二章 アリシア編

第一五話 一ツ目少女、現る

「ビーフシチューのいい匂い……」


昼下がり、宿の扉がそっと開く。

立っていたのは、顔の上半分を覆うほど大きな黒い眼帯をつけた長身の少女だった。

淡い水色の髪が肩口で揺れ、制服のような黒いワンピースに細い脚。

だが足取りはふらふらで、今にも倒れそうだ。


「おなか……すいた……」


空腹に耐えかねてきたのだろう。

私とサリィが目を合わせるより早く、少女はカウンターに崩れ落ちた。



数分後。

テーブルに運んだ熱々のシチューを一口すすると、少女は天を見上げ――


「……おいひい……こんなの、初めて……!」


夢中でパンをちぎり、皿をぴかぴかにして、さらには追加まで平らげてしまう。

パンの欠片を頬につけたまま必死に食べ続ける姿に、思わず口元がゆるむ。


「すごい食べっぷりね……」

サリィが呆れ半分に笑う。


「よっぽどお腹が空いてたんですね」


やがて、ひと息ついた少女は背筋をぴんと伸ばし、ぺこりと頭を下げた。


「……わ、私……アリシアといいます。十八歳……いま、求職中で……」


真っ直ぐな声に一瞬空気が和らいだ、その直後だった。


「えっと……お金を……」

少女は腰のポーチを探り、顔を青くする。


「……ない……? どうして……」


「そういえば……空腹でふらふら歩いてたとき、道で誰かにぶつかって……

まさか、あのとき……?」

アリシアが小さくつぶやき、青ざめる。


道中でぶつかった男にすられたのだろう。

サリィは腕を組み、にやっと笑う。


「じゃあ数日働いてもらいましょ。ね、ホリィ」


「ええっ!? 眼帯で前も見えない子を!?」


「大丈夫大丈夫。宿は人手不足だし、こういう出会いは運命よ!」


「私……少しだけですけど、メイドの経験もあります! よろしくお願いします!」


目が見えているのか気になって仕方がなかったが、

まあ本人も乗り気みたいだし……。

ひとまず姉さんの提案を受け入れることにした。



案の定だった。


「きゃっ!」

料理を運んでいて、テーブルの脚にぶつかり、皿を派手に落とす。


「ごごごごめんなさいっ!」

慌てて拾おうとしてさらにスプーンを転がし、他のお客の足元にカラン、と転がった音が響く。


「あっはは、元気だね嬢ちゃん!」

気のいい常連客が笑い飛ばしてくれたが、私は胃を押さえずにいられなかった。


廊下を歩けば壁に肩をぶつけてよろけ、

「ごめんなさい! 見えてなくて!」と必死に頭を下げる。

「……あっ、壁でした」


「やっぱり無理ですって……」


「ま、まあまあ。きっと緊張してるだけよ」


「迷惑ばかりかけてすみません……」

しゅんと肩を落とすアリシア。


「ドンマイ、ドンマイ♪ 落ち着いてゆっくりやればいいから、ね?」

サリィはアリシアの肩にポン、と手を乗せる。


「はいっ!」


前向きで真面目そうな子だ。そこは少し安心……。



夜。

多少のミスはあったが、大きなトラブルもなく時間が過ぎていった。


片付けの手を止めた瞬間、広間から怒鳴り声が響く。


「おい! 料理に虫が入ってたぞ!」


「こんな宿に金なんて払えるか!」


三人組の酔っ払い客が、食べ終えた皿を突き出している。

中にはほんの少しだけ残ったシチューと、その上に浮かぶ虫。

煮込まれた形跡はなく、皿の縁にべたりと張りついている。

ワインの瓶はすでに空で、皿の底までスプーンで削った跡が残っていた。


「……っ、本当に申し訳ありません……!」

思わず私は頭を下げかけた。だがサリィが横からひょいと口を挟む。


「ちょっと待ってよ。こんなに食べておいて“虫がいた”は無理あるんじゃない?」


「それに、この虫……煮込まれた感じがしない。どう見ても後から入れたでしょ」


三人は顔を見合わせ、動揺を隠すように声を荒げた。


「い、いや確かに最初からいたんだ!」

「俺も見た!」

「虫が浮いてた!」


と口々にまくし立てる。


そのとき――。


「……嘘です」


少女――アリシアが静かに黒い眼帯へ手を伸ばした。

布が外され、長い前髪の奥から――


ひとつだけ、大きな蒼い瞳が露わになる。


「ひっ……!」

思わず私は声を飲み、サリィもグラスを落としそうになる。


それはそうだ。


顔の中心にあるのは、大きな目が一つ。


ぞっとするほど異質で――けれど、吸い込まれるように澄んで美しい瞳だった。


広間にいた客たちもざわめき、三人組の酔客は青ざめて後ずさった。


「……な、なんだその目……!」


「化け物……!」


けれどアリシアは揺らぐことなく、その一ツ目で彼らを見据えた。


「三人とも、黒い靄が出ています。嘘をついたとき、心の奥から広がるんです」


彼女の声は震えていない。

その神秘的な眼差しに、酔客たちの顔が一斉に引きつる。


「ば、ばかなことを……!」


「化け物め!!」


逆ギレして掴みかかろうとした瞬間――。


「っ……!」

アリシアが一歩前に出て、掴みかかってきた二人の腕を軽々と押さえつけた。

ぐぐっと床が鳴り、動けなくなった二人が苦悶の声を漏らす。

残る一人を睨みつけるその一ツ目が、静かに光を宿した。


華奢な体とは思えない力強さと、その目の圧に――広間が息を呑む。


「この人たちは、お金を払いたくなくて嘘をついただけです」


静かな声が響き、三人は真っ青になって縮み上がる。


サリィがにやっと笑う。


「はいはい、出禁。ホリィ、扉開けて」


「は、はいっ!」


アリシアはそのまま三人を追い立て、外へ放り出した。

扉がドンッと鳴り、残っていた客たちは拍手喝采。



「……採用!」

サリィが酒瓶を掲げて宣言する。


「はい決まり! 従業員兼用心棒、ここに爆誕!!」


「ちょ、ちょっと姉さん! 勝手に決めないでください!」


「いいじゃない。面白いし」


「……まあ、一ツ目には正直びっくりしましたけど……」

私は深くため息をついた。


「でも、アリシアのおかげで無銭飲食を防げたのも事実ですし……」


頭を抱えながらも、あの真っ直ぐな瞳と、不器用な笑顔を思い出す。

もう追い出せるわけがない。


アリシアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、真剣な声で言った。


「……ちょうど求職中でしたし、ここで働けるなら本当にうれしいです。

 それに、常連さんたち……皆さん温かくて……だから──」


「私……精一杯がんばります!!」


そのあと、ふっと表情を曇らせた。


「でも……その……怖くないんですか?

 私、この目のせいで、すぐ仕事をクビになっちゃって……」


「そいつらは見る目がなかったのよ!」

サリィがすぐさまアリシアの目を指さし、力強く言い放つ。


「……姉さん、それが言いたかっただけでは?」


「違うわよ。本気でそう思ってる。

 私たちの宿のために危険を冒してくれた。いい子よ、大丈夫」


アリシアは小さくうなずき、ぎこちなく笑った。

私も仕方なく肩をすくめる。


「……姉さんがそう言うなら」


こうして訳ありの仲間が宿屋リングベルに加わった。


頼もしいけど……これからどうなるんだろう?

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