第二十四話 殿下と小さな休憩

夜明けの光が街道を照らし始めた。

馬車の中は疲労と眠気でぐったりとした空気が漂っている。


私は座席の揺れに合わせて胃を押さえた。

(……もう限界……胃がキリキリする……)


サリィはといえば、いつの間にかワインを口にしてそのまま寝落ちしていた。

アリシアは背筋を伸ばしたままウトウトしている。


そして殿下は──。

パンをちびちびかじり、今にも目を閉じそうになっていた。

まだ十二歳の子どもだ、無理もない。



「……ひとまず、追っ手の気配はない」

御者台から声が降ってくる。

ロンデールの視線は依然として険しい。


「だが油断は禁物だ」


「……はい」

思わず姿勢を正して返事をしてしまう。



そんなとき、殿下がもじもじと落ち着かない様子を見せた。


「……あの」


「どうしました?」


「……ト、トイレに……」


馬車の中がしん、と静まり返った。


「え、今ここで!?」

思わず声が裏返る。


「誰か付き添わないと」

アリシアが不安そうに口にする。


「お、お前は嫌だ!」

殿下が顔を真っ赤にして叫んだ。

一ツ目を見て気絶した件を、まだ引きずっているようだ。


「じゃあ私たちしか」


「いないですよね……」


そう言った私に、殿下が指を突きつける。


「そんな、我と同い年くらいのチビ女に見られるなんて屈辱! 耐えられん!」


「はあっ!? 私十六歳なんですけど!?」

思わず殿下に詰め寄ってしまった。


落ち着け……相手は十二歳の子どもだ。


「じゃあ私しかいないけど」

サリィが空のワインボトルをフリフリする。


「ここでこれにしちゃえば?」


「できるかーっ!!」


その騒ぎに、御者台のロンデールが荷台を覗き込んだ。


「殿下、私が付き添いましょう」


そう言って馬を止め、二人して馬車のすぐそばの木を選び、並んで用を足していた。


「いや、もうちょい遠くでしてよ……」

サリィが呆れ顔を見せる。


「……それにしても男は楽でいいわよね」


「まったくです……」


私は頭を抱え、アリシアも真っ赤になってうつむいていた。



日中の休憩。

林の木陰に腰を下ろし、簡単な食事をとることになった。


アリシアが取り出したのは小さな布包み。


「よかったら、これ……。携帯用に作ってきたんです」


中には握り飯がいくつか並んでいた。

殿下は一瞬警戒するように眉を寄せたが……おそるおそる一口かじった。


「……!! う、うまい!」


目を輝かせ、次々と頬張り始める。


「おにぎり、です」

「おにぎり……?」

「はい。手で握ったので、ちょっと形が歪ですけど……」


「いや、これがいい。なんか、あったかい」

殿下はもぐもぐと噛みしめ、ふっと頬を緩めた。


「母上の料理以来かも……」

ぽつりと漏れた一言に、その場の空気がふっと静まり返った。


アリシアは照れくさそうに微笑み、

サリィもいつになく優しい目で殿下を見つめ、

「よかったじゃない」と、そっと笑った。


私は小さく息をついた。

(……やっと、ちゃんと笑った)

(でも食べ物で釣られるなんて、やっぱりまだ子どもですね)


その笑顔を見て、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。



昼食を終えると、再び馬車が軋みを上げて動き出す。

林を抜け、丘を越え、遠くに霞む山並みが見え始めた。


冷たい風が頬を撫で、馬の足音と車輪の音が静かな街道に溶けていく。

ふと空を見上げると、白い鳥の群れが円を描いていた。


アリシアは窓の外を見つめ、サリィは軽く鼻歌を口ずさんでいた。

一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、日常が戻ってきた気がした。


(……こんな穏やかな時間が、もう少し続けばいいのに)


そう思った瞬間、ロンデールの声が前方から響いた。


「通行証は偽名で用意してある。だが──役人の中にも裏切り者がいるやもしれん」


馬車の中に緊張が走る。

空気が再び、張りつめた。


こうして私たちは、新たな不安を胸に、関所へと近づいていった。


馬車の車輪が砂利を踏む音だけが、静かに街道に響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る