと眺める。完全に持って行かれた感がある提供側だが、観察がしやすい状況に満足していた。「穴も無いんだね。」静がホックの部分を閉じたり開いたりしながら言うと「静さんだと前まで回っちゃうよ。」と平倉は彼女に失礼にはならない言葉だとして呟いた。表情は変えなかったが、静の眼は違うと訴えていた。石礫が彼女の表情から平倉の言葉に対して何かしら気持ちの変化があった事に気付いた。FGIは90分程で終了した。「予定の時間より30分も伸びたな。収穫あり。」と狭川は明日から始まる今回の集計作業に弾みがついた事を喜ばしく思った。
令和4年12月、日本はクリスマス一色。正月が近いと言うのに小春日和が続いていた。「また、最高気温、28度だよ。絶対におかしい何か大きな気象現象が起こるよ。」と夕食を取りながらテレビに解説を入れている狭川に妻の栄子はイライラ来ていた。「早く食べてよね。片づけが終わらないんだから。」小声でぼそっと言われるとお茶碗を口に付け味噌汁で混ぜたご飯を流し込んだ。「また、そんな食べ方するから太るのよ。」早く食べさせたいのかどうなのか分からなくなった狭川は、自分の書斎へと逃げ込んだ。ノートパソコンを立ち上げ、休憩がてら自殺についての文献を検索する。暫く画面を見つめ続ける。勿論、目新しい研究結果がそこにある。然し、狭川の脳は患者の言葉に包まれていた。「死を忘れた事がない、本当にそんな人間がいるのだろうか。人生の中に一つぐらいは全てを忘れて喜んだ記憶があり、強烈に印象付けられるのが普通なはずだが。」彼女の清廉潔白さには狭川も舌を巻く。「再企図。」再び彼女は自殺企図を起こす事だろう。「止めなければ。」ノートの画面はスクリーンセーバーの壁紙に変っていた。
「そういう事だから自殺未遂をするんだろうが。」皆川恭介は娘のひかるが登校拒否を続ける事に苛立ちを押さえきれなくなっていた。大人の怒声にも関わらずひかるは無表情で父の顔を真っ直ぐに見る。彼女は何かを言いたいがそれをぐっと堪えている様に感じた。恭介もその気持ちが分かるだけに一言もしゃべらない自分の娘にやり場のない気持ちをぶつけている。「狭川先生のところに行こう。」ひかるの右腕を掴み、拒否するように家に体を預ける娘を引っ張っていく。大きくは無いがサラリーマンとして自分の家を建てた事が誇りだった恭介は、家から離れるように車に小さな体を押し込んだ。ひかるは、感情を無くし、体だけが拒否反応を起こしていた。「お父さん、強引に娘さんを連れてくるような真似は二度としないでください。彼女にも動かされたくない大事なものがあるんですよ。」恭介は自分が悪い事をしている自覚は十二分にあるのだ。それでも、社会の構造として小学校へ通うという大事な使命を果たしてもらいたい気持ちが今回の行動として現れたのだ。自殺を図った年齢層をデータで見ると15から39歳の帯に集中している。小学生はその部類には入っていないが、日本でも小学生の自殺企図者は稀ではない。「ひかるさん、今ここにお父さんいないよね。もし良かったら先生に君の事を教えて欲しい。何でもいいよ。面白かった事、悲しかった事、悔しかった事何でも。」狭川は、開かずの扉を何とかして開き彼女を救いたいと願う。その時、石礫が彼女の後ろ頭にはげた部分があるのを確認した。「ひかるさん、ここ痛くない。」石礫は狭川への報告も兼ねてそっとその部分を擦ってあげた。狭川は彼女に了承してもらい後ろ頭を確認した。「これは、髪の毛を強引に引きぬいた後だ。」と狭川は心の中で思った。「お父さん。」ひかるが湯泉で暖められた貝が口を開くように呟いた。「お父さんが引っ張ったの。」狭川が問うと、ひかるは又反応を辞めた。もう一度、ひかるを診察室前で休ませ、皆川恭介を呼んだ。「皆川さん、ひかるさんの此処にまるい禿がある事を知っていましたか。」「禿が。」恭介はストレスによる物だと勘違いをし、娘がそんなになるまで神経を使ったのかと涙ぐんだ。「皆川さん、彼女の毛髪が抜けたわけではありません。誰かに引っ張りぬかれたものです。」恭介は声を忘れ恐怖心を覚えた。「いったい誰が。」狭川は、父親の様子から、彼では無い事を察した。「分かりませんが、ただ、お父さんと言っていました。」慌てた様子で「私は可愛い娘にそんな拷問みたいな真似はしません。」狭川も頷き分かっていると言った。ひかるが言った「お父さん」の意味が何なのか、前回の自殺未遂に関わりがあるのかもしれないと狭川は思った。「今日のところは、これで。皮膚科の方へひかるさんを連れて言ってあげてください。皆川さん、学校は確かに社会に出る為の手段で教育は人間を育てます。然し、私は思うんです。社会と人間とは離して考えるべきだと。」診察を終え、手を繋いで帰る親子の姿は、何物にも代えがたい風情だと感じた狭川だった。3日後、ひかるが再企図の一報が入った。父親の留守中に家の窓やドアに鍵を掛け、ガス栓を開いた。酸欠状態で救急搬送されたが、一命を取り留めた。狭川は、別病院で治療中のひかるの元をゲートキーパーとして訪れた。別の病院の医師が訪問するなど前代未聞だが、狭川は、彼女の心の健康回復に対して誰よりも熱心だった。「自分にも娘がいるからな。」医大の動機である桜井創が担当医でこの病院へと頼まれたことも理由の一つだ。「お前の娘、幾つなった。」「16歳だよ。」「帯の渦中だな。」「ああ。」狭川の娘とは10年ほど会っていないが、自分の娘とリンクするんだろうと桜井は思った。集中治療室から、一般病棟へ移ったのを契機に狭川はひかるへのアクセスを行った。「ひかるさん、話してくれないかな。」若干放心状態ではあるが、体はほぼ回復していると桜井から話があった。この後、警察による事情聴取が待っている。父親の恭介は先日聴取済みだ。ひかるは絶えるような顔つきになったかと思うと仰向けの目じりに二本の涙を流した。「どうしたの。」狭川の一言で、涙声で話し始めた。「学校の上級生にいじめられて、髪の毛が抜けてお母さんが見せなさい見せなさいって、そしたらお母さん、死んじゃった。」彼女の話によると、いじめが原因で出来た頭の傷を母親が心配し、恥ずかしかったひかるは、傷を見せまいと母親を押したところ、一方通行を逆走した高齢者運転の自動車によってはねられ、母親は帰らぬ人になったと言う。「お母さん、天国に行ったから、私も行きたくて。」狭川も思わず涙腺が緩み、彼女の苦しみを何とか消してやりたく思い、小さな体を抱きしめた。「苦しかったね。よく頑張ったね。」二人共が、涙の海に浸された。
クリスマス、ローマの皇帝が、イエスキリストを太陽に見立て、冬至つまり陽が最も短くなる日から復活する様をイエスキリスト生まれいずる日として、12月25日をクリスマスとしたと言われる。人々が贈与するプレゼントはキリストへのお祝いのはずなのだが、愛としているのは、新約聖書にある神ではなく人間だとは神様を信じていない事だとでもいうことか。狭川家も世間に遅れる事無く、家族間のプレゼント交換を決まり事の様に毎年行う。「今年は、凄いぞ。サンタさんのプレゼント。」狭川真二郎は得意げに食事の席で発表した。が、妻、二人の息子、娘誰ひとりとして真二郎に目を向けない。妻が「黙って食べて。あなたがいつも遅いの。」真二郎は、舞い上がった気分を一気に消沈させた。「クリスマスは楽しいよね。」と一人でぼやいた。
静は、病院のクリスマス会に参加している。と言っても患者は全員が参加する事になっているのだ。休みたいときは自分の病室に戻ることも可能になっている。自殺が未遂に終わり、体の傷も心の傷も何事も無かったように落ち着きを取り戻した。「疲れていませんか。」石礫が静の背中に手を当てながら言った。「いえ。」静は、会のビンゴゲームを楽しんでいるようだ。「後一つです。」静の言葉に石礫が覗きこむと縦横斜めに穴があき後一つで4つの線になる所だった。「真中は3ね。」石礫が期待を胸にに呟くと静は頷いた。「それでは、次の数字行きますよ。」クリスマスの司会は、棟丁病院の研修生がする事になっているのは慣例だ。上部に穴の空いた箱に腕ごと突っ込むと、折りたたんだ黄色い折り紙を取りだした。マイクを片手に、もう片方で器用に折り紙を開くと、「3」です。石礫が「ビンゴ。」と大きな声で手を挙げた。「ビンゴが出ました。商品は、タブレットのキッズモデルです。おめでとうございます。」周囲はものすごい歓声に包まれた。今回一番の目玉商品だからだ。子供たちも自分を忘れ喜んでいた。石礫が促し「山見さん、さあ、前に。」静は、しっかりとした足取りで何か決心したように簡易なステージに上がった。「山見静さん、どうですか感想は。今回の高額商品です。」静は一瞬下を向き、「私はこの商品を受け取りません。その変り、この病院に入院している子供たちの病室で使ってください。」そう言うと、ステージを離れ椅子を通り過ぎ、病室へと戻った。病室に戻った静の表情は曇っていた。「何故、私は生かされたのか。私がこの世から消えようとこの現実は時間を刻むのに何故。」静の感情に達成感は無かった。その感情を持つべき時は彼女が生きる事を辞めた時なのだ。
令和5年、1月。正月を家族と共に海外で過ごした狭川は、見那間一樹の診察を行っている。「だからさあ、俺のどこが悪いか教えて欲しいんだよ。爺ちゃんが行け行けって言うし、自分では自殺なんか考えてないんだよ。おふくろも、爺ちゃんに逆らえないから何も言ってくれない。」見那間の祖父は自衛隊に所属歴がある。厳格な性格で娘がコギャルファッションで帰宅した時は、何度も殴りつけたと本人が話していた。「そうだね。見那間さんが悪いという事では無いよ。この飾りも凄くいい。」と頬に刺さるように飾られたキャラクターを見た。「だったら来なくていいよね。」狭川は遮る様に、「体がね。悲鳴を上げてるんだよ。」「悲鳴。」一樹は全く気付いていない。皮膚を切り刻むと言う事は細胞が切り離されいる事と同じだ。人体は規定の形で全てのものが繋がっている。そこに外傷が起これば異変は当然起こり得る。多分何かしらの異変は起こっているだろう。本人が気付いていないだけだ。命は唯一無二の物だと思い出させなければならない。「もういいかな。先生。」「いいよ。一つだけ、体の内部はどこもかしこも繋がっている事は忘れないでください。」見那間が帰ると、石礫が次の患者を呼んだ。「平倉さん。」「はい。」平倉の返事が何時になくおとなしい。何時もはもっと跳ね上がるような返事だ。それでも、狭川がパソコンに向いた体を平倉の方へ動かすと先に話し始めた。「先生、またやっちゃいました。」話はこうだ。スマホ、タブレットを母親に取り上げられ、仕事探しを強制された。困った平倉は母親を部屋から追い出し、炬燵のコードを首に巻いてドアノブを使って自殺を図ったという事だ。幸い、母親が、ドアノブの音に異変を感じ、在宅していた父親がドアを強引に開け、事なきを得た。それでも、今回、来院したのは彼一人でだった。「どうしたらいいか分からない。働く事なんか出来ない。」彼は30歳だ。大学を卒業して中小企業だが就職もしている。働けないのは本人がまだ、そこに心が無いからだろう。「いいんじゃないの。働かなくても。」平倉は狭川の言葉に驚いた。「だって、自分でも働かないとって思ってるんだよ。」狭川は笑顔で、「今はいいんだよ。平倉さんのまるい心がね、ゆっくりゆっくり繋がろうとしている時なんだ。ゆっくりゆっくりね。その丸が完全な円になったら働けばいいんだよ。」平倉は、狭川の言葉に涙を流した。「それに、君の両親はお金持ちだから。」彼の自慢話は何時も「お父さんは社長なんだよ。」だった。心の健康を取り戻すには本人の努力だけでは難しい。大震災で崩壊した都市を一人で復興させるような物だ。それほど、人の心は壮大であり、貴重なのだ。「先生次の方よろしいでしょうか。」石礫の問いに狭川は頷いた。「山見さん。」「はい。」背筋が伸びた基本姿勢と呼ぶにふさわしい姿で狭川の前に座った静は、硫酸でただれた頭にフッサリと髪を蓄えている。幸い美貌に陰りは無い。「明日、退院ですね。」静は、思いを馳せている様に「はい、有難うございました。」とゆっくりお辞儀をした。「これから、又一人で暮らしますか。」狭川は、彼女を自分の思った通りにさせる事を両親にお願いしていた。全ての判断を彼女に任せる事がストレスを掛けない事だと診断したからだ。「研究室へは、少し休んでから勤務してください。病院の空間には、本当の受動性がありませんから。」「先生、それはどういう。」狭川の言った本当の受動性は彼女には意味が掴めなかった。「うん、確かに此処は患者を受け止める環境にはあります。でも、そこには与えられた同じサイクルでの受け入れです。同じ時間に、同じ場所で、同じ人に。と。」静は、理解できたようだ。全く違う環境の元、人は人を簡単には受け入れたりはしない。しかし能力を持って臨むことで何時しか受け入れられていく。そう狭川は言いたかったのだ。彼女ほどの能力ならば簡単な事だと狭川は思った。「これからは別世界に入る心づもりで望んでください。」最後に静は、「先生、有難うございました。」ともう一度繰り返し診察室を後にした。自殺念慮のある患者の内、企図行動をした患者に対する気付きはとても重要になる。一度経験をすると自殺行為を肯定して仕舞い、死に対する恐怖が無くなる。するとより致命的な自殺企図行動をする。周囲は止めようと必死になるが、彼らは、自殺行為に世界観を持ち当然の行為として行われる。二分する世界を作らないよう彼らを生きる世界に連れ戻す事が狭川や、周囲の役目となる。「先生最後の患者さんですが宜しいですか。」石礫の言葉に狭川は「今日は少ないな、回診をしようか。」と計画だてた。「遠矢さんどうぞ。」石礫が初診の遠矢光司を診察室に招き入れ、自分も入りドアを閉めた。「はじめまして、狭川と言います。遠矢光司さんですね。」遠矢は落ち着かない様子で窓の鉄格子を何度も見上げた。「俺おかしくないです。こんなところに何故来たのか分からない。」彼は、一人でこの病院を訪れた。神経内科に言ったが、この精神科に流動された。「どうしてそう思うのですか。私も、ここにいる一人ですが。」遠矢は「だってあんたは先生じゃないか。」一瞬、興奮状態に陥ったが、冷静さを取り戻したようだ。「神経内科に言ったのはどこか具合が悪かったのですか。」項垂れるように「建設現場で、休憩中に帰りたくなって。でも帰ると親父に殴られるから。」「建設業は体力的にも精神的にもかなり疲れるご職業だと、同級生に聞いた事があります。」実際に、中学の同窓会で、その話を聞いていた。「無理をし過ぎてしまったのですね。」遠矢は、肩の力が抜け、溜まっていた物を吐き出すように喋り出した。「親父が建設業の会社を経営していて、跡継ぎを俺に。俺は、どうしてもあのむさい雰囲気に馴染めなくて、でもそれは親父には言えなくて。」「私から、お話しましょう。」狭川の言葉にも遠矢は拒否の態度を現した。「駄目です。俺がここに来た事が周りに知れたら、親父が恥をかく。」「私は、毎日ここにいますけれども恥をかいているとは思っていませんが。」「それは、先生だから。」狭川は一拍置き、「患者さんには言った事がありませんが、世の中の偏見と言う物は、一個人にとどまらずその周りに派生して行きます。私の子供も幼いころ精神科の医者の子供としていじめを受けました。しかしね、それは、本人が付けた心の傷にはならないんです。周りのねじれた心が一個人を巻き込んだだけなんです。だから、あなたも、私も、そしてその周りも心の統一を図っていく事が必要なんですよ。」「心の統一。」遠矢光司は、病院を出て、自宅へ帰って行った。「彼は、男儀のある立派な青年だ。自殺行為はしないだろう。」狭川は、周りのサポートよりもこの世の中の偏見を無くすよう全ての人間が努力しなければ倣いと思った。「ノーマライゼーションの実現は何時になるのだろう。」狭川は回診へと向かった。
1月の華やかな雰囲気も忘れ去られた日、静は明日からの勤務の準備を着々と進めている。「戻りづらい、でも私のいる場所はあのガラスに包まれた部屋だけ。」研究論文は詰めの段階だった。もうどうしていいか分からなかった。蟻を見つめているだけで自分の存在が極めて小さいものだと思えてしょうがなかった。自殺したい、自殺したい。命はもういらない。慶唐大学は、静を暖かく出迎えた。佐津間教授は彼女の才能を高く評価している。頭脳明晰、容姿端麗、清廉潔白。落ち度を全く感じない。お金持ちのお嬢様とも違う反骨精神をも持ち合わせた秀才だと称えた。何故彼女が自殺未遂を繰り返すのか要因を掴めないでいる。佐津間は生物学者であり、地球誕生から現代に至るまでの生命力進化論を打ちたてた。ノーベル賞にノミネートされるが中々受賞まで届かないところだ。彼女にはそれが出来ると佐津間は期待していた。「人間は時間と共に成長し老化する。時間軸が生命に与える影響度は。」静は入力する指先を動かす力を止めた。パソコンデスクを離れ、冷凍された蟻の卵を取り出した。顕微鏡で拡大し、卵の表面構造を、装着しているカメラで撮影した。自動的にパソコンにエキスポートされる。ワイファイは高度な技術に重要な役割を持っている。全てがデータ化できるのもこの便利な物体のおかげだ。もう一度、パソコンに戻り、データ化された数値配列を言葉に変換させていった。彼女の論文作成過程は、このようにシステム化された環境で作られていく。彼女もシステムの一部なのだ。「私は、生命無く動く機械の一部。」静は、無機質になり自分が論文制作と言うアプリケーション内の小さなアブレットに思えてきた。「先生、見那間様からお電話です。」そう告げられた狭川は、一抹の不安を覚え、固定電話を上げた。「はい、狭川です。ああ、これは見那間君のお爺様ですか。はい、はい、分かりました。傷が落ち着いたらここへ来るよう伝えてください。それでは、失礼します。」受話器を置き一呼吸入れた狭川は、見那間が瞼にピアスをつけようとして誤って眼球を指してしまったと伝えられた事にショックを受けていた。「彼の世界は、飾られた人間しか受け入れないのだろう。」と引きもどせない自分を責めた。「平倉さんどうぞ。」「はい。」石礫の声にあり余る元気さで返事をした平倉亮太は今日診察予定にはなかった。然し、本人の心の状態により臨機応変に対応していく事は何の仕事でも同じだ。「先生、僕ね、障害者施設で働く事にしたんだ。」「それはいい考えですね。ただ、平倉さんは、障害者認定は受けていますか。」平倉の気持ちに水を差すわけではなかったが、障害者を受け入れる法人や企業は障害者手帳を確認すると聞いた事がある。「認定がいるの。ネット見たけどそんな事書いてなかったけど。」平倉は、消沈気味だ。「ご両親に話してみたらどうですか。私に出来る事があれば協力しますよ。」狭川は、平倉の思いつきに大賛成だった。ストレスの掛る一般の会社よりも、サービス提供の障害者施設で働く準備をした方が今の彼にはふさわしいと思っていた。