第27話 「パパ」という役割と、愛の論理的定義

 リ・ユエは、リビングのソファで静かに座っていた。しかし、その瞳は、デジタルパッドを前にして、かつてないほど激しく動いている。


「リ・ユエ、まだパッドと格闘してるのか? 子供は庭で遊んでいるぞ」


 俺はコーヒーを飲みながら尋ねた。


「格闘ではありません。『パパ』という役割の論理的定義を再構築中です」


 リ・ユエは真剣そのものだ。


「昨日の事件で、私のシステムは『パパ=守護者+愛の共有者』として再定義されました。しかし、『ママ』という呼称が持つ感情的負荷については、まだ解析できていません」


「『ママ』は俺のことだろ。子供にとって、世話を焼く方に言いがちなんだ」


「その『世話』と『愛』の関係性を数値化する必要があります。シン・ジエン、君の『母親役』としての具体的な行動リストを提出してほしい」


 俺は呆れて笑った。


「馬鹿言え。愛はリストじゃない。それに、俺は母親役じゃなくて父親役だ。あんたも父親だ」


「違います」リ・ユエは即座に否定した。「私の分析では、この子の『無償の愛の対象』は君です。私は、君とこの子を繋ぐ媒介変数であり、『第二の保護者』としての役割が最適です」


 リ・ユ・エは、愛情の順位付けすら論理的に行おうとしている。


 その時、庭から子供が駆け込んできた。泥まみれだ。


「パパ! お花がね、寂しそうだったの!」


 子供はそう言って、俺にしがみついた。


 リ・ユエは子供の汚れた服を見て、即座に分析モードに入った。


「泥は、病原菌の付着率80%。即刻隔離と洗浄が必要です」


 リ・ユエは立ち上がり、子供を抱き上げようとした。しかし、子供はリ・ユエの腕を拒否した。


「嫌だ! 泥はお花を助けた証拠なの! 泥のどこがいけないの?」


 子供の瞳に、不満の色が浮かぶ。


 俺はリ・ユエを制した。


「待て、リ・ユエ。論理を使うな。子供の言葉を感情で受け止めろ」


 リ・ユエは、その場でフリーズしたように立ち尽くした。


「感情…? 『泥=不快』という既存の論理を、どのように『愛』に変換するのですか?」


「簡単だ」俺は子供の泥だらけの頬を、自分の指で優しく拭った。「『お花を助けたんだね、偉かったね』。承認だ。そして、『でも、風邪をひくとパパが悲しいよ』。共感だ」


 リ・ユエは、その一連の動作を瞬時に解析し、子供にゆっくりと向き直った。


「…解析完了。論理の再構築。『泥=不快』から『行為=承認、結果=保護』に変換します」


 リ・ユエはそう言って、子供の目の高さまでしゃがみ込んだ。


「君が花を助けたのは、素晴らしい行動です。承認します。しかし、濡れた服は君の身体の安定性を損ないます。私は、君の安定を最優先します。だから、着替えることに同意してください」


 リ・ユエは、「守護」という愛の論理を崩さずに、子供に「選択」を与えた。


 子供は、リ・ユエのその真摯な、しかしどこか堅苦しい愛情表現に、キョトンとした顔をした後、満面の笑みを浮かべた。


「わかった! じゃあ、着替えたら、パパとママとお散歩ね!」


 子供はそう言うと、素直にメイドの手を引いていった。


 リ・ユエは、子供の後ろ姿を見送り、俺の方に振り向いた。


「シン・ジエン。私は、感情と論理の融合に成功しました。これは、人類の歴史における、愛のシステムの新たな進化です」


 リ・ユ・エは誇らしげだった。


「ああ、そうだろうな。でもな、リ・ユエ」俺はリ・ユエの汚れた指をとり、口元についたコーヒーを拭き取った。「お前は『ママ』じゃない。『パパ』だ。そして、俺の愛のシステムには、『ママ』という項目はない。『パートナー』という名の、絶対的な愛情があるだけだ」


 リ・ユエは、俺の言葉に、最強の異能者としての自信を越えた、一人の男としての至福に満ちた笑みを浮かべた。彼の瞳には、もう迷いはない。


 俺たちの愛は、今、家族という名の、最も非論理的で温かいシステムへと、完全に移行したのだ。

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