第二話 呪いの剣を持つ客

昼のざわめきがようやく落ち着き、宿に静けさが戻ったころ。

私は帳簿をめくりながら、インクで指を黒くしつつ数字とにらめっこしていた。


「ふぅ……肉の仕入れ代、また上がってる……」


小さくため息をついた、そのとき。


きぃ、と扉が開く。

差し込む光の中に、一人の影が立っていた。


長身だが痩せこけ、外套はほつれ、靴は泥まみれ。

一目で、長い旅に疲れ果てているのがわかった。


……だが、私の視線はすぐに“それ”に吸い寄せられる。


右手に抱えるように握られた黒い剣。

鞘に収められているはずなのに、隙間から黒い靄がじわりと漏れ出し、

男の腕にまとわりついていた。


「……ッ!!」


ペンが指から滑り落ちた。

いや、落ちるでしょこれは。普通じゃない。絶対ただの武器じゃない。


男の顔色は悪く、目の下には濃い隈。

額には汗が滲み、右腕はその剣に侵されるように、手先まで小刻みに震えていた。


「い、いらっしゃいませ……ご、ご宿泊で?」

声が裏返った。情けない。けど無理もない。


「……ああ。長期滞在させてもらいたい」

掠れた低い声。剣をカウンター脇に立てかけた瞬間、重い音とともに黒の靄がふわりと広がり、空気が冷たくなった。


(な、なんでそんなものを宿に持ち込むの……!?)


心の中で叫びながら、なんとか帳簿を差し出す。


「……ご署名をお願いします」


男は震える手でペンを取り、かろうじて名前を書いた。


――ハマー。字は歪んでいたが読める。


「お部屋は二階の突き当たり、左側です」


「……感謝する」


そう言って階段を上るハマー。しかし五段目でよろめき――


「ちょ、危ない!!」


ズザザザザァッ!! 見事に転げ落ちた。


「……落ち着け……ここには何もない……」

真顔でぼそっと呟き、ふらふらと再び上っていく。


私は凍りついたまま横を見る。

「……今、剣と話してましたよね……」


サリィがワイングラス片手に肩をすくめていた。

「いやー、ああいうのって“魔剣”っていうんでしょ?

……うちに持ち込むとか正気?」


「もう、嫌な予感しかしません……」



その夜。私は毛布にくるまって、不安で胸がざわつき、眠れずに転がっていた。

……あんな不吉な剣を持ち込むなんて、正直勘弁してほしい。


「ホリィ!!」

バンッとドアが開いてサリィが飛び込んでくる。

ワイン瓶片手、しかも黒レースの下着姿で……一体なにごと。


「ね、ね、ね姉さん!?」


「怪しい物音がしたから、様子を見に行ったのよ!」


「は!? その格好でどこまで見に行ったんですか!?」


「二階」


「痴女ですか!? とにかく服を着てくださいってばーー!!」


「着てる暇あったら動くの! さあ行くわよ!」


「いや絶対着替えてください!! お願いですから!!」

私は慌ててサリィを押し戻す。

もし誰かに見られたら評判が“いかがわしい宿”に変わる。


数秒後。今度は薄いワンピース姿で戻ってきたサリィ。

腰には革のポーチ(中身はどうせおつまみ)を下げている。


「で、“怪しい物音”って何だったんです?」


「例の剣よ。靄をまき散らしながら廊下をふらふら漂ってた」


「漂ってた!? 剣が!?」


「そう。部屋からひとりでに出てね」


「……やっぱり呪われた剣としか思えないです」


二人で廊下に出る。ランプが揺れて、古い廊下は昼より長く見えた。

風が冷たくて背中がぞわぞわする。


その先――ハマーの部屋の前に剣が鞘から飛び出し、ゆらゆらと宙に浮かんでいた。

黒い靄を撒き散らしながら壁や床を這い、まるで生き物が呼吸しているみたいに脈打っている。


「……近くで見ると余計に怖い」


サリィは眉をひそめながらも、好奇心に負けたように一歩踏み出した。

「うわ……ぞわぞわする……でも、ちょっと近くで見たいわね」


「やめてくださーい!!」


慌てて止めた瞬間――


ガンッ!! 剣がぶるりと震え、次の瞬間、勝手に宙を舞って裏返り、

天井へ突き立った。

黒い靄が渦を巻くように広がり、まるで剣そのものが生きているようだった。


「ひゃあああ!! 動いたぁぁぁ!!」


靄は瞬く間に濃さを増し、あっという間に闇が押し寄せる。数歩先も見えない。


「な、なにこれ!? 暗くて……!!」


「ねっねねね姉さん!! やっぱ戻りましょう!!」


震えていると、近くで扉がギィと開いた。そこから出てきたのは――


青ざめた顔で口から血を垂らし、血まみれで匍匐前進してくる男。


「ひぃいいいい!! おばけぇぇぇ!!」


「……ハマーだ。ゲホッ!! ゴホッ!!」


「…………へ?」


ハマーがフラフラと立ち上がり、天井の剣を見上げる。


「……まだ眠れないらしい」


柄をつかんでスッと引き抜くと、靄は霧散し刃も沈黙した。

その仕草には恐怖より、長年呪いに付き合わされてきた人間の疲れが滲んでいた。


「時々、制御しきれず暴走して……宿を破壊してしまうかもしれない。

その時はすまない」


「すまないじゃないですよ!! 困ります!!」


「金なら……ある。壊した分は全部弁償する」


バタンと扉が閉まった。


残された私とサリィは肩を寄せ合い、しばらく呆然と天井の穴を見上げる。

そこから粉がはらりと落ちてきた。


「まあ、天井に穴あいたくらいで済んで、よかったじゃない」

サリィはなぜか楽しそうに笑い、私は心底ため息をつくしかなかった。


「さて、じゃあ部屋に戻って寝ましょ……どうしたの?」


落ち着かず、そわそわして立ち上がれない私を見て、姉は片眉をひょいと上げた。

まるで「何やってんの?」とでも言いたげな顔だ。


私は慌てて、寝間着のショートパンツにできたシミを手で押さえた。

どうにか誤魔化そうとするけど、顔は火がついたみたいに熱い。

心臓がドクドク暴れているのが自分でもわかる。


「へ、平気ですから……! さ、先に戻っててください!」


「え? でも……」


「いいからお戻りくださいってば!!!!」


声が裏返った。完全に冷静さをなくした私の必死の訴えに、

さすがの姉さんも一瞬たじろぎ、しぶしぶ部屋へ戻っていった。


――やってしまった。

よりによってこの歳で粗相だなんて。バレたら絶対ネタにされる。

いや、正直もうバレてる気がする……。

屈辱と恥辱で頭がいっぱいのまま、私は情けなく床をゴシゴシと掃除し、

意気消沈して部屋に戻った。


すると案の定、腕を組んだ姉さんがニヤニヤと待ち構えていた。


……はぁ、当分はイジられる……。



そして翌日、新たな客が“変わった荷物”を連れてやってくる。


私は嫌な予感に身をすくめる。

(お願いだから、今度は普通の人でありますように)


――ドアが開き、穏やかな雰囲気の、大人びた女性客がやってきた。

(あっ、トラブルとは縁のなさそうな……)


その女性の足元から、白い謎の魔物がひょこん、と顔をだした。


「……姉さん、事件です……!!」(ガタブル)

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