第二十四話 殿下と小さな休憩
夜明けの光が街道を照らし始めた。
馬車の中は疲労と眠気でぐったりとした空気が漂っている。
私は座席の揺れに合わせて胃を押さえた。
(……もう限界……胃がキリキリする……)
サリィはといえば、いつの間にかワインを口にしてそのまま寝落ちしていた。
アリシアは背筋を伸ばしたままウトウトしている。
そして殿下は──。
パンをちびちびかじり、今にも目を閉じそうになっていた。
まだ十二歳の子どもだ、無理もない。
◇
「……ひとまず、追っ手の気配はない」
御者台から声が降ってくる。
ロンデールの視線は依然として険しい。
「だが油断は禁物だ」
「……はい」
思わず姿勢を正して返事をしてしまう。
◇
そんなとき、殿下がもじもじと落ち着かない様子を見せた。
「……あの」
「どうしました?」
「……ト、トイレに……」
馬車の中がしん、と静まり返った。
「え、今ここで!?」
思わず声が裏返る。
「誰か付き添わないと」
アリシアが不安そうに口にする。
「お、お前は嫌だ!」
殿下が顔を真っ赤にして叫んだ。
一ツ目を見て気絶した件を、まだ引きずっているようだ。
「じゃあ私たちしか」
「いないですよね……」
そう言った私に、殿下が指を突きつける。
「そんな、我と同い年くらいのチビ女に見られるなんて屈辱! 耐えられん!」
「はあっ!? 私十六歳なんですけど!?」
思わず殿下に詰め寄ってしまった。
落ち着け……相手は十二歳の子どもだ。
「じゃあ私しかいないけど」
サリィが空のワインボトルをフリフリする。
「ここでこれにしちゃえば?」
「できるかーっ!!」
その騒ぎに、御者台のロンデールが荷台を覗き込んだ。
「殿下、私が付き添いましょう」
そう言って馬を止め、二人して馬車のすぐそばの木を選び、並んで用を足していた。
「いや、もうちょい遠くでしてよ……」
サリィが呆れ顔を見せる。
「……それにしても男は楽でいいわよね」
「まったくです……」
私は頭を抱え、アリシアも真っ赤になってうつむいていた。
◇
日中の休憩。
林の木陰に腰を下ろし、簡単な食事をとることになった。
アリシアが取り出したのは小さな布包み。
「よかったら、これ……。携帯用に作ってきたんです」
中には握り飯がいくつか並んでいた。
殿下は一瞬警戒するように眉を寄せたが……おそるおそる一口かじった。
「……!! う、うまい!」
目を輝かせ、次々と頬張り始める。
「おにぎり、です」
「おにぎり……?」
「はい。手で握ったので、ちょっと形が歪ですけど……」
「いや、これがいい。なんか、あったかい」
殿下はもぐもぐと噛みしめ、ふっと頬を緩めた。
「母上の料理以来かも……」
ぽつりと漏れた一言に、その場の空気がふっと静まり返った。
アリシアは照れくさそうに微笑み、
サリィもいつになく優しい目で殿下を見つめ、
「よかったじゃない」と、そっと笑った。
私は小さく息をついた。
(……やっと、ちゃんと笑った)
(でも食べ物で釣られるなんて、やっぱりまだ子どもですね)
その笑顔を見て、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。
◇
昼食を終えると、再び馬車が軋みを上げて動き出す。
林を抜け、丘を越え、遠くに霞む山並みが見え始めた。
冷たい風が頬を撫で、馬の足音と車輪の音が静かな街道に溶けていく。
ふと空を見上げると、白い鳥の群れが円を描いていた。
アリシアは窓の外を見つめ、サリィは軽く鼻歌を口ずさんでいた。
一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、日常が戻ってきた気がした。
(……こんな穏やかな時間が、もう少し続けばいいのに)
そう思った瞬間、ロンデールの声が前方から響いた。
「通行証は偽名で用意してある。だが──役人の中にも裏切り者がいるやもしれん」
馬車の中に緊張が走る。
空気が再び、張りつめた。
こうして私たちは、新たな不安を胸に、関所へと近づいていった。
馬車の車輪が砂利を踏む音だけが、静かに街道に響いていた。
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