協力と言うのは、障害者手帳を申請する時の、診断書の部分で協力できると考えたのだ。「そうだね。お母さんに話してみます。」平倉は、意気揚々と帰って行った。「先生、今日は院内診療の日です。」「始めます。」石礫が言った院内診療は、棟丁総合病院の医師、看護師、薬剤師、診療放射線技師、専属メンテナンスらによる心のケアである。医師とて人間であり、命の危険に晒されるのは何も患者だけではない。そういう狭川も月に一回ほどメンタルクリニックに通っているのだ。「竹間先生、どうですかその後は。だいぶ疲れが溜まっているようでしたが。」竹間盛重郎45歳。この病院の副院長だ。後数年すれば彼が院長となるだろうと狭川は思っている。「狭川先生のアドバイス、医師の肉体はガラスより脆いが身にしみて、帰宅後、マッサージ師を自宅に招き体のケアを行うようになってから、編頭痛も解消されて、毎日、患者さんを明るく退院させる事が出来るようになりました。有難うございます。」「待って下さい、それはマッサージのお陰で、私の言葉には魔法はありません。」狭川が副院長に敬服していると「違うんです。患者さんは皆、先生は頭がいいとお世辞を言います。然し、私が思うに治療は肉体労働だと思います。患者につられ、頭に意識が集まってしまい、頭痛やストレスの増加に繋がったと分かったんです。」竹間の話は、狭川自身も同様に思う事だった。お世辞というものは時に間違いを生むと感じた。竹間が退席し、次に入って来たのは、看護師の石礫だった。「先生、お願いします。」石礫は、最近、うつ症状に悩まされている。多くの自殺念慮の患者と接するうちに深く思い悩むようになった。患者の為に自分が出来る事は何なのかを一人で見いだそうとする、補助的役割から外れ、患者の心を自分が開いてあげようと懸命に働いた結果だ。ミイラ取りがミイラになる良くある事例だ。油断が出来ないのは自殺件数の内、殆んどが、鬱からの死である事。石礫は責任感が強くストイックな仕事をする。「私が何とかしなければ。」そう考える事で追い詰められた死を選ぶのだ。解決する方法として、一人では無いという事を思い出させる事、やりきる事を目指さぬよう責任を回避する事、誰かがそっと手を差し伸べてあげる事等を上げ、石礫に伝えた。「先生、看護師は患者さんの為に働くのが仕事ですよね。責任もってやり遂げる事をしなければ職務怠慢に思えます。」狭川は、笑って言った。「石礫さん、我々は、決して人を救うプロではありませんよ。」「えっ。」石礫は当然人を救うプロとして考えていたのだ。「我々は、医療という技術の提供者です。勿論救われる命もあります。また、助からない命もあります。助からない命があれば医療は又技術革新を重ねていきます。現実として人間には寿命があるのです。命は何時か途絶える。それでも医療を通じて延命が出来る仕組みの一部に我々がいるだけです。人の命を人が背負う事は出来ないのです。」「先生、私はもしかしたら間違った考えで患者さんに接していたのかもしれません。」石礫は、憑き物が落ちたように肩の力を抜いた。「石礫さん、私のサポートよろしくお願いします。」「はい。」医療の技術的進歩はめまぐるしく向上している。人的負担抑制のため、外科手術にロボットを投入している病院もある。人が人を診る。其れは、診る側にとっても診られる側にとっても命のやり取りに他ならない
。令和5年2月、東京に大雪警報が発令された。交通機関は完全に麻痺し棟丁総合病院も出勤できない医師、看護師が多くいた。狭川は、徒歩通勤の範囲であった為、精神科は通常の診察を行った。「今日は、患者は少ないかな。」病院も会社と同じく利益優先だ。患者が少なければ経営が出来ない。「雪は3日間降り続くとなると、回診を長くしようか。」診察室でカルテのチェックをしていると、2月から人事異動で精神科に配属された看護師、水城千華が「最初の患者さんをお呼びしてもよろしいでしょうか。」と尋ねてきた。石礫は、内科への移動と聞いている。その話を聞いたのは一週間前だった。石礫の精神的負担軽減の為と人事に聞かされた。「お願いします。」と狭川も気分を入れ替えて患者を待った。「山見静さん、どうぞ。」「はい。」馴れた様子で、狭川の前に座る。「静さん、今日は大変でしたでしょう。滑りませんでしたか。」静は、口角を上げ、「ときどき足を取られました。」と恥ずかしさを珍しく表情に現した。「今日は、とても表情が豊かですね。順調ですか。」静は、ゆっくりと表情を戻し「論文はやっと仕上がりました。」「そうですか、それは良かった。教授の方へは。」「ええ、一応合格点を頂きました。」静の表情を確認する狭川は、まだ安心感の持てる時ではない事を確認した。一仕事が終わり喪失感を持たせないように注意をしなければならない。自殺企図の原因の一つ喪失は、失う事により生きる意味を見失ってしまい死を選ぶ事例だ。うつ症状を発症するケースが多い。少し前に燃え尽き症候群という言葉が流行した。静の様に本当に死の実現を願う患者もいるが、死では無く、傷つける事のみを何度も繰り返す患者がいる。然し、その線引きは難しい判断となる。恐怖心を無くす為に自傷を繰り返し、抵抗が無くなってから自殺企図に走るケースもある。看護師の悩みの中にも、毎回救急搬送されるような自傷のみを繰り返す患者に対して「何時もの事」と油断して仕舞い、自殺既遂となるケースがままあるのだ。その場合、患者だけでは無く看護師も責任を感じ鬱を発症するケースがある。外科手術の様に表に現れる病気ではない。見えないものを治療しなければならない。それには、人間同士として対峙するしかない。「山見さん、前回の診察では聞けませんでしたが、大学時代のお話しをお願いできますか。」静は、少し逡巡し、「はい。」と答えた。「大学に入っても私は、講義、サークルと大学が提供する時間、行動を怠りなく消化して行く事を続けていました。2年生の学園祭で彼と出会いました。」「今の彼氏さんですね。良い人ですか。」狭川は、少し心配していた。前回大学の話を拒否したのは、同棲が上手くいっていないのではないかと考えていたところだ。「先生は彼に似ています。」「どんなふうに。」「彼は、私が死を忘れないのを心配して、どんなときにも守ろうとしてくれます。何時も傍にいてくれています。」狭川は、彼女の言葉の中に違和感を覚えた。「彼女には本当に同棲相手がいるのだろうか。」具体的な理由は分からない。狭川の生物的本能とでも言おうか。たくさんの患者を診て来た経験智とも言えるか。静ほどの女性なら当然の如く付き合う相手がいておかしくない。然し、見えてこない。彼の姿が。頭のいい彼女なら、自分を守っている男性の姿を言葉で上手く表現するはずなのだ。其れは、医大で豊富な知識を植え付けた狭川だから分かる事だ。「幻覚。」静は、幻覚の彼氏と同棲していると言うのか。親にも、私にも悟らせずにこれまでずっと。「先生、心配していただいてありがとうございます。彼がいると自殺行為が出来ないんです。好きな人の前で醜い姿は見せられませんから。」狭川は確信した。「そうですか。其れは安心です。大丈夫ですね。」「はい。」狭川は、静の診察を敢えて打ち切った。静は、相手が問い詰めなければ決して自殺念慮を起こさない。人に告白などもしない。その彼女が自分から「自殺が出来ない。」と喋った。狭川は、彼女の両親に電話を入れた。「狭川です。静さんですが、同棲している男性は実家の方にいらした事はありますか。」静の母、真茅の話によると静本人の話に聞いただけで実際にあった事がない。連れてくるように言っても今度一緒に来ると言ったきり一度も来た事がない。私も、夫も心配しているとの事だった。狭川は最悪の事態を考えた。「彼女は死に場所を探していたのか。」
静はバスで自分のアパートへ帰っていた。「私の中のあの人はもういない。私は、また捨てられた。」バスを降りると、小道を抜け大学が提供しているアパートに帰った。部屋の中は、昨日のままだ。リサイクルセンターに頼んで持ち物を全部処分したのでがらんとした空き部屋に見えた。「もういいよ。もういいの、もう眼も口も耳も顔も身体ももういいの。」静は、再度、自殺企図を図った。パラ自殺だった。服用されていた薬を飲まずに溜てそれを全錠服飲した。然し、狭川の判断で大学のソーシャルワーカーが駆け付け、彼女は又命を繋げた。今回の山見静の自殺未遂で狭川を中心にゲートキーパー、ソーシャルキャピタルによる問題解決会議が行われた。今回、狭川の気付きにより事なきを得たが、一人暮らしを否定する意見が大多数となった。「狭川先生の考えに背く訳ではありませんが、矢張り、ご両親の元で見守りを徹底した方が彼女を守る事になると思います。」慶唐大のソーシャルワーカー三城衣里佳が強い口調で狭川に申し出た。三城は23歳と若いが、大学全体の学生に対して信頼があり、社会福祉士、精神保健福祉士の資格を併せ持っている。共に国家資格だ。ソーシャルワーカーという国家資格は無い。組織の中の部署に近い。「私も同意見です。山見さんは、かなり病み方が重く思います。」ゲートキーパーの奥行も三城の意見を尊重した。「お二人の意見は私自身もその通りだと思います。今回の事は私の判断ミス、山見さんのご両親も引き取る事を希望していますし、彼女を守る為には其れが最善策だと思います。」狭川は自分の考えを変え、違う視点から彼女をホローする事にした。慶唐大の理事長と佐津間教授も同席し、三城衣里佳を定期的に山見家に訪問観察させる事で同意した。今回の件で、静の自殺要因が一つ分かった事になる。キーワードは「彼氏。」恋愛が原因による自殺件数は、静の同年代で50件ほど。一番多いのは病気の悩みによるものである。 3月に入った。今年は暦通りに気候が進んでいる。春を時間ごとにゆっくり体が感じる。「新藤さんどうぞ。」診察室に入って来たのは、ストレートロングにメガネを掛けた女性だ。狭川は自分の前の椅子に招き入れた。狭川の席と患者の席とのパーソナルスペースは常にチェックをする。この病院では患者との距離は75センチと決められている。「新藤渉来さん、はじめまして。担当の狭川と言います。」狭川はが笑顔で挨拶をすると言葉は返さず軽く笑顔を作った。「今回こちらへは佐津間教授のご紹介ですが、慶唐大の生徒ですか。」渉来は、矢張り笑顔だけを返した。「教授から伺ったのですが、酷く悩んでらっしゃると。」渉来は、表情作りを辞めた。暫く下を向き、「静さん元気でしょうか。」山見静と接点があるらしい、彼女の友達かと狭川は問いかけてみた。彼女は首を振った。友達で無いなら同じ学校で噂に聞いたか。「こちらにいらしたのは、山見さんの事ですか。」狭川の質問に渉来は、酷く悩みだした。俯きときどきメガネを人差し指で上げながら30秒ほど沈黙した。狭川は声を掛けず只見守りを続け言葉を待った。彼女が狭川の方を向き長い沈黙を破った言葉は「静さんが自殺するのは私のせいなんです。」渉来の話は狭川の考えた静の自殺要因と大きく異なるものだった。「大学1年の時、家の近くのスケボー場で静と出会いました。私は、特にスケボーが好きってわけではないですが、友人3人で暇つぶしに行ってたんです。そこで静が一人で滑ってて。」狭川は、佐津間教授から新藤がリストカッターだと聞いていた。あまり話に集中さっせないように話を少し逸らした。「新藤さんは、山見さんと同年代ですか。」思いにはまり込んでいた渉来は、思考を切り替えた。「いいえ、年下で4年生です。」「4年生ですか。そろそろ就職に備えるえる年代ですね。」狭川は、自分の経験からそう言ってみた。「いえ、私はまだ、そこまでは。友達と遊びたくて。」新藤からはどこにでもいる学生の雰囲気しか感じられない。リストカッターの件について少し突っ込んだ話をしてみた。「リストカットの経験をお聞きしていますが、何か悩みや嫌な事がありましたか。」ゲートキーパー研修でも、自殺原因について聞き出す事は本人の思いを引き出す事に繋がるとしている。やさしく、笑顔で対応し、話しやすい環境を作る事に専念する。「友達の中に好きな人がいて。でもその人は友達が好きで、私には振り向いてくれないから。私みたいに成績悪い娘は、好きになっても振り向いてくれないから。」大学生の成績の悩みも自殺原因に大きく関わっている。大学に関わらず、高校、中学、最近は小学生の中にも受験の悩みとして挙げられている。「お友達との関係が、煩わしくはありませんか。」「時々思ったりします。でも、皆がいないと私一人になっちゃうから。皆と仲良くしていれば静さんの様にいじめの的にならなくて済むし。」狭川は、一瞬、新藤渉来から、山見静に意識が飛んだ。「彼女がいじめにあっていた。」狭川は、意識を新藤に戻し、「いじめは良くあるのですか。」狭川の問いかけに彼女は若干頷いた。「一つ提案をしたいのですが、慶唐大学の三城衣里佳先生を訪ねてみてください。きっと大学での悩みが癒されますよ。」渉来は、三城を知っていた。一度も相談した事がなかったが、会って見る事を約束し、診察室を退室した。狭川は一つの環境にある問題が一つだけではなく様々な伏線を併せ持っていると知らされた。「簡単に自殺を止められれば我々医者はいらない。」新藤渉来のカルテを閉じ、次の患者、佐伯譲汰のカルテを開いた。譲汰は、しばらく見ないうちにやせ細り生気と言うものが感じられなかった。前回は一人で来院したが、今回は両親が連れ添っている。父親の寛二が先に口を開いた。「先生、この子をどうしたらいいのか私達には分からないんです。ここに連れて来ていれば命だけは守られるそんな気がして通院をさせてきました。然し。」譲汰は、引き籠ってしまっていた。外部を遮断した事で、統合失調症を発症したようだった。狭川の前にいる譲汰は、幻想するゾンビとの戦いを続けている。言葉が時々大声になり、「殺す。お前を殺す。」と発する。そして又小さな声で幻想を語る。其れは、誰に向けられているのか分からない。目線はあらぬ方向に向けられており定まる事がない。狭川は、決断をしなければいけなかった。「彼は自傷、他傷両方の危険がある。」両親に、「すぐに譲汰さんの入院準備をしてください。」看護師の水城を呼びベットの準備を指示した。狭川の表情は厳しく、緊急事態を訴えていた。二人の男性看護師が狭川の元に駆け付け、その場から隔離病棟へと譲汰を連れて行こうとすると「嫌だ、入院は嫌だ。」と看護師を押しのけようと必死で抵抗するが、体格の差は歴然としていた。看護師が腕を取って身動きを止める。敵わないと思った譲汰は素直になりそのまま入院となった。その光景を黙って見るしかなかった両親は目に涙を浮かべていた。母親は暫くすると嗚咽して仕舞った。「心配ありません。ここでゆっくりしてまたご一緒に暮らせるように治療いたしますから。」狭川は、暴れる患者をたくさん見て来た。彼らは、精神病院の陰湿なイメージの為に抵抗を重ねるのだ。もう終わりだと誰もが思ってしまう。そのイメージこそ早く払拭しなければならない。拭い去られた後には。心の健康を取り戻す近道が出来ている。狭川が理想とする精神学の終点はそこにあるのだ。4月、棟丁総合病院に新人が数人入って来た。短い期間だったが、狭川の相棒は、水城から、新人の草上智華に変った。水城は外科に移動となった。定例異動だ。狭川は草上に細かく患者の接し方を指示した。「必ず笑顔でお願いします。」診察室が陰湿な感じを出さないような環境作りをしていくことも精神診療の一つであると狭川は経験から学んだ。「はい。」草上は、若い笑顔を強調して返事をした。何時もなら看護師が先に呼び出しするが、狭川が指示する形で診察を始める。「最初の患者さんをお願いします。」草上は、診察室だけに聞こえる声で「分かりました。」と答えた。「平倉様。」狭川は新人らしくなれ合いが無いのを良しとした。平倉は、少し、緊張感が無くなっていた。話し始めたのは矢張り彼だ。「先生、施設行ってます。」施設とは障害者の働く場だ。狭川は平倉の診断書には「成人発達障害。」と明記した。其れを受け取った平倉が市役所に申請し、精神障害者2級と認定され、近くにある就労継続支援B型作業所に通えるようになった。「どうですか、施設は楽しめますか。」サービス提供が主体のB型には、雇用契約がない為、仕事をしているがストレスが掛らないよう配慮される。平倉の表情は明るく答えを待たずに楽しさが窺えた。「楽しいけど、工賃が安くてお小遣いが少ないな。」B型の収入金額は平均で1カ月1万5千円程度だ。作業技術の問題から施設側はスキルアップを目指しているが利用する本人たちは働く喜びを得たい人達が多い。重度の障害者は一般に働く場を見つけられない現状がある。「平倉さん、今凄く生き生きして見えます。工賃よりも心の健康を取り戻しつつある事に今は満足して行くようにしてみてはいかがですか。」狭川が笑顔で言うと、「そうだね。楽しいのがいいよ。」心のケアは悩みの解決だけでは進まない。社会で生きていくためには働く事も必要な事だ。平倉が機嫌よく病室を出ていく姿を見て狭川は、同様に機嫌よく診察を続けられた。「今日はここまでです。」狭川に看護師の草上が報告をした。診察は定刻通り午前中で終了した。午後から入院患者の回診となる。棟丁総合病院の精神科病棟は3階のナースステーション横にある。この階に一般病棟は無くプライバシーを重んじ、他の入院患者は出入りが出来ない。エレベーターも3階は素通りする。医師、看護師、関係者は、2階でエレベーターを降り、階段を歩くしかない仕組みだ。狭川は、常に階段を上る。「ずっと座り仕事だから、階段を登ると血液が一気に流れ出したように感じる。」凝り固まった体をストレッチとばかりに早足で駆け上った。病棟には、とっくに昼食の跡片付けが終わっているにもかかわらず広いテーブルで視線を散らしながら、食事をしている患者がいる。時間を忘れてしまうのがこの病棟の特徴だ。社会の流れを離れ自分の状態に合わせた生活を送る事によって、積もったストレスを洗い流す。リセットするのだ。狭川を見ると近寄り一生懸命に退院を願う者、挨拶をして機嫌を取ろうとする者、お菓子を渡そうとする者、それぞれがそれぞれの判断で病院生活を送っている。開放的な雰囲気を一変させる一画が現れる。その場所は誰も来てはいけない事を格子戸から感じさせる。隠れるようにひっそりと。そこは開かずの間。隔離病棟。
