第34話 静寂の絵画のような朝食

 翌朝の食卓は、静寂の絵画のようだった。

 テーブルの上には、完璧な焼き色のパンケーキ、一つひとつ粒の大きさが揃えられた葡萄、そしてリ・ユエが淹れた、寸分の狂いもなく俺の好みを再現した紅茶が並んでいた。


「パパ、あーん」


 俺の膝の上では、子供が小さなフォークで器用にパンケーキを切り分け、俺の口元へ運んでくる。その瞳は純粋な愛情に満ちており、俺がそれを受け取ると、世界が祝福するかのように部屋に差し込む光がわずかに明るさを増した。


 俺はそのパンケーキを咀嚼しながら、向かいに座るリ・ユエに声をかけた。


「リ・ユエ、昨日の議会の報告書を読んだ。全会一致で可決、か。随分とスムーズに進んだものだな」


「ああ。無駄な反対論や感情的な反発がなくなったおかげで、議会の意思決定速度は3倍になった。これも、都のシステムが最適化された恩恵だろう」

 リ・ユエはこともなげに言い、完璧な所作で紅茶を口に運ぶ。


「最適化、ね。俺には思考停止に見えるがな。異論のない議会など、多数派の独裁と変わらない」

 俺はわざと、少し棘のある言葉を選んだ。彼の反応が見たかった。


「独裁ではない。最も合理的で、最も多くの幸福を生む結論に、全員が論理的に到達しただけのことだ。感情というノイズが消えれば、正しい答えは一つしかない」

 リ・ユエの答えは、水が流れるように淀みがない。彼の青い瞳は、俺の言葉を分析はしても、そこに込められた皮肉に傷つく様子はなかった。


「その『正しい答え』は、誰が決めるんだ? まさか、あの子か?」

 俺の視線が、膝の上の子供へと注がれる。子供は俺たちの会話など意に介さず、次のパンケーキを切り分けるのに夢中だった。


「あの子は決めてなどいない。ただ、人々が『エラー』に陥らないように、道を示しているだけだ。悲しみや怒りといったバグに邪魔されなければ、誰だって幸福を望む。その純粋な願いを、あの子が叶えている」

 リ・ユ-エの言葉は、どこまでも善意に満ちていた。かつて世界のシステムに囚われていた彼は、今、この新たな「完璧なシステム」を信奉し始めている。


 俺はため息をつき、カップを置いた。

「リ・ユエ、俺は時々、お前と喧嘩がしたくなる」


 その言葉に、リ・ユエは初めてわずかに眉を寄せた。

「理解できないな、シン・ジエン。喧嘩は魂のエネルギーを不必要に消耗させるだけの非効率な行為だ。俺たちの間には、もうその必要はないはずだ」


「必要さ。大ありだ。俺たちは違う人間なんだ。意見が食い違い、苛立ち、それでも互いを理解しようとぶつかり合う。その面倒くさい非効率の先にしか、本当の理解はない。俺はそう思う」


「君の意見は尊重する。だが、そのプロセスは、俺たちの魂が接続されている今、不要なものだ。俺は君の思考を理解できるし、君も俺の心を読める。言語や衝突を介さなくても、魂は常に……」


 リ・ユエの言葉が、不意に途切れた。彼の視線が、俺の膝の上で固まっている。


 子供が、パンケーキを切り分ける手を止め、じっとリ・ユエを見つめていた。その小さな唇が、かすかに動く。


「……ケンカは、ダメ」


 その瞬間、俺とリ・ユエの間にあった、ほんのわずかな緊張感が、霧のように消え失せた。俺の中にあった苛立ちや、リ・ユエの中にあったかすかな戸惑いが、まるで存在しなかったかのように綺麗に消去されていく。


「……いや、そうだな。すまない、リ・ユエ。俺が間違っていた」

 俺の口から、思ってもいない言葉が滑り出た。俺の感情が、俺の意志を裏切っていく。


 リ・ユエもまた、穏やかな笑みを浮かべていた。

「いや、俺の方こそ、君の考えを否定するべきではなかった。許してくれ」


 完璧な和解。完璧な調和。

 俺たちは互いに微笑み合い、何事もなかったかのように朝食を続ける。だが、俺の背筋を冷たい汗が伝っていた。


 俺たちの意志さえも、子供のアルゴリズムは「修正」し始めている。

 このままでは、俺たちは思考も感情も共有された、ただ一体の幸福な生き物になってしまう。


「パパ、もうケンカしない?」

 子供が、俺の顔を覗き込む。その無垢な瞳の奥に、俺は果てしなく広がる静かな水平線を見た。波ひとつない、完璧な海。


 俺は、その完璧さに溺れてしまう前に、この船の舵を奪い返さなければならない。


「ああ、もうしないさ」

 俺は子供の頭を撫でながら、嘘をついた。心の中で、静かに反撃の狼煙を上げながら。

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