第二十六話 森のトレント

「街道を進めば敵に見つかる……森を抜けるしかない」

ロンデールの低い声に、私は思わず息を呑んだ。


馬車を降り、私たちは徒歩で森へと足を踏み入れる。

昼過ぎだというのに木々は頭上をすっかり覆い、光はほとんど届かない。

湿った土の匂いが鼻を刺し、どこかで名も知らぬ鳥の鳴き声が短く響いた。

鳥も虫も声を潜め、不気味な静けさが広がっている。


「ちょっとした冒険気分じゃない」

サリィが呑気に笑うが、私は胃を押さえながら周囲を警戒していた。


「……なにか、います」


アリシアが眼帯を外し、青い大きな瞳で辺りを見渡す。

その瞬間、木々の間から不気味な気配がぞわりと広がった。


「囲まれています……!」


「まさか、追っ手か!?」

ロンデールが剣に手をかける。


「いえ……これは樹の魔物、トレント・スプラウトです!」


次の瞬間、地面が盛り上がり、幹のような腕が襲いかかってきた。

木の根がのたうち、落ち葉と土煙が舞い上がる。

湿った腐葉土の匂いがむっと立ちこめ、枝が砕ける音が耳を刺す。


「道を作る! 中央突破するぞ!」

「アリシアは殿下を頼む!」


ロンデールが叫び、剣を抜いた。


剣閃が走り、一本のトレントがまっぷたつに裂ける。

木屑が飛び散り、地響きが森に轟いた。


アリシアも前へ飛び出し、拳を突き上げる。

ごうっ!と風を切る音と共に、拳がトレントの胴を粉砕した。


「はああっ!!」


飛び散る木片の中、彼女は一歩も引かず構えを崩さない。


「すごい……」


思わず見とれてしまった。

私たちは馬の手綱を引きながらアリシアの後ろをついていく。


──そのとき、アリシアの脇を抜けて一本のツタが飛んできた。


「しまった!?」


アリシアが振り向くより早く、あっという間に殿下の足へ絡みつく。


「う、うわあああ!?」


「殿下!!」


「任せて!」

サリィがワイン瓶を抜き取り、ツタにざばっと浴びせた。

アルコールを吸った木の表皮がじゅうっと泡立ち、黒く腐り落ちていく。

(戦場でもワイン……! 発想の方向性が斜め上すぎる……!)


私は殿下の腕をつかみ、必死に引き上げる。

「しっかりしてください、男の子でしょ!」


「ひ、ひぃ……!」

腰を抜かした殿下は情けない声をあげたが、それでも私の手を強く握り返してきた。



激闘の末、どうにか縄張りを突破した。


「ふう……やっと抜けた」

荒い息をつき、森の出口を見据えた。


ハッと左手に違和感を覚える。

気づけば殿下と手を繋いだままだった。


「す、すみません殿下……」

パッと手を離す。


「いや……」

照れくさそうにする殿下がぽつりと呟く。


「……ありがとう」


小さな声だった。でも、確かに届いた。

あの生意気な口調の奥に、年相応の震えがあった気がした。


「い、いえ。お怪我がなくてよかったです」

私は慌てて笑顔を作る。


殿下は一瞬だけ視線を逸らし、つぶやく。

「……怖くなんてなかったぞ」


(強がっちゃって……)


もうすぐ日が落ちる。

夕日に照らされた殿下の顔は、わずかに赤みを帯びていた気がした。


すぐ近くに小さな村が見える。

「今日はあそこで休もう」


ロンデールが剣を収めてそう告げた。


そのとき、姉さんが膝をつき項垂れているのに気付いた。

まさか……どこか怪我をしたのだろうか。


「姉さん、大丈夫……?」

私とアリシアが駆け寄る。


「貴重なワインが……」


うん、心配するだけ無駄だった。



その頃、留守番の宿屋リングベルでは──。


「……空いてるぞ。好きな部屋を使え」


ハマーの無愛想な声に、初めて来た客が思わずたじろぐ。


「はーい、これをあそこのテーブルにお願いね〜♪」


ミレーネが手をひらひらさせると、ちびインプがよちよち料理を運ぶ。


「ぶっ!?」


常連客でさえ思わずスープを噴き出した。


すかさずお掃除スライムが床をぴかぴかに磨く。

妖精たちはシーツをぱたぱた運んでいく。


「おい、ミレーネ! 本当に大丈夫なんだろうな!?」


常連客が顔を青くして叫ぶ。


「だいじょ〜ぶよ〜♪ たぶんね〜」


ミレーネは悪びれもせず笑った。


「……たぶん!?」


客たちのツッコミが飛び交う中、宿屋リングベルはどうにか回っている“らしい”。

――その笑い声が、遠い街道まで届くことはなかったけれど。

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次の更新予定

2025年12月13日 20:00
2025年12月16日 20:00

ホリィとサリィの宿屋リングベル繁盛記 〜酒豪姉と苦労性妹、訳あり客と事件に囲まれながら今日も営業中〜 久遠まこと @kuonmakoto

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