隔離病棟のある部屋へ狭川は出向いた。目的の人物は、佐伯譲汰だ。横で待機している看護師に扉を開けるよう指示する。重く冷たいその扉をいとも簡単な動作で素早く開けた看護師は狭川が頷くと後ろに待機した。「佐伯さん、どうですか。落ち着きましたか。」譲汰は、打ちっぱなしのコンクリートの床に敷かれた一畳の畳に敷かれた布団にもぐり込むように寝ていた。部屋の中にはコップと歯ブラシ、一画に仕切りの無い便器がある。譲汰はゆっくりと起き上がり、「おはようございます。」と午後2時の挨拶をした。「調子が良いようですね。」狭川は、起きて挨拶できる譲汰の様子を良好と受け取った。この部屋は必要最低限の物で纏められている。然し、刑務所ではない。反省や後悔等とは無縁の部屋だ。心が乱れているのを落ち着かせるだけの休憩所である。「少し居れば、開放病棟に入れるからね。」狭川は、譲汰の起き掛けの挨拶でその決断をした。「挨拶はその人を現す。」狭川の作った座右の銘だ。一つ安心感を持ち、隔離病棟を後にし、回診を終えた。
狭川が自宅に戻ると、妻の機嫌がいつも以上に悪かった。自分の落ち度を気にしたが、覚えがない。「当たらず障らず」を決め込んで黙って夕食を早めに済ませた。「あなた。」シンクに向かって片づけをしながら妻が言った。いら立っていると狭川は思った。「又なのよ。」妻の一言で察知が出来る。いじめだ。「誰から言われたの。」と妻に聞くと無機質な言葉遣いで「私。」と答えた。妻がいじめを受けるのは初めて聞く。「どういう。」守る気持ちで診療の様に聞くと「同級生。」妻は、久しぶりに大学の同期で集まった話をした。洋風料理の店で3人一緒に食事したが、夫の話でついうっかり精神科の医師だと喋ってしまったと言う。勿論、卑下する事の無い事だが、丁度、先日統合失調症患者が無差別に人を刺した事件があったと話題になり、「私、そういう事件は見ないようにしているから。あなたが心配で。」その事で、精神科の医師は外の事を考えずに患者を表に出してしまうと責められたと言う。理不尽な話だが、この世の中には人間の尊厳を忘れ、精神障害者は閉じ込めてしまえばいいと言う風潮がある。其れは、この国の障害者への冒涜があった過去を思い起こさせる。その日、狭川は、眠りに落ちない時間を精神学教書を読む事で抑え込んだ
棟丁総合病院の植木は全てに桜の木が使われている。桜は、卒業、入学と人生の繋ぎとして重宝される樹木だ。満開の桜を尻目に山見静はひっそりと実家の自室で暮らしていた。喪失された心を少しずつではあるが取り戻す日々が続いている。「静、入っていい。」母の心配する顔を見たくは無かったが、ドアを開けない事で余計な心配を生んでしまう。「自殺企図。」ゆっくりベットを立ちあがり、鍵の無いドアを開け招き入れる。「今日は通院でしょう。お母さんも一緒に行きたいのだけどいい。」了解を待つ母は、続けて言った。「暫くお花見してないから。ほら、病院のサクラとても奇麗でしょう。」静は、特に気にしている様子は無い。前よりも無口になり、心配をさせるようになったが、母の真茅は、それぐらいの方が気持ちが楽だった。子供の頃から、手を焼かせないしっかりしすぎるくらいの子。其れは、今思うと現実離れをしていると解釈できたかもしれない。「早く、気付いてあげていれば。」と自分の至らなかった人生を悔やんだ。静は母の心配をよそに「診察室へは一人で行くよ。」と念を押した。「山見さん、こんにちは。如何ですか。」狭川の元を訪れた山見静は、凛とした姿勢ではなく少し、だるそうな感じを受ける。原因は狭川には分かっている事だ。強めの向精神薬で安定を図っている。「薬が強くて毎日体が重いです。」それでも彼女の滑舌の良さは健在だ。人間的にしっかりしている事が窺える。「そうですね。少し強すぎる様ですから、一錠減らしましょう。」狭川は開いているパソコンの電子カルテに薬の情報を打ち込む。目をそらす事になるが、実際に減らしている動作を見せる事で患者は安心感を持つ。離れた二人の意識が再び繋がるころ静が口にした事は、渉来が吐露した事だった。「ずっと、言わずにいたのですが、私はいじめを受けていました。」狭川は、了解済みの事柄にも初心を忘れず親身に耳を傾ける。「それはどんな時ですか。」彼女は大学でのいじめの様子を分かりやすい口調で話した。「でも、人間は好きと嫌いを持つ生き物ですから、世の中が歪みを持つのは仕方のない事だと思っています。」狭川は落ち着いた口調で「そうですね。日本人に限らず人と言う者は勝手な解釈と勝手なルールで生きていますね。でも、一人一人が見紛う事無く同じ命を得た奇跡だと信じればそういう事も無いでしょう。長く捩じれて伸びている風習を真っすくぐに引っ張ってくれる力強い人々がたくさん集まれば静さんの悩みも解消できると思います。」山見静24歳。狭川は、彼女にはまだ見えないほど先に明るい未来が待っている事を確信している。「山見さん、帰りに桜の木を見て帰ってください。とても奇麗に咲いています。」静は、暗い顔から少しだけ明るさを取り戻し、「母と帰りに見て帰ります。」と笑顔で診察室を去った。
見那間一樹にとって五月は忘れられない月となった。「兄ぃ、これ俺が裁くんですか。」「あぁ。其れがお前のノルマだ。」一樹は、指定暴力団高閲組の事務所に呼び出されていた。「仕事をやるから。」と言われ診察日をスルーしてやって来た。赤い錠剤を手に持ち「値はどうしますか。」と問うと「1シートが5万だ。」と言われ、素直に「分かりました。」と答えた。高閲組に関わる様になったのは、中学を卒業して仕事を探している時だった。夜の歓楽街を一軒ずつ当たっているうちに酒屋の配達が決まった。配達先にこの事務所があった。最初は届けて帰るだけだったが、ある時、「兄ちゃん、酒の配達なんて銭少ないだろう。もっといい仕事があるんだけどなぁ。」一樹は金がなかった。母は、衝動買いの依存症で家庭は何時も火の車だ。祖父の矯時におこずかいをせがむ事もあるが、年金暮らしでその金額も一人で食べるのが精一杯。母親はどうでもよかったが、矯時には迷惑掛けたくなかった。母が、コギャルを何時までも続けたおかげで父親は出て行き、鐘は無く、学校でも馬鹿扱い。そんな一樹を一生懸命庇い育ててくれた。当然答えは「やります。やらして下さい。」だった。その日から、DMA、大麻、覚せい剤ありとあらゆる興奮剤を世の中に拡散させてきた。後悔など微塵も感じない。「テンション上げてる間あいつらは人生で一番の幸せになってる。」そう考えていた。一人、また一人と客が近寄ってくる。周りの人間は俺を求めて群がってくる。其れが、一樹の快楽とも言えた。薬をさばき終わると、50万近くの金になった。高閲組の事務所に向かった一樹は、札束から2万円を引き抜く。「1万、2万くらいだと、値切られたと詫び入れれば2,3発殴られれば済む。」始めたころは、取り分として5万程貰っていたが、事務所が景気悪いと無しになってしまう。「頭使わなけりゃ。」その日、48万を事務所に上げ、家に帰った。一樹には自分の部屋というものがない。一間しか無い家に母と暮らしている。家賃は祖父が年金から払っている。祖父が住んでいる実家に帰れば広い部屋があるが、母が都会にこだわっているのだ。一樹にはどちらもすむ気になれないが母が心配になっている為にこの安アパートにいる。今は一樹一人しかいない。「今日のを入れて34万。結構いけんじゃん。」こっそり抜き取った高閲組の収益を使って母とマンションを借りるつもりだった。彼の中にマンション価格の知識は無い。高騰する価格はバブル期を超え、今ヤングセレブの間で人気になっている。夢を描いていた一樹、その夢が音も無く崩壊するとは思っていない。「一樹、これ頼むぞ。」高閲組の事務所で渡されたのは、宅配用の箱だ。「なんですか、これ。」「知らなくていい。其れを、ここに持ってけ。」小さな紙切れに、「13時32分、常磁マンション504と書かれている。」一樹は、大量の薬だと思い、「いくらで。」と聞くと、「今までで一番の最高値だ。値段は向こうが知ってる。」一樹はやったと思った。大口の客は初めてだった。いさんで常磁マンションに向かった。高閲事務所ではこんなやり取りが行われていた。「あいつ、時間内に着くかな。」「着かないとお陀仏でしょう。」「金パクッてんの知らないとでもお思ってるんだろうよ。」大声で笑う組員。13時30分、常磁マンションに着いた一樹は急いできたこともあり、マンションを少しの間見上げ自分が買おうとしている夢の舞台をまじまじと眺めた。「これと同じものを俺は買うんだ。」時計の針は間もなく13時35分を指す。マンションの自動ドアが開いたとき、爆裂音と共に一樹は猛烈な暑さと衝撃でロビーから表のエントランスへと飛ばされた。翌日、一樹は病院で目を覚ました。体中にひりひりとした痛みが襲い、身動きが取れない。腕が白くなったかのように包帯が巻かれ、皮膚の感覚を感じなかった。
狭川にその一報が入ったのは、既にニュースで公表された後だった。対応として母親に連絡したが音信不通だった。祖父の矯時に電話を入れると数分待って出た。「狭川ですが、一樹さんはどういう具合でしょうか。」矯時は、かなりの動揺で言葉が二転三転している。「一樹がマンションから出ると、いや、一樹がマンションに入ると爆発が起こって。」狭川は動揺させまいと、辻褄の合わない言葉にも「そうですか、それで一樹さんがそのマンションに言った理由は。」矯時は、「分からない。」としか答えられないようだ。一樹の入院している病院は、皆川ひかるが入院していた病院だ。状態を担当の桜井に聞いた。「彼は、運び屋だ。」と狭川の思考を混乱させた。「どういう事だ。」常磁マンションに三化会と言う暴力団の組長宅がある。「そこに爆弾を届ける途中だったんだ。」絶句しかなかった。狭川には分からない世界であり、見那間がそこまで暴力団にのめり込んでいるとは思っていなかった。「彼は大丈夫か。」と狭川が聞くと、「命はな。アクセサリーは全部吹っ飛んでたよ。」と桜井は笑えない冗談を言った。
あと数日で6月に入ろうとする梅雨の走り、その患者は訪れた。「もう私は死んでいるんです。」患者の名前は、褄葺凛子21歳。狭川の担当する患者に若年層が多いのはこの病院の仕組みにある。棟丁総合病院はA棟、B棟に分かれており患者の年齢に合わせて振り分けられる。理由として受付の効率化を目指すこと。高齢者にとって受付係は得てして話し相手ともなる。若い世代の様にお金払って終わりと言う効率的な考え方をしないのだ。どちらにとってもより良い病院である為に二つの仕分けを行うのだ。褄葺は看護師で救急病院のスタッフ。別の病院だが繋がりのある事で紹介されてきた。彼女には付き添いが付いている。自殺企図のあった患者の為慎重に診察する。「はじめまして、褄葺凛子さん。」狭川の問いにぶぜんとした表情で反応がない。「気分の方はいかがですか。」2度目のクエッションにもアンサーしない。狭川はどう自殺要因を引き出そうか思考を巡らす。「褄葺さん、救急のお仕事は大変辛いと聞きますが、褄葺さんはどうでしたか。」若干の反応を見せた。ストイックに患者に向き合う仕事である救急病棟にいた以上、忘れる事がないのが仕事だ。「私は患者を救えなかった駄目な看護師です。だから、生きていても役には立ちません。だから、死を選んだのに、この人達が邪魔をして。」付き添いのケースワーカーに辛く当たる。彼女の表情は死を懇願していた。救えなかった患者の情報については紹介状に書かれてあった。運ばれてきたのは自殺未遂の患者だった。その患者は、病院で治療する間も何故死なせないんだと叫んでいた。時には看護師に八つ当たりし暴力をふるった。命を救う場所であるから起こる空虚感。救える命が患者にとってはいらない命。そのジレンマをまともに受けて救急のスタッフは戦い続ける。然し、余りのストレスにより、患者を憎んでしまう事もある。「何故、私を責めるのか。助けてあげているのに。」彼女の気持ちは狭川に重くのしかかった。「苦しんだんですね。大変でしたね。」狭川の言葉が彼女の荒れ狂う気持ちを徐々に溶かしていく。「褄葺さんに、悪い所はありません。そんな理不尽な話は私もおかしく思います。」彼女の表情が素の自分を取り戻していくように素直な顔に変っていく。褄葺は、静けさの中に自分の存在を見つけたように「看護師を辞めたくないんです。」と言った。「そうですね。褄葺さんは良い看護師です。こうしましょう、私の方からあなたの病院へ連絡して休養扱いにして頂きましょう。そして、心の健康を取り戻したら又、お仕事を始めましょう。」褄葺は狭川の言葉に安堵の涙を流した。「私、仕事を失いたくなくて、それで、それで。」涙は留める堰を無くしたように何時までも流れていた。
「もう何もいらないよ。何も。十分だよ。生きんのもうやめた。」重い軟らかい物が上空から落下した。病院のロータリーにいた訪問看護に向かう準備をしていた看護師らが音Ⅱ気付いた。音の方向を見るとそこに一人の男が大量の血を流し寝そべっていた。「だ、誰か来てぇ。」男をすぐさま病院内に運び込んだが死亡が確認された。
6月、狭川に一本の電話が入った。「狭川先生、縁鹿目病院からお電話です。」棟丁病院の受付よりの内線だ。「はい、狭川です。あぁ、桜井先生ですか。お世話になっております。」桜井は狭川の挨拶に答えずこう切り出した「見那間君が無くなりました。」狭川は容態が急変したのかと桜井に問いなおしたが、「自殺です。」と力なく答えた。祖父は泣き崩れたが母親はスマホをずっと弄っている様子だとも言った。狭川には、見那間の自殺要因が見当たらなかった。良く思いだそうと彼のこれまでの出来事を振り返ってみた。思い当たるのは、今回の爆発事故だ。ニュース程度の情報だが、暴力団に乗せられての事件だったらしい。彼は周囲に注目されていたと考えていたのは自分の見当違いでただ単に利用されていただけだと悲観し、空虚感から自殺を選んだように思える。いずれにしても、彼の命を救うべき自分の仕事は果たす事が出来なかった。悔やんでも悔やみきれない。ただ、彼の冥福を願うだけだと狭川は、患者と対峙する道を再び進む。
見那間一樹の死は、狭川や支援して来た機関などにも大きな影響を及ぼした。棟丁総合病院では、狭川を中心とする専門会議が開かれた。「ぜひとも臨床心理士の導入をお願いしたい。」何時になく積極的に発言する様子は、周囲のスタッフを動かす事になった。院長の鴨臥木も前々から必要である事を決めかねていたと吐露し、民間の専門機関に手続きする方向に決まった。臨床心理士、聞こえは国家資格と思われがちだが、民間による認定資格に留まっている。心理支援、心理検査、カウンセリング等多岐にわたるケアを行う。精神科に留まらず、内科、外科、小児科、緩和ケアなどに貢献している事例は多い。だが、様々な障壁もある。経営利益の面、周囲との連携等、病院に専属とするのを躊躇う機関も多いのだ。然し、臨床心理士を置く事で、より近く患者に接する事が出来、身近な存在として悩みなどを打ち明けやすい環境を作る事が出来、自殺念慮の兆候などを早く知る事が可能となる。臨床心理士側にとっては敷居の高い総合病院だが、「必ず成果が現れる。」そう狭川は考えた。そして、この病院に臨床心理士が配属された日。
「山見さん、山見静さん、どうぞ。」看護師の草上智華は、若いだけになれるのが早く、患者に対して様を着けなくなった。狭川はそういう軟らかい頭の若者にどんどん成長を促している。「先生、おはようございます。」静は自殺企図を感じさせないほどに回復した。それどころか前にもまして人間性を持ったように思える。「おはようございます、山見さん。ずいぶん良くなりましたね。」静は自覚があるのかこくっと頷いた。「気分が明るくそして軽くなったように思えますが。」彼女は黙って答えたが、表情が硬い。「お仕事始めてみましょうか。」狭川は、職場復帰を彼女に勧めた。「安心は出来ないが、今日の表情はやる気に満ちている。」答えは、「はい。」と簡単に答えた。「一つだけ約束です。絶対に無理をしないで下さい。働く時間はまず3時間を目安に。」職場である慶唐大のソーシャルワーカーとは打ち合わせ済みだ。「何時でも帰って来れるように席は開けている。」と了解していた。「分かりました。3時間勤務ですね。」受け答えも、しっかりしているのは変っていない。「そうです。」狭川は、静に少し待つようにお願いした。看護師の草上に「舞張君をお願いします。」そう伝え、静と雑談を楽しんだ。「先生、参りました。」舞張公紀27歳、「今日からこの病院の臨床心理士として配属された舞張君です。」と静に紹介した。「臨床心理士ですか。」「そうです、山見さんの良き相談相手になればと思い来てもらいました。」狭川の目の合図で舞張は、椅子に座る静の横に屈んで、自己紹介をした。お互い挨拶を交わし、「私に言えない時は、舞張君に言ってみてください。きっと心の支えになると思いますから。」と狭川は二人を見て言った。
午前の診察が終わり、回診へと向かった狭川は、病棟内に舞張を見つけた。「お疲れ様です。」舞張のそぶりにはまだ遠慮がちなところが多く、狭川には不満な面ではあった。臨床心理士をおいては見たものの、彼らが患者に対して何が出来るのか、そして、それがどう医療にかかわってくるのかまだ見えてこない。突然、大声が聞こえた。然し、静かな空間に動いている者は見当たらない。「誰が大声を上げたの。」女性看護師が追求しようとするが分からなかった。患者にとってはそれが誰か分かればその人は隔離病棟に入れられる。誰もが口にしたくない。狭川は、又歩き出し、一人の患者のベットへ向かった。「佐伯さん、どうですか。」佐伯譲汰は、入院して2カ月が立っていた。身なりは地味だが、体調がいいのか、肌の色が濃くなった。「先生、看護師さんから来月には退院だと聞きましたが本当ですか。」それは狭川の指示でもある。「そうですよ。佐伯さんは心の健康を取り戻しました。日にちも決めましょう。」佐伯譲汰の表情は明るく、未来を感じさせるような眼の輝きがあった。狭川は心の内で「良かった。」と呟いた。
7月に入ると熱風が噴出しているような暑さが続いた。毎日自転車通勤を続けてきたせいか汗をかいてもへばる事が無くなったと狭川は感じていた。娘の電動も毎日使い続けたおかげか、永遠の休眠になった。新しく買ったロードバイクは彼を夢中にさせた。院長もお世辞抜きに狭川の自転車に興味を示していた。「30万、掛けるんだから弱音を吐かず、仕事を休まず頑張りなさい。」そう、専業主婦の妻に言われている。「彼女も休みが無いしな。」夫婦円満の秘訣は相手を敬う事だと狭川本人の個人的見解だ。病院では、午前の診察後、スタッフ会議が行われた。「精神科の方へはどのくらいのペースで臨床を行っていますか。」舞張公紀に質問が集中する。今日は、臨床心理士との連携についての会議になっている。「全体の3割です。」答えに緩和ケアのスタッフから意見が上がった。「もう少し、うちの方に来る回数を増やせませんか。それが出来ると看護師にゆとりが出来るのですが。」舞張は最近遅くまで残業をしている事を狭川は聞いていた。「精神科の方は、特に問題ありません。時々草上君が患者さんの悩み相談に乗っています。舞張君の負担にならないように内科の方へ行く回数を増やしてみても問題ないと思います。」連携がうまくいけばいくほどスタッフの労働負担が増える。仕事量が増えるからだ。止まる時間が無いという事は、それだけ、忙しく動いている。なるほど確かに作業効率は利益のアップにつながる。然し、狭川の立場からはあまり好まない体制と言える。「無理を一人にかけないようお願いします。」その意見は他のスタッフから異論があったが、「まだ始めたばかりのシステムという事を忘れないようにする。」という結論で会議は終了した。
