黒崎探偵事務所-ファイル04 黒い男
NOFKI&NOFU
第1話 東京CJ調査室
東京の空は、鈍く濁った鉛色に沈んでいた。
窓ガラスに雨粒は落ちていない。それなのに、じっとりとした湿気が事務所に染み込み、壁の隅では影が微かに揺れて見える。
ぺん先は紙を擦り、不協和音のような『ざ、ざざ……』という音を立てた。
黒崎は幾何学模様をぺんで何度も何度も書き殴っていた。手を止めて机の上の資料を睨みつけ、眉間に深い皺を刻んでいた。
ここ数週間、彼の夜は『あの旋律』に侵されていた。湖底で聞いた歌声が、夢の中で反響し、やがて自分の声に変わり、心臓の鼓動と同調していく。まるで、自分の内側から別の意識に乗っ取られるようだった。
対面の椅子に腰掛ける美咲もまた、安らぎとは縁遠かった。
「ああ……なんで」
鏡の街道で見た悪夢――鏡の中に横たわる首の折れた自分。その冷たい視線が、日中でも脳裏をよぎる。手元のマグカップを両手で包み込みながら、彼女は小さく呟いた。
「黒崎さん……昨夜も、眠れませんでした?」
黒崎は短く息を吐き、答える代わりに資料の角を指で叩いた。
「……夢じゃない。あれは侵入だ。忘れたくても、奴らは何度でも記憶を叩き起こす」
「私も……似たようなものです。怖いけど……でも」
美咲は一瞬、目を伏せ、それから彼に笑みを向ける。
(黒崎の服の裾を無意識に掴む、マグカップをより強く握りしめる)
重苦しい沈黙を破ったのは、階段を上がってくる靴音だった。
ドアがノックされ、美咲が「どうぞ」と声をかける。
姿を見せたのは、漆黒のロングヘアと和服に黒草履という、都会の夜景にも負けない異彩を放つ女性――東京CJ調査室 特殊課課長、汐崎レイカだった。
「お久しぶりです、黒崎さん、美咲さん」
その声は低く抑えられているが、瞳の奥には研ぎ澄まされた光が潜んでいた。
黒崎は一瞬、心の中で呟いた。
(……この人には、借りがある。**そしてそれは、俺ぼ仕事人生の全てだ。。)
レイカは二人の心中を知ってか知らずか、静かに一礼した。
「忙しいところ、申し訳ないわ。……調べてもらいたいことがあるの」
美咲もまた、内心で彼女を見つめていた。
(初めて会ったけど……やっぱり切れ者だ。前任の柊アヤさんから何度も聞いていた通り。こんな人が黒崎さんを支えてきたんだ)
「依頼ですね。お話を伺いましょう」
黒崎の声は淡々としていたが、背筋は伸びていた。
テーブルに並べられたのは、数枚の写真と、不動産業者同士の内部チャットの記録だった。
「最近、都内各地で目撃されているの。**黒い服の男……ただの人間ではない。**どこにでも現れては、誰にも気づかれず消えていく。特に不動産業界で噂が広がっていて――私たちが扱うべき『非現実』が、日常の『空間』を介して侵食を始めている兆候だと見ているわ。」
黒崎がチャットを拾い読みする。
『○○マンション302号室に黒い男が住み始めた』
『だが、あそこはずっと空き部屋のはず』
『契約もないのに、なぜか部屋にいて、いつの間にか消える』
「……不可解ですね」美咲が眉をひそめる。
「警察は動いてくれないんですか?」
レイカは静かに首を振った。
「証拠が薄すぎる。でも、放置するには気味が悪すぎるの。『黒い男』は、時に人々の夢や記憶に直接作用する。そして、この現象は空間そのものをねじ曲げている可能性がある。――黒崎さん、あなたなら追えると思った」
「なるほど。……依頼、承りましょう」
黒崎は資料を閉じ、静かに答えた。
美咲はマグカップを握りしめながら、小さく呟く。
「黒い服の男……また悪夢に繋がりそうな匂いがしますね」
レイカは二人を真っ直ぐに見つめた。
「気をつけて。あなたたちに何かあれば、東京CJ調査室でも抱えるほどの痛手になる」
その言葉は、彼女なりの本心からの心配だった。
黒崎は煙草を指で弄びながら、低く言った。
「美咲。この依頼――俺たちにしかできない」
美咲は不安と決意を混ぜた瞳で頷いた。
事務所の窓の外。鉛色の空を裂くように、低い雷鳴が響いた。
その瞬間、一瞬だけ窓ガラスに『黒い影』が映り込む。
人影のようで、輪郭は揺れ、幾何学模様に崩れていった。
二人は息を呑む。レイカもまた、その一瞬を見逃さなかった。
――黒い男は、すでにこちらを見ている。
次回 第2話「追跡 黒い男」
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