二章 アリシア編
第一五話 一ツ目少女、現る
「ビーフシチューのいい匂い……」
昼下がり、宿の扉がそっと開く。
立っていたのは、顔の上半分を覆うほど大きな黒い眼帯をつけた長身の少女だった。
淡い水色の髪が肩口で揺れ、制服のような黒いワンピースに細い脚。
だが足取りはふらふらで、今にも倒れそうだ。
「おなか……すいた……」
空腹に耐えかねてきたのだろう。
私とサリィが目を合わせるより早く、少女はカウンターに崩れ落ちた。
◇
数分後。
テーブルに運んだ熱々のシチューを一口すすると、少女は天を見上げ――
「……おいひい……こんなの、初めて……!」
夢中でパンをちぎり、皿をぴかぴかにして、さらには追加まで平らげてしまう。
パンの欠片を頬につけたまま必死に食べ続ける姿に、思わず口元がゆるむ。
「すごい食べっぷりね……」
サリィが呆れ半分に笑う。
「よっぽどお腹が空いてたんですね」
やがて、ひと息ついた少女は背筋をぴんと伸ばし、ぺこりと頭を下げた。
「……わ、私……アリシアといいます。十八歳……いま、求職中で……」
真っ直ぐな声に一瞬空気が和らいだ、その直後だった。
「えっと……お金を……」
少女は腰のポーチを探り、顔を青くする。
「……ない……? どうして……」
「そういえば……空腹でふらふら歩いてたとき、道で誰かにぶつかって……
まさか、あのとき……?」
アリシアが小さくつぶやき、青ざめる。
道中でぶつかった男にすられたのだろう。
サリィは腕を組み、にやっと笑う。
「じゃあ数日働いてもらいましょ。ね、ホリィ」
「ええっ!? 眼帯で前も見えない子を!?」
「大丈夫大丈夫。宿は人手不足だし、こういう出会いは運命よ!」
「私……少しだけですけど、メイドの経験もあります! よろしくお願いします!」
目が見えているのか気になって仕方がなかったが、
まあ本人も乗り気みたいだし……。
ひとまず姉さんの提案を受け入れることにした。
◇
案の定だった。
「きゃっ!」
料理を運んでいて、テーブルの脚にぶつかり、皿を派手に落とす。
「ごごごごめんなさいっ!」
慌てて拾おうとしてさらにスプーンを転がし、他のお客の足元にカラン、と転がった音が響く。
「あっはは、元気だね嬢ちゃん!」
気のいい常連客が笑い飛ばしてくれたが、私は胃を押さえずにいられなかった。
廊下を歩けば壁に肩をぶつけてよろけ、
「ごめんなさい! 見えてなくて!」と必死に頭を下げる。
「……あっ、壁でした」
「やっぱり無理ですって……」
「ま、まあまあ。きっと緊張してるだけよ」
「迷惑ばかりかけてすみません……」
しゅんと肩を落とすアリシア。
「ドンマイ、ドンマイ♪ 落ち着いてゆっくりやればいいから、ね?」
サリィはアリシアの肩にポン、と手を乗せる。
「はいっ!」
前向きで真面目そうな子だ。そこは少し安心……。
◇
夜。
多少のミスはあったが、大きなトラブルもなく時間が過ぎていった。
片付けの手を止めた瞬間、広間から怒鳴り声が響く。
「おい! 料理に虫が入ってたぞ!」
「こんな宿に金なんて払えるか!」
三人組の酔っ払い客が、食べ終えた皿を突き出している。
中にはほんの少しだけ残ったシチューと、その上に浮かぶ虫。
煮込まれた形跡はなく、皿の縁にべたりと張りついている。
ワインの瓶はすでに空で、皿の底までスプーンで削った跡が残っていた。
「……っ、本当に申し訳ありません……!」
思わず私は頭を下げかけた。だがサリィが横からひょいと口を挟む。
「ちょっと待ってよ。こんなに食べておいて“虫がいた”は無理あるんじゃない?」
「それに、この虫……煮込まれた感じがしない。どう見ても後から入れたでしょ」
三人は顔を見合わせ、動揺を隠すように声を荒げた。
「い、いや確かに最初からいたんだ!」
「俺も見た!」
「虫が浮いてた!」
と口々にまくし立てる。
そのとき――。
「……嘘です」
少女――アリシアが静かに黒い眼帯へ手を伸ばした。
布が外され、長い前髪の奥から――
ひとつだけ、大きな蒼い瞳が露わになる。
「ひっ……!」
思わず私は声を飲み、サリィもグラスを落としそうになる。
それはそうだ。
顔の中心にあるのは、大きな目が一つ。
ぞっとするほど異質で――けれど、吸い込まれるように澄んで美しい瞳だった。
広間にいた客たちもざわめき、三人組の酔客は青ざめて後ずさった。
「……な、なんだその目……!」
「化け物……!」
けれどアリシアは揺らぐことなく、その一ツ目で彼らを見据えた。
「三人とも、黒い靄が出ています。嘘をついたとき、心の奥から広がるんです」
彼女の声は震えていない。
その神秘的な眼差しに、酔客たちの顔が一斉に引きつる。
「ば、ばかなことを……!」
「化け物め!!」
逆ギレして掴みかかろうとした瞬間――。
「っ……!」
アリシアが一歩前に出て、掴みかかってきた二人の腕を軽々と押さえつけた。
ぐぐっと床が鳴り、動けなくなった二人が苦悶の声を漏らす。
残る一人を睨みつけるその一ツ目が、静かに光を宿した。
華奢な体とは思えない力強さと、その目の圧に――広間が息を呑む。
「この人たちは、お金を払いたくなくて嘘をついただけです」
静かな声が響き、三人は真っ青になって縮み上がる。
サリィがにやっと笑う。
「はいはい、出禁。ホリィ、扉開けて」
「は、はいっ!」
アリシアはそのまま三人を追い立て、外へ放り出した。
扉がドンッと鳴り、残っていた客たちは拍手喝采。
◇
「……採用!」
サリィが酒瓶を掲げて宣言する。
「はい決まり! 従業員兼用心棒、ここに爆誕!!」
「ちょ、ちょっと姉さん! 勝手に決めないでください!」
「いいじゃない。面白いし」
「……まあ、一ツ目には正直びっくりしましたけど……」
私は深くため息をついた。
「でも、アリシアのおかげで無銭飲食を防げたのも事実ですし……」
頭を抱えながらも、あの真っ直ぐな瞳と、不器用な笑顔を思い出す。
もう追い出せるわけがない。
アリシアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、真剣な声で言った。
「……ちょうど求職中でしたし、ここで働けるなら本当にうれしいです。
それに、常連さんたち……皆さん温かくて……だから──」
「私……精一杯がんばります!!」
そのあと、ふっと表情を曇らせた。
「でも……その……怖くないんですか?
私、この目のせいで、すぐ仕事をクビになっちゃって……」
「そいつらは見る目がなかったのよ!」
サリィがすぐさまアリシアの目を指さし、力強く言い放つ。
「……姉さん、それが言いたかっただけでは?」
「違うわよ。本気でそう思ってる。
私たちの宿のために危険を冒してくれた。いい子よ、大丈夫」
アリシアは小さくうなずき、ぎこちなく笑った。
私も仕方なく肩をすくめる。
「……姉さんがそう言うなら」
こうして訳ありの仲間が宿屋リングベルに加わった。
頼もしいけど……これからどうなるんだろう?
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