診察を始めた狭川に草上から、「先生、どうしても先に診察して欲しいとおっしゃる患者さんが。」と伝えられた。狭川は、「又か。」と項垂れる。精神科に来る患者は、長い待ち時間に耐えきれない人が多い。時には、そのまま診察を受けずに帰ってしまう患者もいる。勿論、狭川に待たせる気は無い。自殺念慮を持つ患者を余すことなく診察し企図を回避できるよう努力している。帰ってしまえば失った心の健康取り戻せず自殺既遂となってしまった事もあるのだ。狭川は、「舞張君を呼んでください。」導入した臨床心理士を利用する事で一人の命を救うレールを敷く事が出来る。狭川の元へ駆け付けた舞張は狭川の説明を聞き素早く患者の元に寄り添う。「おはようございます。堂郭零さん。私は舞張公紀と言います。」名刺を渡し事情を聴く。「臨床心理士。」この言葉のイメージに堂郭は何故か素直に急ぐ気持ちを打ち明け始めた。伊達に浸透していない臨床心理と言う言葉には人の心の奥底を読み切るような力を感じたのだ。何かしら魔法に吸い込まれるイメージを彼女は持った。「早く、先生に診てもらわないと私死んでしまいそうなの。」「そうですか。それは苦しいでしょう。良いんですよ。先生も私もずっとあなたを見守っていますよ。ここは、先生のすぐそばです。安心して構わないんですよ。」舞張は堂郭の背中に掌を当て、心を開くよう彼女をやさしく包む。狭川に準備が整い、草上が彼女を診察室に誘う。入って来た彼女の印象は「摂食障害」を疑うような細い体躯だ。舞張も同室した。「おはようございます。堂郭零さん。私は狭川と言います。よろしくお願いします。どうしましたか。」舞張の言葉掛けもあってか彼女は素直に今の悩み、苦しみをを打ち明けた。「私、ずっとひきこもりで学校に行けないんです。最初は、両親も心配してくれていたんですけど、最近、私を無視するんです。」「ご両親があなたを無視するんですね。それは寂しいですね。あなたの方からご両親に無視しないでと言えませんか。」狭川の言葉に対して堂郭は「どうしてですか。何故私が親に気を使わなければならないんですか。」体に似合わぬ怒りに満ちた顔で大声を張り上げる。狭川は暫く間を開け、「今、一番困っているのは、ご両親が無視する事ですか。」彼女は冷静さを取り戻し、「いえ、私が駄目なのが分かってはいるんです。でも、どうする事も出来ない自分にはらがたって。自分なんか、何にも役に立たないのに生きてる資格も無いのに。」堂郭は泣き崩れそれ以上言葉を引き出すことは困難だと判断し、もう一度、舞張に話を聞いてもらう事にした。生きる事が自分にふさわしいのかどうか、それを本人自身で自覚するのは容易い事ではない。然し、生きていくためには重要な事柄であるというのは間違いない。狭川は彼女を回復させる方法を模索する。
狭川には彼女の心情を病院だけで汲み取る事は難しく思える。「家族、家の娘も親には言えない悩みがたくさんあるだろう。そんなとき、お前ならどう心を開かせるか。」精神科の医師のイメージは感情を込めず培った知識で患者を良い方子へと誘っていく、と思われているかもしれないがそれほど綺麗事で済む仕事ではない。自分の体験そのものを患者に与えていかなくては良い診察とは言えないと狭川は考えている。「先生、舞張さんが。」草上が堂郭の様子が落ち着いたと報告して来た。「始めよう。」舞張に付き添われ再び堂郭が狭川の前に座る。「表情が良くなりましたね。私の失言をお詫びします。」その場で謝る事は出来たが、興奮している最中に自らの過ちを押しつけても空虚な言葉に聞こえてしまう。「いえ、私が悪いからです。」彼女は自分をずっと責め続けている事で周囲の隔たりを無くそうとしている。「辛くないですか。」堂郭は動きを止めた。「辛い時は言葉に出して私に言って下さい。」時間が止まったように動く者が無かった。狭川は待っている。心の扉を開いて、自分で外に出てくる事を。そして、「辛いです。」そう一言呟き涙を気にせず狭川を真っ直ぐに見た。「私に出来る事があります。」そう言った狭川は、彼女の両親に電話を入れた。堂郭の母親が電話口に出ると狭川は、彼女の悩みを伝えた。母親は、焦る様に「私達は、無視などしてません。娘が引き籠っているのを心配しています。でも、私達に出来る事が見つからないんです。だから、そっとしておこうと主人と。」狭川の経験からもそういうケースは多い。親として出来る事が見つけられないのは何もこの家庭だけではない。狭川が提案をする。「御嬢さんの学校の方と連絡を取りたいのですが。」彼女は年齢から、中学生だと分かっている。「学校ですか。でも、私達も連絡してますけど、その場凌ぎの言葉で終わってしまうんですよ。」そう言われた狭川だが、彼女をこのままにしていれば自殺念慮を発症して仕舞う可能性がある。「私の方に任せて頂けませんか。」しぶしぶではあるが、零の両親は納得し、彼女が不登校になっている神吉中学校へ電話を入れた。彼女には伝えてある。「はい、神吉中学事務局です。」中年らしき女性の声だ。「棟丁総合病院の狭川と申しますが、堂郭零さんの担任の方にお話ししたい事があるのですが。」「お待ちください。」電話を待つ間、零には席を外して貰っている。舞張に任せている。「お待たせしました。私が、堂郭さんの担任、小林です。」担任は、彼女の存在を忘れていたと謝っていた。他の生徒の事で忙しかったと笑って謝っていた。「先生も、お忙しい時は有りますよね。」と言われ、さすがの狭川もいらつきを覚えたが、おくびにも出さず話を合わせた。小林は自分より詳しい者がいると電話を変った。「ケースワーカーの鈴幹と言います。」狭川は詳しい話をしていく過程でケースワーカーと言っても他の担任をしながらの様だと思った。学校でも、ひきこもり者を無くすようケースワーカーの設置が急がれている。勿論、自殺防止の面もある。がしかし、この女性から、解決方向に向かうような適切な処置をする意志が見受けられない。形だけの存在に聞こえた。狭川は諦めきれずある事を考えた。「不登校生の学校。」狭川の言う学校は、一般には学校ではない。「適応指導教室。」居場所の見つけられない学生達に教室への復帰を目指し指導や援助を行う場だ。学校にも別室を使うケースもあるが、狭川は敢えてその居場所を選んでみた。不登校生は怠惰や怠け、学校否定などで通えなくなるのではない。行きたい気持ちとは裏腹に不安感や、緊張に耐えきれずにいるだけなのだ。その要因は何なのかこれから彼女と接しながら見つけだして行かなければ根本的な解決には至らないが、今するべき事として適応指導教室の利用は最善策と思えた。堂郭にその事を伝えると「行ってみます。」と快い返事が返って来た。「舞張君に付き添っていかせますから安心してください。不安な事は全部彼に。」彼女は自分の居場所への復帰の道を歩み始めた。
7月半ば、病院スタッフの診察が行われた。「石礫先輩どうぞ。」草上が、診察室へ石礫聖美を招き入れた。「石礫さん、お元気ですか。」同じ病院内のスタッフだと言うのに彼女と話すのは移動になって以来だ。表情が陰っているようだ。「狭川先生、ご無沙汰しています。」石礫に力強さが感じられない。「少し、お痩せになりまたか。」石礫は頷き「このところ食欲がありません。」「何か、気に病んでいる事であるのですか。」暫く下を向いて考えを巡らしてからこう言った。「病院を辞めようと思っています」狭川は残念な顔で「そうですか。何か、不都合な事がありましたか。」「いえ、私個人の問題です。」狭川は、「良かったら聞かせて頂けませんか。」石礫はいきさつを細かく話した。「精神科から異動した後、訪問看護のスタッフとして、いろんな家庭に出向き、その家庭の事情や、ご本人の悩みなど様々な私とは違う生活を見てきました。その中でも、高齢者と若年層の問題について気になったのは、お金の問題で。」狭川は話を聞きながら石礫の右腕にあざがある事に気付いた。「4か所ぐらいある。何か固いもので打ちつけられている様な痕だ。彼女は確か夫がいるんだったな。もしや、鬱になった要因は、DVか。」考えを巡らせながら、石礫の話が終わるの待って、「石礫さん、その痣はどうしたのですか。」石礫は、眉を少し動かし、「これですか、こないだ利用者さんの家の前で転んで。」なおも狭川は食い下がる。「少し診せてもらってもいいですか。」配偶者の問題も自殺原因の一つになる。悩みを打ち明けても相手にしてくれない、家庭不和、そしてDV等、この問題も国の自殺対策案に組み込まれている。「はい。」しぶしぶ右腕を狭川に差し出した。痣を一か所一か所軽く押さえ、「痛みますか。」と聞くと「いえ。」と答える彼女の顔には歯を食いしばるような表情が伺える。「有難うございました。」石礫に見せてもらった感謝をすると「いえ。」と含みを持った言葉を返した。「何か悩んでいらっしゃるようですね。」何とか、心を開こうとするが、石礫は最後まで痣の原因を喋らなかった。
石礫は、仕事を終え、夕食の準備を整えた後、夫の帰りを待っていた。午後11時を回っている。石礫家は3人家族で、長男は県外の大学へ入学している。アパート代を毎月送る様にしている為、彼女は仕事を休む事が出来なかった。夫の給料は、殆んどが付き合いの為として夫の財布に入ってしまう。「子供が自立してるんだから、お前の給料だけで十分だ。」と僅かな生活費しか入れようとしないのだ。生活費が苦しいからと口にすれば暴力で返されてしまう。痣は、体の至る所に出来てしまった。風呂の鏡で数えると24か所あった。顔を殴る事だけはしない夫。昨日は、足の太股を擦り近木で10回以上も叩かれた。同じ個所を。嫌になった。我慢する事に耐えられなかった。生きていればいるほど痛い思いをしなければいけなくなる。「死んでしまえば。」彼女の心は遂に砕けた。
翌朝、石礫が自殺企図をしたと狭川に報告があった。今もこん睡状態のままだ。担ぎこまれたのは桜井の救急病院だ。狭川は彼に連絡し、容態を聞いた。「一進一退だ。首つりだからな。戻る可能性に欠けるしかないな。」話しによると夜遅く帰った夫が、洗濯ロープで首を吊っている妻を発見し、救急車を呼んだと言う。「痣が凄いな。」桜井は彼女の体に無数の痣があったと伝えた。「矢張り、DVがあったのか。」狭川がスマホに呟くと、「いや、旦那は人の良さそうな感じだがな。家庭では人間が変るタイプかもしれない。」礼を言って狭川はスマホを切った。家庭の問題は他者が入る事は難しい。それでも狭川の仕事はそれに気付き、話しを引き出すのが精神科としての役目であると考える。「もう少し、彼女に出来る事があったような気がする。」自殺を止める事に成功、失敗と言う言葉は当てはまらない。止める事は医師として当然であり、ゲートキーパーとして自殺志願者を生きていく人生に変えていかなければ自分の存在価値は無いだろう。「守ってあげられない命が無いように心がけて行かなければ。」と再度狭川は自分を引き締めた。
保健センターより一人の患者を預かった。社交不安症だと報告された。この症状は自分に注目が集まる事を恐れ、恥をかいたり、恥ずかしい思いから恐怖に感じ逃げ出したくなる症例だ。内気と似ている部分があるが、「正常な内気」の場合はこれに当てはまらない。線引きとして自殺念慮の回数によるものとしている。。年齢層は、12歳から22歳、大学生が良く掛る。狭川の元にいるのは、女子大生の莞爾矢瞳19歳。大学での学園祭以来登校する事が出来なくなっている。親元で暮らしているが、親子関係は崩れている。父の大胡は、一般のサラリーマン、母の矢伊子は、パートをしている。二人共家に帰るのは遅く、母の矢伊子は不倫中だ。大胡が最近それに気付き、夫婦喧嘩を夜遅くまでするため、瞳は学業に集中できていない。もともと内気で人付き合いは少ない。保健センターが案じているのは鬱症状との合併が見られる事だった。狭川が目にする莞爾矢は、気持ちが落ちていると全身で現している。周囲に対してサインを送っているのが分かる。「おはようございます。莞爾矢瞳さんですね。」瞳はゆっくりと俯き加減の顔を上げ、「おはようございます。そうです。私は莞爾矢瞳です。よろしくお願いします。」狭川は好印象を持った。非常に正しいし躾であり、礼儀正しい。「私は担当いたします、狭川と言います。よろしくお願いします。」瞳は、頷き「よろしくお願いします。」と言ってから下を向いた。「センターの方から登校が出来ない旨をお伺いしていますが、お間違いないですか。」今度は頷いただけだ。「困っている事、何か、悩み事等理由はあると思いますが、莞爾矢さんはどう言った事で登校が出来ないのでしょうか。」彼女は即答した。「怖いんです。」「怖いというのは学校そのものですか、それとも周りの人達ですか。」今度は一拍置いた。暫くして「両方です。」狭川の脳裏には、学業と人付き合いの両面に恐怖を感じているとイメージ出来た。「どちらの悩みが深いのでしょう。」瞳が少し顔を上向きにして「学校です。」学業についても留年で躓く事で喪失感から自殺念慮を発症して仕舞う。保健センターからの報告によるとぎりぎりの線と言う回答だった。「実家の方にお住まいの様ですが、環境はどうですか。勉強を遮るような者はありませんか。」そのまま、彼女は口を閉ざした。実は、狭川に両親の夫婦喧嘩の情報は既に入っている。彼女はセンターにはその事を話していた。何度も、恥ずかしい思いをしたくないと思っているに相違ない。狭川は彼女の了解をとり、保健センターに再度電話を入れた。彼女のご両親に了解してもらい、大学に籍を置いたまま休養させる事は出来ないか聞いてみた。大学側は即座に休学の手続きを行い、莞爾矢の両親に伝えた。その折、狭川は一度病院の方に夫婦そろって来てもらえるよう頼んでおいた。莞爾矢瞳の診察から2日が経って彼女の両親が揃って来院した。二人共用意している椅子の間隔を若干広げた。「先生娘が大変お世話になりまして。」まず、父親が礼を述べた。狭川は、仕事である事を伝えると母親の矢伊子が、「全く大学生にもなって自分の事も出来ない、駄目な娘です。」狭川は、落ち着いて聞くように言うと「娘さんは、社交性不安に陥っています。」夫婦は頭に薄っすらとイメージした。「何かが発端になって、恥をかきたくない、それを知られたくない知られると恥ずかしい、と深く考えてしまって学校に行く事が出来ないほど怖がっています。」大胡が矢伊子の顔を見た。そして、「お前が不倫何かするから瞳がそうなったんだ。お前のせいだ。」と激しく罵った。矢伊子は大胡が不倫の事を知らないと思い込んでいた。下を向き何も言い返せない。狭川は、もう一度落ち着かせてから、「お父さん、夫婦の事はいろいろ事情がおありでしょう。然し、夜遅くまで、夫婦喧嘩をして、瞳さんの勉強時間を削る事で彼女は成績が落ち、社交性不安もあり、留年したらと言う恐怖を煽っている事をしっかり胸に刻んでいてください。彼女を追い詰めてはいけません。」莞爾矢夫婦は、狭川の言葉に項垂れ、揃って「瞳にかわいそうな事をした。」と憐憫の情を覚えた。家族は一心同体。それは、人が生まれ死んでいくまで続く。心が何時までも繋がっていくのは家族だけだ。
静の中の衝動という虫は、首をもたげていた。じわじわと土の中から尽きる事のない無数の虫は何時しか、静の心臓の周りを這いまわり入口を探し求める。実家の生活に馴れればなれるほど自らの意志を失う。動かされてしまう。どこに行かされるのか、見当がつかない。きっと戦時中の特攻兵のように死に向かって逝くのだ。誰も振り向きもしないのにばかみたいにお国の為だと思い込み自己満足でで死んでいく。命などあってもなくても同じだ。自分の部屋を出て研究室に向かう。そこになにかあるわけでもない。それがなにになるのでもない。社会とはそういうものだと暗示をかけられている。生きることになんの意味があるのか。研究室に閉じ籠り、蟻の研究を続ける私。生物の時間的進化を求めて只生態を観察しデータをとり資料を作る。そして一日が終わり自分の部屋に帰る。食事をしお風呂に入り睡眠をとる。たまに出来たばかり彼から電話がくるけどラインだけでかえす。いまは人間でいたくない。生きていたくないから。一人のときだけは死んでるわたし。「生と死の境ってなんなの。生きていても死んでいても人ははなにもかわらない。ただそこにあるだけ。それが土の上か下かの違いだけ。」静は彼のスマホに電話を掛けた。しかし、彼の声が聞こえることはなかった。わたしがラインばかりするからだ。と電源をおとした。母の真茅は毎日落ち着かなかった。静の部屋に音が無いのが不安でしょうがない。食欲も無く、静の心配が尽きない事に心が折れてしまいそうだった。家庭での不安を他人に漏らす事を恥と決めつけていた。数日が過ぎたある日、真茅は、静の様子を隠れて見にいった。ドアに鍵を掛けない習慣のお陰で安心する機会が出来る事は彼女の心のよりどころになっていた。そっとドアを開け彼女の様子を覗いてみた。静は、誰かと喋っているようだった。真茅は、誰も訪ねてきていないのを不審に思い、ドアをもう少しだけ開けた。静が話しているのは空間だった。一人で言葉を発しながら体を動かし、パントマイムでもしている様に空間に人を作り上げている。真茅の心に陶器が割れるような音がして冷静さを失った。「なにしてるの静、やめなさい。」その声にも答えず静は空間と話すのを辞めない。「頭がおかしくなってしまった。もう終わりにしよう。静、二人で死にましょう。」その場から風呂場に行き、自分が使う剃刀を持って静の部屋に戻った。静は真茅に首を切られた。抵抗する事は無かった。痛みが静を正気に戻し、死ぬ事が出来ると安心した顔で倒れた。母の真茅は自ら首を切り裂いた。静まった山見家は夜まで血を流して倒れている二人の存在しかなかった。仕事を終えた父が帰って来る迄は。「ああ母親はだめだった。娘の方は間にあったよ。母親の掌が娘の傷口を塞いでいたと救急隊員が言ってたよ。。助けたかったんだろうな。」桜井が掛けて来た電話の内容は狭川もショックが大きかった。母親が娘と一緒に自殺を図る。あり得ない話では無く自殺企図をした本人も勿論ケアやサポートを必要とするが、その家族の心も同じように傷つく事で心が不安定になる。一方的に親が悪い訳では無いのだ。形として死を望んでいる娘が助かり、死ぬはずのない母親が亡くなった。狭川は、父親の事も心配になり、落ち着いたら病院に来るようお願いした。静は矢張り死を忘れてはいなかった。桜井は、救急隊員の話として(娘は手をお腹の上で組み、まるで棺の中の死体の様だったと話した。これで彼女の願いが叶ったかのように。父親は衰弱が酷かった。狭川は、自分の診療よりも先に内科の検診を行うよう促した。結果を聞いた狭川は、4日間も食事をとっていない事が分かった。血圧が低く、血色も悪い。声に力がなく、人が支えないと倒れてしまう。胃カメラで確認すると、内容物がなく脈拍も弱かった。毎日、熱いお茶を2,3杯飲んでいたと話した父親は、日々涙にくれていると語った。「このままでは、父親までが死に向かって進んでしまう。」すぐに父親の会社に電話を入れ、休養をとれるよう手配し、有給で休める期間を設けた。静の方は、大学側から、退職させたいとの申し出を受けたが、狭川が何とか、休職させるようお願いし了承させた。「このままではこの家庭が壊れてしまう。」父親を棟丁病院に入院させ、臨床心理士の舞張に常に声掛けをするよう指示を出した。静も体調を見てこの病院に入院させるつもりだ。「今、この家族から目を離せば二人共見えない暗闇に落ちてしまう。明るい場所まで連れて戻らないと。」狭川は、次の患者の診察を始める。
