第三話 魔物使いの客

「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか?」


扉を押し開けて入ってきたのは、一人の女性だった。

腰まで届く淡い金髪を三つ編みにし、柔らかな笑みを浮かべている。

名をミレーネというらしい。


身にまとう深緑のローブには金糸の刺繍がきらりと光り、動くたびにふわりと揺れた。その姿は、ちょっとした貴族の奥方と見紛うほどだ。


「ええ、少し長期になりますけど……」

声は落ち着いていて、聞くだけで体の力が抜けるような響きがあった。


その足元から、もふっと何か白いものが転がり出る。

雪玉みたいに真っ白で、ふわふわした小動物。尻尾がぶんぶん振り回されている。


「モモ」と呼ばれたその子は、初対面の私にまで尻尾を振ってきた。

おまけに「キュルッ」と鳴いて、足にすり寄ってくる。

……かわいい。けど爪、ちょっと鋭いんですけど。


「探し物をしていてね。街で情報を集めながら滞在したいの」


「そうなんですね……。その子は?」


「私と契約している子よ。魔力に同調しているの」


「大丈夫。すぐゴロゴロする子だから」


言葉どおり、モモは私の足にすり寄って「ごろごろ」。

……ほんとにゴロゴロ言った。魔物というより、ただのペットじゃない?



客の対応を終え、私は廊下をモップがけしていた。私は一階、姉は二階の担当だ。

すると、ぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。

振り向いた瞬間、モモが全力で突進してきて――


「モモちゃん、廊下は危ないよ……きゃっ!!」


そのままバケツに突っ込んだ。水がバシャーンと飛び散り、私のブラウスを直撃。


「つめたー……どうしてこんな目に……」

ふと視線を落とすと……って透けてる!?

慌てて胸元を隠す。


モモはびしょ濡れでじたばた暴れ、床を水浸しにしていく。

私のことなど気にもせず床はあっという間にスケートリンク状態。


「ホリィ、ちょっと透けてるわよ」

階段の上からサリィが、ワイン片手ににやにや。


「……わざわざ言わないでください!」


「いやぁ、宿の評判上がるかも」


「そんな評判いりません!!」


「というか掃除しながら飲まないでっていつも言ってるじゃないですか」


「大丈夫、こぼさないから」


「そういう問題じゃないです……」


言い合いの最中、廊下の奥に視線をやると――

ハマーの部屋の扉の下から黒い靄がじわりと漏れ出していた。

空気がひやりと冷え、木の壁がミシッと軋んだ。


モモがぴたりと止まり、全身の毛を逆立てる。

尻尾の先から光の粒がぱちぱち弾け――


食堂の椅子がふわりと浮いた。


「ちょっ……家具浮いてる!! これモモちゃんの力!?」


慌ててモップを放り投げる。

サリィもあまりの光景に目を見開いていた。


「ほんとに浮いてる……あ、でもちょっと面白いかも」


「呑気なこと言ってる場合ですかっ!」


ミレーネが慌てて駆け寄るが、モモは靄をにらんだまま。

耳を伏せ、「ウゥ……」と低く唸っている。


「黒い靄を警戒してる……ちょっとこのままじゃ制御できないかも」


ミレーネの言葉にぞっとする。

浮いた椅子はすでに私の身長を超える高さまで舞い上がっていた。


「……ねぇホリィ、あんたちょっと浮いてない?」


気づけば私の足も地面から三十センチほど離れ、風船みたいにふよふよ揺れていた。


「なあっ!? ちょ、ちょっと助けて……!」

情けなくジタバタともがく私。


「あんまり動くとパンツ見えるわよ」


「だから、いちいち言わないでください! それどころじゃないんですってば!!」

顔を真っ赤にしてスカートを押さえる。


サリィに腕をつかまれ、ようやくストンと着地。


「……うーん、私が浮かなかったのはダイエットしろってことかしら」

サリィは小声でぶつぶつ言いながら、勝手にショックを受けていた。


心底どうでもいい姉の悩みをよそに、私は周囲を見渡した。

お客さんたちも「なんだなんだ!?」とざわめき、半ばパニック状態になっている。


「姉さん、これ放っといたら絶対マズいです!」

「マズいわね」

「行きます?」

「行くに決まってるでしょ」


短いやり取りのあと、私とサリィは靄の発生源へと駆けだした。



靄を踏み越えた瞬間、扉が音もなく開く。現れたのは黒い剣を握るハマー。


刃が震え、黒の靄が彼の手に吸い込まれていく。


「……すまない、何かに反応して剣が昂ったようだ。

今、力を押さえつけ――グボァァッ!!」


言いかけて盛大に吐血。そのままドサリと倒れ込んだ。


「ハマーさーーーん!!?」


慌てて駆け寄り、どうにかベッドまで運び込む。


「……姉さん、あの剣、ほんとに宿に置いて大丈夫なんですか」


「大丈夫じゃないけど、客の荷物だから仕方ないでしょ」


結局、血まみれの廊下を雑巾でゴシゴシ。

絞りすぎて手はふやけるし、他の仕事まで止まっちゃうし。

……なんとも迷惑なお客さんである。



食堂に戻ると、モモはミレーネの腕の中でごろごろと落ち着いていた。

……が、次の瞬間、またバケツに鼻を突っ込んで、今度はじたばた溺れかけている。


「……あの剣士も、あのモフモフも、手がかかるわね」


「姉さんもですよ」


「え、私?」


――黒い剣と魔物。

二人が長期滞在なのは宿的にはありがたい……けど。

宿屋リングベル、ますます平穏から遠ざかっていきそうです!!


でも、これも宿屋のお仕事、なんですよね?

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