「露木哲信さんどうぞ。」草上の明るい声が診察室前に広がると、一人の男性がむっくりと立ちあがり、狭川の元へ座った。「おはようございます。狭川です。」「露木です。」「どうですか。」「変りありません。」露木哲信は、33歳独身。身寄りがなく、病院近くのアパートで独り暮らしだ。「毎日が平凡で、全ての事が嫌になりました。」と、前回の診察で告白した。今日も表情は前回と変わらない。「前回、全てが嫌だとおっしゃいましたね。すべてと言うのは生きるのがと言う事ですか。」「生き死にではありません。只むなしいんです。誰もいない一人の部屋で、只寝て起きて食べての繰り返しに、先に待つものが、その繰り返しだと思えて。」「昨日と一昨日では、同じ事をしていましたか。」「多少の違いがあっても、同じように思えて。このままずっとそれを続けて何か、何かになるのかなと。」狭川にも、分かる気がする。毎日、患者を見て、終われば帰り、また、ここに来る。それに何の意味があるのか。「生きる意味を探してらっしゃるんですね。」頷いた。「露木さんの考える生きる意味とはなんですか。」首を振り、「分かりません。今の生活に何の意味を持ち、どうそれを生かせばいいのか。分かりません。」狭川は少し沈黙を持った。彼は今、普段の生活に疑問を持ち、新たな自分を見つけたいと考えている。それは、彼自身が考える事であり、人に左右されるものでもない。然し、考え過ぎていて、鬱を発症する可能性が高いとみられる。「お薬を少し変えてみますか。」首を振った。「薬に頼らずに自分自身で考えたい。人の手が加わると自分がほんとに求めている事と違う方向に向かうかもしれない。」狭川は、露木の気持ちを受け入れ、「これまでの薬で良いですね。」「はい。」と診察室を出た。精神と言う病の薬に限らず、人間に処方される薬は、殆んどが、人間本来の機能を引き出すものであり、改造人間の様にその人では無い人間に変る訳ではない。眠っている患者本来の人間性に戻す役割を担う。間違った使い方や、考え方をしてしまうと本来の効果が逆効果になり、その人にとって悪い影響を及ぼさないよう気をつけなければならない。診察と処方にミスは許されないのだ。露木の悩み、今ある事柄がこれからの未来をいい方向に導くのか、悪い方向に向かうのか、先の見えない全ての人間の悩みとなっている。その解決方法は、近代化された未来でもみつかる事はないだろう。「先生、次の患者さんをお呼びします。」
「お願いします。」「平倉さん、平倉幹夫さんどうぞ。」久しぶりに訪れた平倉は、相変わらずの元気さだ。先に話し始める。「先生、施設で一番出来がいいって川村さんが言ったよ。」「そう、川村さんは職員ですか。」「そうだよ。職員の中で一番綺麗な人。」平倉は以前のしっかりした部分がかけていた。「元気そうだけどどうですか。」「別に悪いところはないよ。」施設に入る事で気を張った生活からゆっくりとしたストレスのない生活に慣れたのだろう。狭川は、平倉との会話を楽しみながら、ある事を思った。障害者施設の仕事。それが、社会を作った人々の理想なのかもしれないと。
狭川が、平倉の診察を終え、回診に向かう途中、男に呼びとめられた。「狭川先生。お話があります。」精神保健福祉士の環田威允だ。彼は、臨床心理士の舞張と共に狭川のサポートを行ってくれている。彼の役割は、障害者手帳の発行手続きなど行政とのつながりを主としている。平倉の手帳発行手続きも彼が行った。環田は、山見啓治の事について話してきた。静の父だ。「先生、中々、食事をとっていただけません。衰弱は酷くなる一方です。このままでは。」精神科の入院患者の中には、病院内で亡くなることも稀とは言えない。啓治のケースと同じ食事を拒否し衰弱死亡やてんかんを起こし舌を噛み切ってしまうケース等がある。その為、病院内には、患者のお墓が作られている。患者の中には身寄りのない者も多い。「そうですか、流動食を介助してあげてください。」と狭川が指示をすると環田は「分かりました。」と了解し、素早く走らず病棟へ向かった。啓治の思いは日々募るばかりだろう。妻を亡くした悲しみ以上に娘と心中と言う自分が置いてけぼりを食った事で空虚感を抱いているに違いない。狭川は、環田の後を追うように回診へと向かった。病棟は、閑散としていた。「そうか今は男性の入浴時間だ。」この精神科病棟の入浴時間は、週3日、日中を掛けて行われる。午前午後で男性、女性と別れ、強制ではないが、看護師たちは入る事を拒む患者の尻を叩いて入浴させ清潔を保っている。佐伯譲汰もさっぱりした顔でこちらに会釈をした。狭川の目的は山見啓治だ。啓治は、病室ににも食堂にもいなかった。環田を見つけ居場所を尋ねると、「入浴をして頂いています。」とほっとした顔で言った。「誰か着いていますか。」と尋ねと環田は、「お風呂場まで看護師の江汲君に連れて行ってもらいましたが、」狭川は、表情を変え、「すぐに誰か見守りを。」と啓治の自殺企図を心配した。環田が風呂場に辿り着き、表で啓治を待っている江波に山見啓治の様子を確かめるよ促した。二人がガラス戸を引くと浴槽に頭を突っ込んだまま動かない山見啓治の姿があった。
啓治は一命を取り留めた。狭川の判断が早かったのが功を奏したが、精神保健福祉士の環田のショックも大きいようだった。環田は狭川に何度も頭を下げ、自分のミスだと謝った。そこで、狭川は、緊急の病棟スタッフミーティングをその日、勤務後に行うよう看護主任にお願いし、臨床心理士、精神保健福祉士、看護師らが参加する事になった。
「ミーティングを行います。」看護師リーダーの声で全員がテーマに集中する。狭川がテーマを今回の山見啓治の対応を上げておいた。「まずは、精神保健福祉士の環田さんから、経緯をお話し願いますか。」環田は、かなり滅入った表情で、「私のミスで。」と言う言葉を何度も挟みながら説明を終えた。説明責任はもう一人、看護師の江波にも向けられた。江波は他の患者を見守りながら業務を行った事を強調していた。看護師らは、どちらかと言うと江波の意見がこの病棟の現状であるという事で一致した。然し、環田には、その考えが受け入れられない。「もっと、見守りを増やしてみてはいかがでしょうか。」と喋った瞬間に看護師らの強い視線を一気に浴びた。マンパワー不足はどの病院でも抱えている問題だ。精神保健福祉士の理想を現実化する事は難しい問題となる。環田らの仕事の範疇を超えて看護師の仕事をやる事が法によって阻害されている現状がある。何も言わず只聞いていた狭川が、「患者の命を守りたい気持ちはこの病院内のスタッフ全員の願いであり、使命ではある。然し、不足を補えば補った分、マンパワーの力が分散され、予期しない事態にもなりかねない。今回は、一命を取り留めたが、山見さんは、非常に心が不安定である事は誰しもが頭に入れて、声掛け、見守り、そして気付き。その3項目を忘れないよう業務を行ってください。」病棟スタッフミーティングは狭川の言葉で締めくくられた。終了後、環田は、理想と違う病院の現実に納得が出来ない顔だった。臨床、精神保健等ソーシャルワーカー達の悩みと葛藤は尽きる事は無い。狭川は、「我々の考えが命を救うのではない。患者本人が自分の心の健康を取り戻していくのだ。我々は、彼らの心の葛藤中に邪魔が入らないよう壁になっているだけなのだ。」と病棟を出るまで患者の様子を見守り続けた。
8月、お盆を迎える。「また、危険な時期が来たか。」と狭川は亡き者を迎え入れる厳かな気分に馴れないでいた。「先生、佐伯君が来ました。」草上は友達感覚で患者に接している。狭川は、年齢が近いのだから、かしこまる必要はないと考えている。「佐伯さん、良かったですね。今日は退院ですよ。」譲汰は、明るい表情を崩さず大きめな声で「はい、有難うございます。」と狭川に感謝しているようだ。「佐伯さん、忘れないで下さい。今の気持ちを。」病院を退院出来る喜びをこれから生きるための力に変る様に狭川の案じであり、出来事のすべてだ。「経験は物を言う。」全ての経験が、必ず無駄にはならないとする狭川の信念でもある。「頑張りたいと思います。」佐伯譲汰、22歳。まだ彼はいくらでも幸せが訪れる事だろう。診察室を後にする譲汰の背に自信の様な力強さを感じた狭川だった。山見静が桜井の病院を退院した。狭川に連絡が入り直ぐに精神保健福祉士の環田に迎えに行くよう指示した。
「退院おめでとうございます。狭川先生が心配していますので、まず棟丁病院の方へご案内いたします。」静は、環田のことを覚えていた。父に何かあったのだろうかと気を揉んだが、環田には聞けなかった、と言うより聞くことが恐ろしかった。「若しもそうだとしたら、私はどうしたら良いのか分からない。」
狭川は、順番をずらし前倒しで静の診察を行った。「山見さん、余り私をハラハラさせないでください。」静は黙ったまま口を閉ざしている。「お父さんも心配しています。この病院で静養なさってますからこの後お会いになってください。」静かは静養の言葉にピクリとしたが、ただ平静を保とうとしている。「山見さんも家に帰れば一人になり何かとご不便になるでしょうからここで休んでからまたやりたいことをしましょう。」
共に苦しみを抱える親子。父は娘に出来ることを探し、娘は心を開けずに自ずから身を投げようとしている。狭川はこれから始まる父娘の生活に奇跡が起こることを願う。
静に同行したのは舞張だ。心理検査を狭川に再び指示されている。精神科医師の診察は直感、閃きなど具体的なものにかける。心理検査は、知能検査、パーソナリティ検査、投影法などを行う。知能検査により狭川の言葉に対する認知度を測り、パーソナリティ検査によって患者の人格形成を深く知ることができる。投影法は刺激を与えたときの変化を現してくれる。その情報を元に診察時、的確な判断を下していくのだ。狭川にとって強力な助っ人となる。
「静さん、凄い、IQ180を軽く超えてます。ギフテッドの方と出会えたのは初めてです。」舞張は興奮さながら知能検査の結果を狭川には内緒で静に教えた。ギフテッドは先天的に知能が高い人を言う、所謂、天才というやつだ。その後も心理検査は続けられ舞張はその情報を狭川に報告した。
「静さん、お父様に元気な顔を見せてあげましょう」静は舞張に病棟ではなく特別室へと案内された。彼女は必死で落ち着こうとしていたが表情は硬く緊張が手にとるようにわかった。特別室はソファーとテーブル、テーブルの上に花瓶に入ったフリージア、壁にはタペストリーが飾られている。彼女はフリージアの花言葉を思い出していた。「慈愛、親愛の情、純潔。この花の様に生きる事が出来ていたら私の今は無かった。」彼女は自分を見失い、今どこにいるのか分からなくなっていた。突然ドアがノックされ我に返った。「舞張です。失礼します。さあ、どうぞ。」ソファーに座っている静の元に痩せこけた父が入ってきた。人相も風体も変わってしまった父親だが彼女には本能的に親であることが分かるようだ。しかし、二人共に言葉はない。特別室は山見親子を残したままひっそりと病院内に佇んでいた。
啓治が先に口を開いた。消えてしまいそうな小さな声だ。「痛みはないか。」「うん。」静も父と同じようにか細い声だ。「母さんの葬式もまだだ。駄目な父親ですまん。」「そんなことないよ。私が迷惑ばかりかけるからこうなったんだから。」啓治は静の細くなってしまった手を取り「これからは父さんに何でも言ってくれ、何でも良いんだ、腹が立つなら怒ればいいし、憎ければ恨んでもいい。父さんは静が生きていてくれればそれで幸せなんだ。」啓治は言葉を紡ぐたびに父親としての威厳を取り戻していくかのように声が力強くなっていった。静は父の言葉を咀嚼しながらこれからの自分を探している。「私はどこに向かえばいいの、どうやって生きたらいいの。」山見親子は結論の出ない話をその日、病院が閉まる時間まで続けた。
狭川と舞張が特別室に来たのは残業を終えたあとだった。すでに二人は話を終えて向かい合って座っている様子だ。「ゆっくりお話出来ましたか。」そう言った狭川だが、彼の目には満足顔の父と悩んでいる娘の姿があった。「先は長いですから今日は病棟の方でお休みください。舞張くん、今日の夕食は?」「カレーとみつ豆です。」狭川は山見親子に夕食を促し二人はそれぞれ男女に分かれた病室に帰っていった。
「おなかが減ったなぁ。」狭川は昼食を摂りそびれたことを帰る間際に思い出した。
感情は食事にも起因する。人間は食事をすることによって外形を構成する。空腹は本能を呼び起こしそれは野生の生物という面が現れる時。
9月に入るとここ最近では珍しく秋の気配が訪れた。狭川は何時もの業務を抜かりなくこなし自殺企図の事例も無かった。家に帰り夕食を素早く摂っていると娘の凛恋が狭川の前にちょこんと座って来た。何か言いたいことがあるようである。「パパ、今度友達と遊びに行ってもいい?」狭川は娘の言っている意味がわからない。今まで娘の付き合いまで口を出したことはない。言葉の意味を察して「旅行にでも行くのか?」と聞いてみた。今どきは何かに付けて大人と同じように卒業旅行だのという時代。狭川は「行くならお小遣いで行きなさい。」そうは言ったがなぜ自分に聞くのか不思議だった。「良かった。ママ、パパオッケーだから。」妻と娘は阿吽の呼吸のように顔を合わせて笑っていた。
次の日、狭川は初診患者に対峙していた。山並葉月、22歳。桜井医師からの依頼だ。両親ともに健在だが育児放棄で母親の弟が育ての親となった。育ての親は独身のまま葉月を育てたが性的虐待を彼女は受けていた。実母はそれを容認し、弟の性の捌け口として葉月を差し出していたという。
「山並葉月さん、はじめまして狭川です。如何ですか?」彼女の服装は22歳とは思えない。一言で言えば、親が与えたいい子の服といったところだろうか?彼女がそれを求めて着ている様子はない。嫌嫌という感じもしない。ただ、世の中には服を着て生活するという習慣があるからそこにある洋服を着ている、そんな風に思える。応答もなく表情にはこの部屋の中にたった一人で座っているかのように目に見えない人との繋がりと言う物を感じなかった。狭川は舞張が行った心理テストから彼女は常に目線が自分にあると判断している。会話や行動をもうひとりの自分とともにする、「解離性同一性障害」古い言葉ではブームにもなった二重人格である。桜井からは「入院中に何度か自殺企図があった。突発行動で対応が難しい。自分を取り戻したときが危ない。」と聞いている。狭川の幾度かの質問、声掛けにもマネキンのように表情仕草に人間を感じさせない葉月に成す術は見つからなかった。「ある意味、人に隙を見せない事にストイックなのかもしれない。」初診はそう判断した。彼女は今日から棟丁病院に強制入院となった。
山並葉月についてもう一つ気になることが狭川にはある。スタッフ共有の情報として、彼女は育ての親の陰部を噛み切っている。一命は取り留めたものの瀕死の重傷。その治療も桜井が行っている。「警察に俺まで事情を聞かれたよ。手術の最中に入ってきて参った。救急車は噛み切られた本人が呼んだらしい。救急隊員も忙しいのにいい迷惑だと愚痴ってた。」と言った。義理の父と呼んでいいのかわからないが、育ての親は陰部を娘の口に突っ込んだ瞬間に噛まれたと泣きながら喚いていたという。葉月は犯される中で仕返しする機会をずっと待っていたに違いない。彼女にとっての解放はその時だったのかもしれないと思うと狭川には虚無感しかなかった。
葉月は当然のごとく隔離病棟に入った。3日程警察からの事情聴取があり、刑務所への送致も検討されたが桜井と狭川のネットワークにより免れた。何よりも性的虐待が明らかであり、狭川の書いた解離性同一性障害の診断書がそれを可能にしたと言える。只、傷害事件として何らかの罪と罰は受け入れざるを得ない。
1週間が過ぎ狭川家は朝から妻と娘がバタバタと洋服やら化粧品やらなんやからをカバンに詰め込んでいた。「何かあったのか?」と妻に問うと「何とぼけてるの、凛恋があなたに言ったでしょ、遊びに行くって。」「ああ、でもそれお前の服だろう。」なんとなく聞いていた娘の言葉を頭の中にある多くの言語から探し当てた狭川は、友達と遊びに行くと言ってたことが聞き違いに思えている。「お前と行くのか?」それを聞いた妻は「凛恋の友達のママにね、前々から旅行に誘われてたの。丁度今日から三連休だから4人で沖縄に行こうって決まったの。今回は女子旅だからあなた達男性陣はお留守番。っていうかあなた土曜日仕事だしこないだ凛恋に行ってもいいって言ったから。」狭川は、阿吽の合図の謎が解けると同時に釈然としない現実に寂寥とした。
山並葉月は、隔離病棟内では1畳畳の布団で安心したかのように無防備に眠っている。その姿を鉄扉ののぞき窓から確認した狭川は、開放病棟へといつ移動させるか未だ決めかねている。彼女は理由があるとはいえ人に怪我をさせている。自身を守るための他傷で罪はないと狭川は考えるが、1度道を逸れた人間には分からない感情の一線から漏れている。2度目が無いとは中々言い切れない。鬼畜に喰われながらその鬼畜を喰らう鬼が居る。彼女が今もし鬼に変わったとしたら山並葉月を守ることが出来なくなってしまう。我々が手を離したら誰が彼女を守るのか?「隔離病棟での彼女の顔は何故か産まれて初めて味わう幸福のように至福に満ちた表情だった。本当の幸せを彼女に気付かせて挙げなければ。」と狭川は葉月の呼吸を感じ取って命の糸を手繰り寄せようとしていた。「暗い、ここは何処。おじさんが来る。早く逃げなきゃまたいやらしい事をさせられる。もぅ嫌、あんな目に合うのは。誰か早くここから私を連れ出して。」「俺の手を掴んで。しっかり握るんだ。さあ、このドアを蹴破るからそしたら全力で走るんだ・・・。」ドーン!
乾いた大きな衝突音が病棟に響き渡った。すべての患者が深夜に目を覚まし喚き慄いた。強音は精神科に留まらず一般病棟にまで響き渡り禁止されている携帯で一般患者が消防に電話を入れてしまい、棟丁病院は大騒ぎとなった。
狭川にも一報が入り慌てて病院に駆けつけた。騒ぎの張本人は、山並葉月だ。応急処置として持続性注射剤のリスパダールコンスタを臀部に打つよう狭川が命じた。「暫くは大人しくなるだろう。しかし、彼女にそんな一面があるとは。」葉月は、ドアを相当な力で蹴り上げたらしく右足の3本の指を骨折していた。「ヒステリーが起因しているのかも知れない。」と狭川は判断した。彼女の場合は典型的な外傷後ストレス障害により解離性同一性障害を発症している。そのトラウマとも言うべき性的虐待は余りにも彼女に根深い傷を付けてしまった。本来の自分を取り戻すことは不可能と言っても相違はないだろう。しかし、と狭川は思考をリセットし「私達の仕事は当たり前のことをする仕事ではない。誰もがもう駄目だと諦めることを可能にし生命を守る仕事だ。そこにある奇蹟を引き出す、それが医師でありチーム医療のあるが所以だ。」葉月は、意識が混濁している。起きるまでそのままにしておくよう深夜残業の看護師に伝え帰路に着いた。狭川は家に帰り着いても解放感に包まれる事は無かった。妻が「お帰りなさい」と言った答えも言葉にならない返答になった。「彼女の心は開きそうにない。このまま行けば専門病院へ移送となり閉鎖的な環境に追い込まれてしまう。」眠りは訪れることなく外に眩しい光が訪ねてきた。
次の日、狭川に院長呼び出しがあった。「山並葉月を専門病院へ移送するという判断をした」そう鴨臥木は言った。「いつまでですか。」そう云う狭川に院長は一週間後だといった。狭川は思い切って葉月を診察室に呼んだ。看護師が心配し中で待機しますといったが「二人で話します。」と拒否した。対応策があるわけでもなかった。カルテ、心理テスト等の情報も全てシャットアウトし人間同士の話をしたいと思った。
「山並葉月さん、今日は私の方からいくつか話をします。貴方がこれまで受けてきた心の傷は他人がみたことがないような無限数だと思います。人はたった一つの心の傷でも生き方を変えてしまうようにデリケートで繊細な生物です。生きることを願っていても些細な出来事で脳の仕組みは切り替わり次の瞬間には死を選んだりもするのです。貴方が今考えていることはどんなことでしょうか・・・。?沢山苦しんだ葉月さんの脳は無數の思考転換を起こし大変疲れていらっしゃいます。暫く貴方が休める場所で全身をリフレッシュさせてください。思考が変わらず心が癒える環境を提供させて頂きますので安心して下さい。もう、救われています。貴方があなたの意思で動くことができるのです。大丈夫なんですよ。」狭川の言葉が終わると葉月の目線が集中力を持った。「あ、あ・り・が・と・う、た・す・か・り・ま・し・た。」山並葉月の眼は赤く火照り涙と感情が流れ出していた。狭川も彼女に遅れて同情の感涙が込み上げた。人と人の間には障壁はない。ただ、そこには他人という言葉があり、家族、友人、知り合いという現実が人間の前に立つ。人の心というものはどんな環境で暮らそうと生まれたときの純粋なままなのだ。傷がついてしまった心は再び再生し、真の心を取り戻す。狭川はいつも思うのだ。「何故人間には寿命があるのか?」と。
2週間後。「誰かぁ!」愛情精神病院の女性看護師が一人の女性を抱き上げ助けを求めた。女性は口から血を流している。救急車が到着し救命救急センターに運ばれたが死亡が確認された。
鴨臥木院長が珍しく精神科を訪れ狭川に話があると特別室に呼ばれた。「狭川くん、残念な報告を君にしなくてはならない。」狭川は、自分の過ちに心当たりは無かったが首かと気を揉んだ。精神科の医師は血の繋がりがない限り落ち着ける病院はない。「どういったことでしょうか?」恐れながら聞いた言葉は自分の首よりも彼にショックを与えた。「昨日、山並葉月さんが亡くなったよ。自らの舌を噛み切ったそうだ。」眼を広げて驚く狭川に言葉はなかった。何故か桜井のいった言葉が反復していた。
「自分を取り戻したときが危ない。」
10月は運動会という時代では無いが狭川にとっては正月、お盆に序で家族が親睦を深める月である。但し狭川は一度も子供の運動会、体育祭に行ったことがない。医師会の会議や地域医療の一貫として公民館等でメンタルケアカウンセラーをしている。狭川本人の意志もあるが、病院側の意向でもあり地域貢献を促進することで何かと嫌悪される精神科のイメージを払拭する為でもあるのだ。朝から妻は弁当作りに忙しい。「行ってきます。」と言う狭川に答える声は届かなかった。
山見親子の退院が決まった。これからは父と娘で苦労を分け合うことになる。「静、忘れ物はないか?」啓治は父親として立ち直ろうとしている姿勢が伺い知れる。静は軽く頷き「心配無い。」と父を見ずに答えた。まだ二人の間には蟠りが見え隠れしているが見送る狭川と精神保健福祉士の環田は二人が路頭に迷わないよう地域との連携を密に取りサポート体制を更に増やした。
「はあ、やっと我が家に帰り着いた。」啓治の表情はいつになく晴れやかだ。「静、ずっと雨戸を閉めてたから家の換気をしよう。」啓治の言葉に静は頷かなかった。彼女の心に影が指した。母と心中した部屋を誰かに見られたくはない。「駄目!そんなことしたらお母さんの影が消えちゃう。」「影?」静はこの家のすべての窓、カーテンを開けては駄目だと父啓治に懇願した。「今はまだ駄目なの。私が終わるまでは。」啓治は静の願い通りに締め切られた部屋の電気を点けた。午前11時だ。「お父さんがなにか作ってあげたいが食材を買い忘れてるからどこかに食べに行くか、出前を取るか、静はどうしたい?」静かは首を振り「朝の病院食が多かったからいらない。」といった。静は病院の今朝の朝食を3分の1程度摂っている。精神科病棟の食事は普通の病院食ではない。糖尿、高血圧などなければお腹いっぱいになる。一般家庭の朝食よりもしっかり摂れる。父の心配する気持ちはまだ娘には届かない。「静、お寿司きたから食べないか?静!」啓治が彼女の部屋に行ってみると誰もいない。家中を探したが静は行方をくらましていた。
狭川はこの病院で初めて自殺願望のある犯罪者の診察を行っていた。谷津原武人26歳。暴行傷害の常習者で周りが意図しないときに暴れだし手当たり次第に殴りかかる。幻覚妄想癖の統合失調症患者だ。「おはようございます、やつはらたけとさん。はじめまして狭川です。如何ですか。」谷津原は貧乏ゆすりが止まらないようだ。「落ち着きませんよね。初めての場所ですから。不安にならなくてもいいんですよ。谷津原さんの心の健康を取り戻す場所です。ゆっくりしてください。」谷津原はやっと貧乏揺すりを止めた。落ち着いたようだ。「何か困っていること、悩んでいることはありますか?」という狭川の問いに「何もしないから。」と答えた。狭川は彼の言葉の糸から何もしないのに周りの人から揶揄されるというイメージを作った。「何もしないのに周りの人からなにかされるのですか?」首を振った。今度は「何もしないのに悪く言われることがありますか?」今度は頷いた。幻聴と疑うべきだが、周囲の人間も人である以上完璧ではない。「どんな言葉を聞きましたか?」「バカとか、気狂いだとか。死ね。」彼の表情からは真実を訴えているようだ。「そうですか、それは嫌な思いをなされましたね。そう云うことは聞き流して自分に良い事を言ってくれる人とお話するほうがいいですよ。」谷津原は、静かに話した。「先生は優しい。でも他の人は駄目だ。俺をバカにしてる。」狭川は被害妄想の原因に踏み込む。「今いるこの病院の中にその人はいますか?」「居る、壁に隠れて俺を馬鹿にしてる。」明らかに正気を失っている。「ご両親は優しいですか?」彼のキョロキョロする目線が狭川に向いた。「お母さんは関係ない、お母さんは悪くない。アイツラが悪い、俺を馬鹿にしたアイツラが。」また、貧乏揺すりをはじめた。「お父さんとはどうですか、何かお話しますか?」「彼奴は、お母さんを虐めた。悪いやつだ。」目を見開きまるで狭川が父親かのように周りを見失っている。「お父さんはお母さんになにかしましたか。」「殴った。こうやって。」と自分の頬を自ら拳で数発殴りつけた。「痛いからやめてください。痛いですよ。」狭川は男性看護師を呼んだ。ドアを開け右斜め後ろに立つ。狭川が言葉を続ける。「今日はここでゆっくりしてください。」と狭川が男性看護師を促したとき谷津原は「俺は帰る。」そう言って立ち上がり診察室のドアに向かって歩き出した。男性看護師は「大丈夫ですよ。お部屋がありますからさあ行きましょう」と谷津原の体に触れたときだ彼は全体重を掛けた右の握りこぶしを看護師の左頬へ放つ。男性看護師はまともに顔をで受け止め谷津原の振り回す腕を両腕でロックした。待機していたもうひとりの男性看護師が谷津原の大声に呼応して診察室に入り谷津原は完全に二人に拘束され隔離病棟へと連れて行かれた。保安処分に問われる精神耗弱者に対する扱いについて意見が分かれる。法的処分により勾留するかどうか。現状は保護入院として精神科の隔離病棟へと送致される。然し、他害により周囲が巻き込まる可能性を無視は出来ない。刑務所と精神病院の間に何かしらの施設を作ろうとする研究もある。長年続いている風習を変更することは容易くはない。しかし、精神病は決して一括にできるような病気ではない。
静かは走っていた。なるべく遠くへ。母の影を残して。「行くところなんてない。今は誰とも合わない場所に行くだけ。」住宅街を抜ける。ただ道があるところを、歩けるところをずっと。
棟丁総合病院でACT(包括的地域生活支援プログラム)を立ち上げる計画が進んでいる。これにより24時間365日体制で精神病及び自殺企図を行おうとする人たちの救済が出来るようになる。精神科医として狭川、看護師として看護師長の榎谷甫子、精神保健福祉士として環田、臨床心理士として舞張が参加する。加えて狭川のアシスタント看護師草上が加わった。施設に押し込めておく古い慣習を一蹴し、地域にサービス側が出向く。精神耗弱者が地域で暮らせるようになることで、ごった返す病床の改善が見込まれる。さらに回転ドア現象と呼ばれる入退院を繰り返す患者を減らし、生活、就業問題などを解決する。リーダーは、臨床心理士の舞張が兼任する。ACTのリーダーは医師が行わないのが普通である。患者を抱えての兼任は難しい。狭川はもうひとりこのチームに公認心理師を加えることを提案した。舞張はすぐに手配をし、河場崇泰というベテランを狭川に紹介した。「僕が専門大学の生徒の時にお世話になった元講師の河場崇泰さんです。」紹介された河場は「この道30年になります。資格を取ってからはまだ若輩ですが、精神耗弱者に対するのは40年を過ぎました。」話によると河場は70歳で、国家資格取得は3年前、娘は自殺未遂の経験があるということだった。狭川は心強いスタッフが揃ったと自負した。
具体的にACTがどう動いていくか、このサービス提供が是か非かはリーダーの舞張の手腕に掛かっている。臨床心理士の立場として他のスタッフどのチームワークをどうするのかが問題となる。医療チームに入ると浮足立ってしまいしばしば周りの不評を買う。プライドが高すぎてもいけない。事細かく繊細な対人関係を築いて業務を遂行できればACTは効果的に作用するのだ。
狭川は診察を終えて回診へと向かっていた。昼食時間は不規則でありそれが当たり前のようになっている。「狭川先生、人事に変動がありました。」草上看護師が笑顔で狭川を追いかけてきてそう言った。「何かあったのかな?」と定例時期ではない移動に不信感を抱いた狭川に彼女は「結婚をすることになりました。」と挨拶した。
看護師の結婚問題、古くは看護婦は寮制度であり男子禁制が敷かれ、門限を過ぎての外出が規制された。恋愛ができにくい状況があり人権の問題にまで発展した。現在は一般社会と同じであり自由の身になっている。一時期はストライキにも発展した医療のあり方に現在も不満の種は尽きない。
狭川は快く草上を送り出す心の準備をした。「患者が待っている急ごう。」回診が始まった。
精神保健福祉士の環田は患者の抱えている問題の対応に追われていた。「環田さん、年金未受給の患者さんが入院費の事でご相談したいとのことです。」障害者年金の問題も国の考え方に落ち度があり受給できずにいる人は多い。産まれてからの障害に関しては無条件で支払いが行われるが中途障害者は発症時の国民、厚生年金の支払い状況で変わる。1か月収め忘れれば一生の障害者年金を失うのだ。改正により若い年代のみ許されている。よって障害者手帳は紙くず同然。公共機関の割引など生活困窮者にとっては無駄なものでしかない。
精神障害者の多くは生活困窮者世帯なのである。棟丁病院の場合、自殺志願者が多く病院を出た途端に食べられないからと自殺企図に至るケースが多い。狭川たちの努力が無駄になってしまうのだ。
国はいわば障害者と認めるのは金を払う人間だけだとノーマライゼーションの理念を達成する気は毛頭ない。強いものが生き残り弱い人々は生きていけない。戦後改革を重ねても根本が変わっていない。環田もこの理不尽さに不満を持っている。「環田さん、病院代払えないです。病院から出ないといけないんです。」女性患者の泣き声混じりの言葉に心を痛めながら環田が宥める。「心配いりませんよ。ご両親がきちんと払ってらっしゃいますから。」精神耗弱者であろうと生活ができているか否かは当たり前にわかる問題。然し、一般の病院と大きく違うのは鍵をかけられ自分本位には出られないということだ。逃亡者も無数にいる。騒ぎになるのは日常のことだ。
生活保護が命の救済と言えるのか?人間は只食べて寝る場所があればそれでいいのか?命とはなんなのか、生きることと死ぬことしかないのか?人間とはなぜ生まれ死んでいくのか?いつの日にか狭川の考える患者救済ができる日を信じて診療は続いていく。
静の姿は研究室にあった。行く宛などどこにもなかった。蟻の巣それは彼女の終の棲家。彼女が死ねば数多くの蟻達が弔いの御輿を担いでくれる。研究室前の廊下で誰かが立ち話している。静は無意識に耳を澄ましていた。他愛もない准教授と生徒の恋愛話に花が咲いているようだった。「あの人は今どうしてるんだろう」そんな言葉が聞こえた気がした。「あの人、私にとっての唯一心と体を許した人。母と寝たあの人。」研究テーブル上の乳鉢と乳棒に目が向いた。なにか意味を持っているわけでもなく目線が白いその物体を捉えていた。「乳鉢の語源は食べ物を乳児に食べさせるために乳鉢と乳棒を使ってすり潰したから。私が噛み砕いた食べ物を私の赤ちゃんに食べさせることは一生ない。きっと赤ちゃんも死を持って生きるしかないから。可哀想だから」死を持ってすべてを精算する事が人間の贖罪であり産まれてきたものの終焉。
11月に入ると寒さが再び狭川の肌に刺してきた。去年なら寒さに負けるところだが自転車通勤を続けた結果であろうか外気に肌が慣れたようだ。ロードレーサーにでもなったかのように颯爽と自転車専用レーンをひた走る。「向かい風と坂道は格好のトレーニングになる。」そう思っていると病院の自転車置き場に着いていた。「着替えも要らなくなったし格好のスポーツ日和とはこの日のことだな。10月ではまだ早すぎる。」狭川は回診へと気持ちを移し白衣を身に纏った。
今日最初の患者は両親と訪れた。宣亭長緒、男性19歳、大学2年で登校が出来なくなった。高校の成績は上位だったのだが大学に入り対人関係を構築出来ず授業についていけなくなった。「うちの子、根は優秀なんです。でも、奥手な子で友達が出来なくて。気にしないで勉強しなさいっていうんですけど人に気を使う子で。」母親は懸命に息子を擁護するが父親は何も言わず腕を組んで座っていた。「長緒さんはどうですか?」精神科の医師は端的に質問をする。専門用語などは薬剤名くらいだ。患者本人が思った答えを受け止めて話を進める。言葉の誘導は決して行わない。「親に学費を払ってもらっているのに、ごめんなさい。」長緒は親に対して遠慮していることを表した。宣亭家は父親が建設会社を経営しており長男が副社長を勤めている。歳の離れた次男の長緒はそういうプレッシャーに押し潰されているのかもしれない。「長緒さん、気分はどうですか?」狭川が話を切り替えると、彼は口を閉ざした。母親が狭川を気遣い「ずっと自分の部屋に閉じこもって音一つ立てないんです。心配でしょうがありません。自殺でもするんじゃないかと思ってしまいます。」ずっと黙っていた父親が口を開く。「根性がない。何時までも母親に甘えて子供のつもりでいる。」そういった次の瞬間父親の握り拳が長緒の頭を殴った。「ゴンッ。」と鈍い音だ。狭川は慌てて「殴ってはいけません。お父さん、実の子であっても銘々が尊厳を持っています。彼の自尊心を傷付けてはいけません。」狭川に決断が迫る。「少し入院してみますか?」狭川の言葉に三人は異口同音に通院を希望した。狭川はもう1つACTのメンバーを宣亭家に派遣する提案をしたが「我が家のことは自分達が責任を持ってやっていきます。通院はこれからは息子一人で行かせますので診療をお願いします。」と否定的だった。その時の長緒の顔は何か思い詰めた、決心をしたような表情だった。
宣亭親子は病院からの帰途についていた。「お前はいらんことを言い過ぎる。黙って先生の話を聴いていればいい。」父親の言葉に長緒の母親も従うしかなかった。男尊女卑を絵に描いたような家族。令和になっても根深く枯れることがない。
「あー、もう駄目だ。俺は生きている価値はないんだ。そうだ、死ねばいい。死んだら親父は俺の価値に気付く。その時に言ってやる。お前のせいで母さんも俺も苦しんだんだ。お前が死ねばよかったんだ。」宣亭長緒は自室で自殺企図を図った。リストカットだった。慨遂には至らず桜井の病院で治療後、棟丁病院に入院となった。流石の父親も憔悴していた。自信家の父親からしてみれば自分の子供がまさか自殺未遂を犯そうとは青天の霹靂だっただろう。
狭川はこう考える。人間には強い者と弱い者がいると謂われるが表面に出すタイプと内面に納めているタイプの人間が居るだけで人はすべて同じ力を兼ね備えていると。だから自殺しようとする人間も希望に満ちた生活を送ることができるのだと。
1ヶ月ぶりに平倉が診察に訪れた。「どうですか?」狭川の主語のない言葉に平倉は「施設のあり方に頭にきます。」と憤慨していた。平倉が答えから入るのは初めてのことだ。何時もは狭川より先に話を進める。「どうしてですか?」平倉は少し目を吊り上げるようにして声音も大きくこう言った。「俺は周りの誰よりも優秀な人間なのにパソコン仕事以外をさせるんだ。おれがやれば施設が儲かってみんなに高い工賃があげられるのに。」平倉が言うには彼が通う施設ではパソコン作業の他箱折、手芸、ゴミの分別があるという。しかし、施設が請け負う仕事には限りがあり希望通りの仕事ができない事が多い。それが嫌で辞めたり他施設と併用したりする利用者もいる。平倉はかなり喪失感を顕にしていた。平倉が残念な思いに陥るのも無理もない。彼は紛いなりにも一般の会社で働き実績もある。周りにいないことはないが就労継続支援B型の性質上重度で働くことが困難な利用者も多くいる。そのため数多くの障害者がA型を希望しBとAで実際にはない暗黙のランクができあがっていまう。しかし、施設の在り方として差別のない事業所であることが本来なはずである。障害、健常全ての人が平等であるべきだとするノーマライゼーションの理念に沿った社会でなければならない。平倉の怒りは収まることがなかった。「俺は職員よりも高い実力があるのに利用者から職員になってもおかしくない。施設長よりも上のはず。」社会の中にいると上司だの部下だのと人間関係を縦社会と同じだと勘違いしてしまう。「あの人には逆らえない。彼奴なら俺の自由になる。」そういった人間達がこの社会を自由のない不平等な世の中にしてしまった現実をこれからこの社会を創っていく若者に望みを託すしかないと狭川は思った。それ以外に平倉は父親どの諍も口にした。「俺は金にもならないことしかしてない。生きてる価値がない。」と卑屈になっている。狭川はこう言ってみた。「平倉さん、今あなたが置かれている立場は会社で有給休暇の状態だと思ってください。一部の会社では有給の賃金を減額するところもあります。言葉は悪いですがブラック企業に入ってしまった。でもまあ、休んでお金が入ってくるという流れは変わらない。そう思ってください。」平倉は幾分気分が落ち着いたようで素直に「分かりました。」と答えた。平倉の職歴からするとB型の朝10時から午後3時までの仕事というのは物足りなく思っているだろう。しかも仕事中も張り詰めないように職員の言葉掛けが入る。パワハラ、セクハラ、モラハラは一切タブーなストレスフリーの施設だ。有給くらいに考えても可笑しくはない。納得したのか平倉は明るい顔で診察室を後にした。
「先生、次の患者さんをお呼びしてもよろしいでしょうか?」狭川が頷くと新しい狭川の相棒である宮毛恋奈が呼んだのは、山見静と父親啓治。静は家を飛び出したが研究室で暫く蟻の巣を観察していると落ち着きを取り戻し家に帰ってきた。「心配で心配でしょうがありませんでした。」と啓治は目を潤ませながら狭川に報告した。「お父さん、静かさんはしっかりしたお子さんです。自棄になるような稚拙なことはしないと思います。信頼してあげることも大事なんです。」静は数え切れないほどの自殺未遂がある。しかし、だから信用がないでは前進がないのだ。単純な言葉だが人を信じるそれが人間社会の根本だ。狭川は山見静をとても信頼している。だからこそ助けたいのだ。煩わしい闇の世界を葬ってしまいたい。「静さん、どうですか?」狭川の主題を求める問に「私は代わりがありません。初診と同じです。」彼女の意図するものは産まれてからずっと変わらず自殺念慮を持っているという意味だろう。狭川はこう答えた。「変わりありませんね。」と。自殺念慮を強引にやめさせることなど到底出来はしない。本人の強固な意志を逆手に取ってそれが彼女であると受け止めてあげる。そうすることが彼女との信頼関係を築く方法だと考えた。「お薬はいつもの通りに出しておきます。次回は何時がいいですか?」啓治は「いつでも先生のいいときに。」と答えたが、静は「1ヶ月後ではいけませんか?」と答えた。普通であれば彼女ほどの自殺未遂からするとせめて2週間後だ。しかし、狭川はそれを良しとした。彼のかけでもある。仮にその間に何事もなければ落ち着いているスパンが伸びることになり自殺が考えるだけになる可能性もある。それは彼女にとっては大きな前進になるのだ。其れに病院に月に2度も通うこと自体、生活の張りを無くしてしまう。「良いですよ。」診療が終わり山見親子は引き上げていった。
皆川恭介、ひかる親子が来院した。狭川はまず父親の恭介からひかるの様子を聞いた。 「あれからひかるも頑張って学校に通うようになりました。先生から言われた通りこの子を信じて待ってやると自分から明日から学校へ行くと。おかしな話ですが入学式を思い出しました。初めて小学校に送り出すようなそんな気持ちです。」恭介の表情は穏やかさを醸し出し子に対する愛情が体の隅々から滲み出ていた。
「ひかるさん、よく頑張っていますね。素晴らしいです。」狭川が褒めるとひかるは若干影のある笑顔で答えた。相変わらず言葉は少ない。まだ、母の死を自分の責任だと抱え込んでいるのがわかる。
狭川は恭介に臨床検査をしてもいいかと尋ねた。訝しながらも承諾を得ることができた。
狭川の知りたいことは刺激反応だ。小学校ともなると言葉遣いも明け透けだ。教員が注意をしていてもあからさまな暴言を聞く可能性もある。その時、自殺念慮を起こしかねない。
環田を診察室に呼びひかるを検査するよう指示した。残った恭介にひかるの生活習慣を一通り聞き、支援出来る部分を弾き出した。支援事項として、父親が仕事をしている間の過ごし方を上げた。最近は家事も進んでやっているというが、週に2日は休めるようにするためと、学校内でいじめなどがあった場合を考え適応指導教室に通えるよう手配した。
座っている恭介に狭川は待合室で待つようお願いした。「検査は30分程です。」狭川はそう言って送り出した。
続いて宮毛看護師が患者を呼び出す。「街坂穂波さんどうぞ。」「はい。」その場にそぐわない大声が聞こえた。
街坂は診察室に入ると全体を舐め回すかのように入り口で立ち止まり部屋内部の物品を確認した。落ち着いたらしく最後に狭川の方へ視線を向け座椅子に座る。狭川の診察が始まった。「街坂穂波さん、はじめまして狭川です。いかがですか?」街坂はキョトンとした表情で答えがない。狭川の云う如何ですかというのは何に対してのものなのかが彼女には理解できない。彼女の両親から電話を受けている。彼女は精神遅滞の症状がある。知的障害だ。しかし、軽度であるためバスに乗ってこの病院に一人で来た。両親によると責任感が強いとのことだ。たが、左手首には無数のリストカットの跡がある。強すぎる責任感と精神遅滞とのギャップがそれをさせていると思われた。「どんなときにむしゃくしゃしますか?」街坂は考えるポーズを取りながら答えた。彼女は知的障害を理由に周囲に考えることができないと揶揄されてきている。母親は、泣いて帰る彼女に泣くなど叱ってきたらしい。そのため周りに分かりやすく考えるポーズを取る。軽度の知的障害者はほぼ健常者と同じだ。怠けている健常者よりもしっかりしている場合が多い。「皆と同じことが出来ない時。」彼女はそう答えた。得てして障害があるからと卑下することの多い障害者の中で決して自分に妥協せず向上心を持つ彼女には狭川も敬服した。とはいえ自傷行為は容認するわけにいかない。彼女の心と体の痛みを取り除いてあげたいのだ。「街坂さん、人は千差万別。文字の通り沢山の違いがあります。自分とは別の人と同じではないということは同じことはできないということになります。私も街坂さんのように頑張ることは無理なのです。分かりますか?」街坂穂波はコクリと頷いた。「何も心配することはありません。自分のやっていることがその答えです。体には十分気をつけてください。」街坂は完落ちしたように「ありがとうございました。」とこの診察で初めて口を開けた。その言葉は透明感に包まれた春の陽気の空気のような声だった。
皆川ひかるは通う半樺小学校の授業を終え祖母が買ってくれたキティちゃんのロゴ付きランドセルに教材を入れていた。教室の後ろの方で何やら自分の噂話をしているのが聞こえる。声音からクラスで一番力持ちの男子生徒と仲間の男児のようだ。「おい、お前らあいつが母親殺しって知ってるか?」「ええ、怖ぁ。人殺しなのあいつ。」「最低。」音楽を唱和するように聞こえ語なしに話している。
母親を殺した、それは3年前の秋だった。ひかるは口数の少ない子だ。キャーキャー騒ぐことは小学生になってから一度もない。両親は彼女がどこか悪いのかと心配し総合病院に連れて行った。理由は周りよりも精神的な成長が早いということだった。両親もまだ小学生なのに騒いで怒られるくらい当たり前だと考えていた。早熟してしまったことで周囲との考え方にずれができてしまった。ひかるは親に甘えてはいけないと1年生になって意識した。かといって彼女が上から目線で物事を見ていたわけではない。同じように周りの生徒と遊び話もする。そんなときふと気付くのだ。「皆は繋がっているのに私は手を離した風船のよう。」少しずつ仲間と外れて過ごす時間が多くなった。
そんなある日のこと。いつものように昼休みをひとり座席に座り教科書を広げ次の授業算数を予習していると突然背中に鋭利なものが刺さった。恐怖で声が出せずただ涙が零れ出た。すると今度は頭に強烈な熱さを感じたかと思うとズキンズキンと痛みが止まない。手でその部分を触ってみると髪の毛の手触りがそこだけ抜けていた。思わず教室を飛び出し校門を抜け自宅方向へと走り出していた。「何、何なの。私が何かしたの。悪いことなんかしていない。酷いことされるようなことしてない。」涙が枯れ果て目の周りは湿気のない土のひび割れのように壊れ落ちそうだった。ふと気づくと正面に母の後ろ姿があった。母の背中に抱きつきたいと思った。背中におんぶをしてもらいたいそう思った。「お母さん。」大声で呼びたかったが自分の中の誰かが「甘えるな。子供じゃないんだから。」と叫んでいた。心が捩じ切れそうだった。甘えたい自分を取り戻したい、ただそれを願った。然し、母の後ろに立つといつもの自分に戻っていた。「ひかる、どうしたの。学校は?」母の顔と言葉は叱っていると伝えていた。言い訳が出てこない。「どう言えばいいんだろう。どうやってこの場からお母さんと一緒に笑って家に帰ることが出来るんだろう。」悶々とする気持ちを遮るように頭に強烈な熱く焼けるような痛みが襲ってきた。思わず頭に手をやり其の場に蹲った。「どうしたの、ひかる。頭が痛いの。」あまりの急なひかるの様子にいつも以上に世話を焼きたがる母が鬱陶しく思えた。そしてひかるは渾身の力で母を車道へと突き飛ばした。高齢者運転の自動車が何事もなかったように母の身体を前輪から後輪へと踏み潰していった。母は即死だった。母の骸は血の湖に浮かんでいるかのように穴という穴全てから血液が溢れた。ひかるはその光景を絶景でも観るかのように目を見開き記憶に刻んだ。「お母さん、死なないで。」と誰かがいった気がした。その後彼女は、父恭介と一緒に事情聴取を受け家に帰った。
教室内は男女が揃って「人殺し。」と囃し立てている。居た堪れなく教室から屋上へと向かった。「もういいよね。お父さん。私、罰を受けたから。お母さんを殺した罪は償ったから。もう逝くね。お母さんの居るところへ。さようなら、お父さん。」
「小学生が学校の屋上から飛び降りました。」待合室にいた環田はニュースの小学生と言う言葉に反応した。
狭川の元に精神保健福祉士の環田が駆け込んできた。「先生、大変なことになりました。今、警察から電話がありまして。」余の出来事に慌てふためいた環田は賢明に冷静さを保とうと腹式呼吸をしてからこう言った。「皆川ひかるさんが自殺既遂しました。」狭川の表情は青く絶望に変わった。
狭川家の朝は早い。妻、栄子は家族の弁当作りを欠かさない。それが自分の役目だとしている。昭和の妻という考えからではない。家族という存在は自分の体の一部、その一部に栄養を与えることは至極当たり前のことだと考えているらしい。夫婦の寝室でそう語った彼女に狭川は改めて愛情を注いだ。
かと言って仲睦まじい夫婦とは狭川は思えない。夕食時の早くしろプレッシャー攻撃には「俺はそんなに煩わしいのか」と思ってしまう。子供達もそれぞれがやりたいことをやっている。とかく医者は給料に恵まれて生活に困らないと思われがちだが医師になるまでの多額の学費などを考えればトントンにもならないだろう。
自分はさておいて最近娘の様子が変だ。朝、顔を合わせてもうつむき加減で夕食を摂らない日もある。栄子に聞くと「私も気になってるけどおんなの子の日だと思うわよ。」と楽天的に考えていた。何時しかそれに妥協する形になっていき気にすることもなくなった。
今日の診察はA棟B棟を纏めて診察することになった。年齢で分けることでコストを軽減しているがどちらかの医師が学会などの都合でお休みになることがある。その際は纏めて診察しなければならない。
最初の患者はホームヘルパーの女性に付き添われてきた認知症と精神障害を抱える後期高齢者だ。「こいつがわしの年金を盗んで何食わぬ顔で毎日来るんじゃ。警察に電話しても捕まえてくれん。わしが死んだらこいつに財産を全部取られる。先生から警察に言ってくれんか?」この患者にはせん妄もあり被害妄想がひどい。彼女に付いたヘルパーは次々と交代し、全員が介護を拒否しているとカルテにはあった。彼女にとっての現実は脳がイメージしている。そしてそれを体に指示し彼女にとって最適な動きとして言葉や動作を起こす。今の彼女の脳内は現実とは違うイメージが膨らみ、得てして人に不快感を与えているのだ。法的に言えばそれは彼女の考えとして受け止められ責任能力がないとはいえ責任の所在は彼女だ。だが、彼女の全てがせん妄や被害妄想に覆われているわけではない。彼女は年の割に視力がしっかりしている。眼球から取り込まれる映像は脳では捻じ曲げられているが、綺麗なものを見、素晴らしい景色を取り込んでいく。生きている間、心は常に洗われているのだ。
介護は身体を動かす重労働、食事介助は決して早くない本人のペースに合わせる根気や精神力を必要とする。しかし、人が人としてこの地球上で生き残っていくためにはお互いが助け合い共に生きていく努力をしなければ絶滅危惧種の二の舞いになって仕舞う。また、手を取り合って生きていくことそれが人間の人生であると狭川は思っている。
「わかりました。私の方からその旨伝えておきましょう。」そう狭川が伝えると彼女は憑き物が落ちたような優しい表情で「先生、有り難や。」と呟いた。狭川は付添のホームヘルパーに「お話を沢山してあげてください。」そう言うと二人を診察室から見送った。
別世界にいるような自分がある患者にできることは、介護の基本である「声掛け」だと伝えた。テレビやラジオ、電話など声を聞くことは容易い時代だ。しかし、生身の人の声には命が繋がるという人間が使える唯一の魔法がある。核家族化によって高齢者は社会から取り残される実情がある。他愛もない話を短い時間でも毎日聞くことができれば現実逃避する高齢者は少なくなるような気がしてならない狭川医師だった。今日は、静と平倉が診察に訪れた。二人が被ることはめったにない。操作しているわけでもないのだが来院日のチョイスが違うのだろう。しかも静は一週間早い診察となる。彼女にしては珍しい。
最初に山見静香が入室した。近況を一通り聞き、狭川の「いいですよ。」の言葉の後、静は椅子を立ち上がらずこう切出した。「一樹君のお墓は何処にあるのか先生は知ってらっしゃいますか?」唐突に質問され人物を特定することに戸惑った。「見那間一樹さんの事ですか?」「はい。」静は至って冷静に事を告げた。狭川は逡巡しお墓参りは亡き霊を慰む意味がある。故人に対しての哀悼を捧げることで彼女の希死念慮が浅はかな考えだと気づくこともあるかもしれない。そう思って「餞の詩墓地公園に眠っています。住職は優しい人ですから聞いて見るといいですよ。」そう教えた。静はいつもどおり丁寧な口調で礼を言い診察室を退出した。
次の患者の診察に少々時間がかかった。待ち時間の解消を患者側から要求されているが、診察室で何度も「今から私は死にます」と口にされては短い時間に対応することは難しい。その診察中待合室から大声が聴こえてきていた。平倉の声だった。まだ落ち着きを取り戻せていない彼は長い時間待つことができない。暴れれば隔離されるという恐怖心から声が自然と大きくなる。彼の苦しい気持ちは十分にわかる。
「平倉幹夫さんどうぞ。」宮毛看護師が諭すような優しい声音で平倉を診察室へ誘った。「すみません、平倉さんおまたせしました。」平倉は貧乏ゆすりが止まらないほど落ち着かない。「先生、俺、人を待たせているんだ。だから。」狭川は両親が車で送ってくれたのかと勘違いをした。「違うよ、静さんが俺を待っているんだよ。」狭川はインタビューから仲が良くなったのかと思った。「一樹の墓参りだよ。」山見静が聞いたのは自分の為だけではなかったようだ。「待ってるから薬の処方箋早くしてよ。」見那間一樹は亡くなったがこうして僅かの間しか付き合いのない人達にも惜しまれる存在となっていることに若いがゆえに惜しまれた。「見那間さんによろしくお伝えください。」と狭川は伝え薬局へ連絡し早く受け取れるよう手配した。
山見静と平倉幹夫が「餞の詩墓地公園」に到着したのはお昼を過ぎていた。「だから、早くしろって言ったんだ。お昼までに終わらせたかったのに。」平倉はまだ長い診察の人物を根に持っている。「平倉くん、落ち着いて。」静は彼の前を歩きながらお寺の住職を探した。お寺の横に住居を見つけインターフォンを鳴らす。引き戸が音もなく開くと長髪にカジュアルな服を着た中年男性が顔をのぞかせた。「我が寺に何か?お墓参りならば御自由にどうぞ。」住職の基本イメージを想像していた二人は面食らっていたが静が、「ご住職ですか?見那間一樹くんのお墓はどちらになりますでしょうか?」住職の男は「付いてきなさい。」と二人を一樹の墓前まで案内した。平倉は自分たち3人が歩いている姿は傍から見れば親に連れてこられた墓参りの家族に見えるだろうと思い、二人に悟られないようほくそ笑んだ。
「見那間君、先に逝っちゃったね。私も続くわ。でももう会えないね。だって見那間君は天国、私は地獄に落ちるから。」静の心の声をよそに平倉は「一樹、俺、静さんに告るよ。応援頼むな。」合わせる手のひらに込められた願いは互いにすれ違い見那間一樹の墓石には冷たい水滴が滴り落ちていた。。平倉は、平日施設を休んだ。「調子が悪い。」とだけB型施設に伝えた。特に反発もなく休みが取れる。一日の収入は500円に満たない日もある。それを考えれば無職と大差はない。
「ヨッシャぁ、静さんもオッケー。」山見静かとの初デートも自ら設定できた。「あとは告るだけだ。」昨日買ったばかりのウェアコーデに見を包み笑いながら歩くイメージを描く。「イメージングが大事だからな。」そう呟きながら静の待つ定番新宿アイランドタワー「LOVE」のオブジェ前へ向かう。「ちょと早すぎたなぁ。」約束時間の50分も前だ。然し、平倉には何でもないことだった。「病院の待ち時間なら絶対キレるな。」期待しているボッチ卒業の夢が叶う。彼の心音は赤く聳えるオブジェを揺るがすほどだった。「あと10分か。ちょっとトイレに行きたいな。」近くを見回したがタワー内しか見つけられなかった。「あと2分。やばい漏れそう。少しくらい待ってくれるよね。俺これだけ待ったんだから。」平倉は激しい動作をしないように急いでトイレに向かった。
平倉がさっぱりした顔で走ってオブジェ前に戻ってみるとさっきより人の数が増えていた。一人ひとり目を凝らし少々怪しい動作で静を探したが見つからない。平倉の不安は探す間から徐々に沸点を迎えていた。そしていないことがわかるとその場で「何で帰っちゃったんだ。」と奇声に似た声で叫んだ。周囲の人々は恐怖を感じ平倉の周りに近寄りがたい緊張感から空間が生じた。その場に座り込んだ平倉だったが遠くからパトカーのサイレンが聞こえ自分だとばかり駆け出した。走った、無我夢中で。静を追いかけている気がした。「静さん逃げないで。僕はおかしくない。頭がいいんだ。良すぎるだけなんだ。」行き着いた先は跨線橋の真ん中辺りだった。窓から静は真下に見えた。「静さん、待って。」平倉は窓ガラスを拳で割り身体に破片が刺さり傷つきながら15メートルを平然と飛んだ。線路の上に落ちた衝撃で肋骨を折り動けない。遠くから大きなオナラのような音が何度も響いた。静は平倉の横で添い寝してくれていた。「静さん、付き合ってください。」返事を待っているとこの世が消えた。
静はLOVEのオブジェの前にいた。「遅れたから嫌われたのかな。」諦めきれない気持ちを引きずりながら帰路についた。「最後にもう一度、誰かと付き合いたかったな。」彼女も平倉に「友達から」と伝えるつもりだった。見那間一樹を好きになった。お墓の前で別れを告げた。誰かに支えられたいと思っていた。平倉が彼女の最後の男となるはずだった。
人は人を好きになりまた、人は人と憎しみ合う。生物の中では下等な生き物だ。仲間を殺し自滅していく。共食いする虫けらのような生き物、それが人間。何時しか、絶滅の危機に瀕した時、人間は気付くのだろうか?人間が未来永劫生き残る術を。私はいつも死ぬことばかりを考えてた。でも死んだあとの私は何を頼りに過ごすのだろう。産まれてからの目的を達成した私には何が残ってるの?今度は生き返ること?人間にできる最大の行為は生と死しかないの?生を与えられ死を持って終焉したらその後人間にはなにもないの?一樹くんは何もない無体物になってるの?教えて一樹くん、私は死以上を求めてはだめなの?
山見静は生まれから今までずっと人間の最終局面の死を待っていた。それは現代が考える自殺念慮ではない。当たり前の終わりの先にあるもっと素晴らしい世界であり、創造し得ないものを彼女は夢見ていたのだ。だから早く死を迎えたかった。だから死に急いでいた。この腐れた世の中に身を置きたくなかった。生きている人間に求めるものはただの一つもなかった。
生と死は分断された世界だ。互いに分かり合える事はない。全ては産まれたときから決められた時間軸だ。その交わることのない時間軸に逝きたいと願うものが生きている世界にどれだけ居るかわからない。然し、多くの自殺者はこの死の時間の中で暮らしている。自殺念慮は生きて苦しい現実よりも死して見えない環境に自分の身を置きたい人々の強い願いから起こると山見静は考えている。孔子の言葉を思い出した。「吾、未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」「私も孔子と同じ。」静は自室を出て研究室に向かった。
狭川は今日もロードバイクを颯爽と走らせ病院に着いた。「狭川君、随分、体の線が細くなったねぇ。」鴨臥木院長が狭川がバイクにチェーンを付けている後ろから声をかけてきた。「いえ、まだまだ院長にはかないません。」狭川は本心からそう思っている。積み重ねた努力というものは若い身体であっても追い付くものではない。「今日も宜しくお願いします。」「頼むよ。頑張ってくれ給え。」鴨臥木院長がスタッフ入り口に入ると時間差を作った。ロッカールームでまたかち合うのを避けるためだ。嫌悪感があるわけでは毛頭ない。トップの人間と話すことは狭川にとってとても窮屈で息ができないほどなのだ。「時間はある。慌てることはない。」ゆっくりと仕事モードにチェンジしていった。
「畑中優深さんどうぞ。」宮毛恋奈は今までの看護師としては1番優秀だと狭川は思っている。患者への声掛け一つとっても馴れで仕事をしない。呼ぶ相手を熟知し、その日の様子に合わせ声の強弱や高さを変えている。「看護師になるかアーティストになるか迷いました。」と歓迎会の席で聞いていた。何のアートかと聞くと「歌です。作詞は今も続けています。」と言った。きっとそういった努力が彼女の感性を繊細なものにしたのだろうと狭川は思った。
診察室に入ってきた畑中優深は、23歳で、小学生の時からのリストカッターだ。彼女は今、適応指導教室に通っている。長袖を捲くればそこには彼女の苦しみが幾筋もの肉線となって残っている。彼女の表情はその傷を象徴するかのように生気を失い生きる事を既に手放しているようでもある。「教室へは週に何回通っていますか?」狭川の問いに「2日です。」申し訳無さそうにする畑中に狭川は「それだけ頑張れば疲れます。他の日はゆっくり休んでますか?」彼女は首を降った。シングルファーザーの父親に尻を叩かれハローワークに通っているという。「お父さんも畑中さんの苦しみが分かるのでしょう。仕事をして自分の楽しみをもっと増やしてほしいと思ってらっしゃるんだと思います。」彼女は頷いた。父親の気持ちは受け止めているという合図だ。「でも、無理だと思ったときにはお父さんでもいいし、この病院に協力できる人達がいますから相談に来てください。」そう言うと畑中優深は「有難う御座いました。」と帰っていった。
人間が人間のことを考える。其れは言葉では言い表せない深い感情を伴う。同じ生きている世界に居ても人間そのもの全てを知ることは本人さえも不可能な事だろう。欠けているピースを人と人が紡ぎ合わせるように生きていかなければこの世界は生き辛い世の中に感じるのではないだろうか?狭川は宮毛に次の患者を呼ぶよう指示した。
パスカルは言った。「人は誰ひとり死ぬるであろう。」と。山見静は、研究室で回想をしていた。小学校に入る直前にこの文章に出会った。低学年の間はただ周りとの違和感しか感じなかった。高学年でこの文章を理解した。詰まり誰もが同じ死というものを迎えるのだと。「私も皆んなも今はただ想像する世界で生きているだけ。其れが生。現実なのは死が必ず訪れるということ。」静にとってこの社会はパントマイムで動いている人間達がそれぞれの環境下で命を費やしているように思えていた。「死を恐れているから。」命を無くすことが現実ならば人間は死後に価値がある。そう思った。人と違うものは死んでからじゃないと手に入らない。「生きるなんて価値がない。」
静の心は健全さを失い病んでいた。平倉の死後、顕著に表情を無くし、狭川がどんな言葉で救おうとしても耳に届くことはなかった。再び山見静は棟丁病院に入院した。
「ここに居ると死生観を持つことができます。」静の入院後最初の診察で彼女はそう言った。「欲を無くし食べて寝て死んでいく。まるでこの世の中を要約したような生活。」狭川に打つ手は残っていない。病院に閉じ込めて自殺企図を防ぐ。やりたくない治療だが命には変えられない。1日の業務を終えても心配は続いた。真夜中でも出勤できる様に妻に起こすよう伝えている。
静はほとんど動作を起こさなくなった。看護師が「少し運動しましょうか、もう少し食べましょうか、おやつの買い物に行きましょうか?」と声掛けを行っても無気力に返事はない。「今回はちょっと重い症状だな。」狭川は回診時の山見静を診てそう判断した。「平倉君の一件が大きかったようだ。彼女は又失うものに迷わされてしまった。喪失度合いが大きすぎる。」念の為スタッフミーティング時に山見静の見守り強化を指示した。
1日が過ぎるたびに静は下を向いた生活をするようになっていった。あの何者も寄せ付け無い凛とした姿勢は影も形もなく重度の精神障害者によく見られるような両腕をだらりと下げ不安な表情でのそりと歩く。余りの変貌ぶりに狭川や他のスタッフも毎日が緊張状態だ。父親にも今は面会を断っている。3日目から隔離病棟へ移した。食事をほとんど口にせず仕方なく狭川は精神科の専門病院に彼女を預ける決心を固めた。
「死ぬことを否定するのは夢想家達だ。現実を直視できないでいるだけの弱い人間。私は私の夢を掴むために死ぬ。」精神科専門病院に移った静は隔離病棟へ入れられ普通であれば許される歯磨きやコップなどの生活用品も与えられず、食事も看護師に介助されることで箸やスプーン、食器類も実質持つことが許されなかった。徹底した自殺阻止が敢行された。24時間の監視体制も功を奏し彼女は少しずつ自殺に対する強い願望が薄らいでいった。狭川にも逐一連絡が入り安堵感を持てるまでに回復していった。
人間にとって幸福とは何か?一般に自分は幸福だと毎日思っている人間は少ないだろう。自分が如何に幸せかなど考える余地を探さなければ気が付かないでいる人ばかりだ。然しいくら幸せに思っていても人間のそばには死が居座っていることは誰しも頭の中にある。生と幸福は常に手を繋いでいる。然し死は一人で行う儀式だ。誰かと同じ肉体として死ぬことはできない。だから手を繋ごうにも繋がるものはないのである。死亡が確認された時点でその人は幸福を得ることが出来なくなる。山見静にも未だ気付かない幸せを彼女は経験し続けている。気付きは人間本来を知ることに繋がる。戦争、虐待、貧困。どんな状況下であっても生あるものは幸せと手を繋いでいるのだ。最後に一人となるまで幸せは常に自分の手の内にある。
「死んではいけない。幸せは生きている間にしかないんだ。」狭川は、祈りと願いを込めて山見静のことを思った。
平倉幹夫の葬儀が行われた。余りの事件のため家族葬となった。静は、事件を知り平倉の両親に懇願し葬儀に参列した。「貴方が山見さんね。幹夫がいつも言ってたわ、美人で頭のいいしっかりものだって。冗談だと思ってたけどホント綺麗なお嬢さんね。幹夫が、産まれて初めてのデートが貴方だって言って前の日眠れなかったみたい。そのせいもあったんでしょうね。ごめんなさい、あなたを責めてるわけではないのよ。」幹夫の母は大粒の涙を流していた。静はどうすることもできず只泣いている母親の姿を瞼の奥に焼き付けた。「あの日、モニュメントの前で奇声をあげていたと警察から聴いたんだけどどうしてか分からなくって。近くに居た人が、なんで帰ったんだとか何とか言ってたって。」静にはその意味が分かった。自分が遅刻したためにその場を離れていた幹夫が見当たらないと私が怒って帰ったのだとパニックを起こし奇声を発した。隔離されると思い走って逃げた。そしてなにかに吸い寄せられるように電車に。「私が遅刻しなかったら。私が幹夫くんと出会わなければ。私が生きてさえいなければよかったのに。」
12月24日、イヴの日に静は隔離病棟内でイチゴのショートケーキを眺めていた。「山見さん、今日はクリスマスイヴですから3時のおやつにショートケーキが出ました。メリークリスマス。」精神保健福祉士の環田がわざわざ彼女の元に運んできたのは、勿論、様子の観察であるが、父親の啓治が静に会いたがっていてそれを狭川に相談すると、「今はまだ難しい。」との返事を受け、啓治に自分が間に入ってお話を伝える案を啓治が了承したからだ。「静さん、お父さんが体はきつくないかと聞いてらっしゃいましたよ。此処は、狭いし、畳みだし、エチケットも無いですから精神的に参ったりすると思いますが、どうですか?」環田は、少しでも彼女と啓治の気持ちが寄り添えるように正確に伝えたいと思った。「あ、そうでしたね。。まずはショートケーキ食べましょう。」派手さのないシンプルなケーキだが、精神科病棟に出るおやつは患者にとってかけがえのない生きる糧になる。入院が長くなると変らない環境や景色により生きている事さへ見失ってしまう。そこから退院して次につなげようとする物は稀にしかいない。ここで、終焉すれば苦しまなくて済むからと退院を拒否する物も多く存在する。隔離病棟となると景色さへ見えない。鉄の扉と小さな覗き窓。死に体と言う言葉が嵌るような様子になる。然し、静は、未来を見ている。それは、人々が見る未来ではない。焼かれ骨となった後の未来。死は人間になにを齎すのか。死によって人間は新たな世界へと進むのか。
環田が、フォークを手にショートケーキの一部を掬い静の口へ持っていくが真一文字に閉じられた唇に今の彼女の強い意志が窺われた。「食べる事はもうしなくていい。私にはこの世の中の物すべてが無駄だから。」環田は、静の表情に負け、「それでは、お父さんのお話でもしましょう。お父さんは静さんがこの病院に入院してから、毎日、休む暇なく働いています。平日は仕事に出て帰れば家事全般。掃除、洗濯、買い物、料理、静さんの分も忘れずに作っててくださっています。今日も、どこで買ったのかはおっしゃいませんが、流行を追った静さんのお洋服を買って届けて頂きました。それから、静さんの通える研究室をいろんな大学に出向いて探しています。慶唐大学にも改めてお父さんが頼みに行ったみたいです。自治会にも参加して娘を見かけたら声を掛けて頂けるようにお願いしてるそうです。ほんとに、良いお父さんです。そのお父さんに何か、静さんから仰りたい事はありませんか?」静は表面上は無表情を崩さなかった。然し、彼女の内側にある純粋な自分が泣き叫んでいる。「何故、泣くの。私は死ぬ事が出来れば良い人生なの。お父さんには謝っても謝っても足りないくらい迷惑ばかりかけた。でも、お父さんは、お母さんも私も最初からいないと思えば誰か違う人と暮らす事が出来る。私が今いる事がお父さんの足かせになっている。だから、泣かなくていいの。お父さんは幸せになるんだから。」彼女の思いとは裏腹に環田は、「状態が悪いようだ。」と判断した。
精神障害者を扱う人々によくある「状態が悪い。」の言葉は、慎重さを要する。一般の健常者にある怒りや嫉みを精神障害者を診る側は、勘違いし精神病だからだと判断する時がある。その人が精神障害者と分からず健常者と思って接している人はたとえ起こったりしていてもキレている。と判断し、障害者だと状態と言葉を変える。キレたり起こったりするのは精神障害者の専売特許と捉えている間違った考えの健常者がこの世の中には多い。偏見と言う重い罪が掛る事を診る側は気付いて上げなければならない。差別のない世の中にしていくことが人間としてやるべきことの骨とならねば、人権問題や貧富の問題は解決どころか悪くなるに違いない。ノーマライゼイションは国の施策ではない。人間が自分と言う人間を知る為の学問である。とても高難度の勉強だ。
鉄扉を閉じた環田は得る物がなかったように思い、山見啓治に頭を下げる事を考えた。 人に人の心は見えない。それでも、理解し合おうとするのならば、まず、この世界に偏見がなくなりすべての人間が平等である事が前提だ。全ての人が同じ環境下で同じ物を目指し、同じ物を得、同じ物を食う。ロボットは人間の理想像だ。無機質と言う言葉が使われやすいが、人間の作る物はそれぞれ人間の一部を使う。競争しても感情は入れない。そうすることで争いがないのだ。紛争は、人間の持ち味である間違いから起こる。そして多く人の命が失われる。生きている間ずっと人は間違って生活する。修正力はあるが、矢張り新たに間違いを生む。その世界に静は絶望していった。だから、彼女はこの世界の物を口にしない。「生死の境を越えるまで私は、苦しみを我慢する。きっと境界を越えた先に私が描く夢がある。そう信じてる。」
「誰か、担架を。」隔離病棟担当看護師の声が響く。「山見さん、しっかりして。」山見静は、食事を摂らずついに動けなくなった。「心音が薄れてきてる。内科の九雀先生のところへ。」狭川は尋常でない栄養失調の静をこの病院の内科医に診てもらうことにした。
「これは酷い。何日食べなかった。」九雀医師は聴診器に微かに聞こえる心臓の動きを確認しながら彼女の身体が骨しか無いような状態になっている原因を狭川に聞いた。「看護師の話では5日は経つらしい。胃瘻を試みたが目を話すと勝手に外してしまい、衛生面から諦めざるを得なかった。」実際彼女の身体にある胃瘻チューブ痕は黒く変色していた。
「しばらくこっちで預かろう。」九雀医師は内科の集中治療室に彼女を置くように配慮してくれた。管を通し、両腕と身体を柔らかいベルトで傷つけないよう動けなくした。拘束は人権侵害に当たるが彼女の命を延命するための手段として、院長が許可をした。一日中誰かの視線があるようにし、看護師などスタッフ全員で彼女を守った。しかし、引き抜いた管の痕からウイルス感染症を起こし彼女の様態は刻一刻と死を刻んでいった。
「もってあと3日だ。」九雀医師は、狭川に余命宣告をした。狭川は、内科へ移動した日に駆けつけていた父親啓治に九雀医師の言葉を伝えた。父親は泣き止まない赤ちゃんのように悲しみ続けた。「どうして静が。どうして私じゃないんだ。静、俺を捨てないでくれ。何時までも私の子でいてくれ。厭だ。もう人を無くすのは嫌だ。」狭川にはかける言葉が見つからなかった。
山見静は狭川にとっても医師のキャリアに大きな経験を齎した。「死ぬことを忘れない女性」最初は否定的だった。そんな人間がいるはずがないと思った。しかし、彼女の行動は常に死にたいことを示していた。彼女は自分の待望する死へ近付いた。彼女にとってこの世の中はそんなに嫌なものだったのか?生きるとは幸せを伴うものであるはず。然し、彼女にとっての生は死を達成できないもどかしいものだったのか?生きたいと死にたくないと思わないのか?狭川は彼女に対して生きる事を教えられなかったもどかしさが心の中を這い回っているような気分だった。
静が狭川と話したいと希望していることを宮毛看護師が伝えに来た。急いで集中治療室に向かった。静は化粧をしてもらったらしく元気な頃と見間違えるほどだった。「先生、有難う御座いました。」狭川は黙って頷いた。「私は小さな頃から死の後に訪れる世の中の事を創造していました。でもどうやっても今の世界にしかならないんです。そこには認識がないからです。経験もない。だから今の自分が創造しても映像として浮かんでこない。現実に目を瞑って生きてきました。それが死後も続くのかも知れない。でも私には死後の世界は私の生きるべき世界だと思えています。先生、気になさらないで。人には生きる資格と死ぬ権利があります。私は、権利を行使したいと思っています。生きてきた人生に罪になるような事物はありません。でも、ずっと私の脳裏には、死ぬ事の方が明るく感じてきたのです。新しい世界では生きて幸せを掴もうと思っています。さよなら、狭川真二郎先生。有難う。」その30分後、山見静はこの世を去り自分の大好きな新しい世界に生まれ出た。
狭川のいる世界に嫌気が差す事は毎日のことだ。若者はゲームの世界に自分の居場所を見つけている。現実がいいのか悪いのか其れは本人が決めることだ。自殺者を減らそうとするその根拠の一つとして幸せがある。誰にもある幸せは、人間によって死である可能性もあるだろう。未だ見ぬ死後に一縷の望みをかける人たち。自殺念慮は彼らそして彼女らの希望であることは間違いない。狭川は、山見静の死を受け入れ幸せになれるよう祈った。
完
生死の境 武内明人 @kagakujyoutatu
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