第22話 透明化の試練と、愛の可視化

 朝食の時間。侯爵家のダイニングテーブルは、奇妙な静けさに包まれていた。


 俺の右隣には子供。左隣にはリ・ユエ。子供は、俺がリ・ユエの方を向くたびに、フォークでパンケーキを強く突き刺し、威嚇の音を出す。


「リ・ユエ、今日の政務報告書は?」


 俺がリ・ユエに声をかけると、子供はすぐに俺のパンケーキの上にイチゴを一つ転がした。


「パパは、これ食べて!」


 リ・ユエは静かに報告書を広げようとしたが、その瞬間、子供がリ・ユエに向かって「うー」と低く唸った。


 リ・ユエが持つ報告書の文字が、墨が滲むように消え始めた。


「無効化…いえ、『意味の削除』か」


 リ・ユエは驚愕に目を見開いた。報告書は白紙に戻っている。


「子供の能力は、論理や秩序を対象とすると、それを感情的に『無意味』だと判断し、システムから削除するようです」


「その分析はいいから、仕事だ! 仕事を戻せ!」


「戻せません。『無意味化』は、世界のシステムに直接働きかけるため、私の異能でも修復が不可能です」


 俺は額を押さえた。子供の能力は、リ・ユエの異能とは違う、純粋なシステムのバグだ。


「このままでは、侯爵家の業務がすべて無意味化されるぞ!」


「シン・ジエンは、僕だけ見てればいいの!」


 子供はそう言って、俺の頬に甘いイチゴの匂いのするキスをした。


 昼過ぎ。俺は書庫で、子供に論理的な愛の理解をさせようと試みていた。リ・ユエは二メートル離れた位置で、解析(監視)を続けている。


「いいか、お前。リ・ユエは、俺の『愛の共同経営者』だ。俺がリ・ユエを愛するのは、お前を愛するのと同じくらい必然的なんだ」


「やーだ! 共同経営者じゃない! パパは、僕だけの専属だ!」


 子供は癇癪を起こし、書庫の分厚い古文書を指差した。


「あれ、透明になっちゃえ!」


 子供の指差した先には、リ・ユエが数十年前の世界の盟約に関する資料を探していた書棚があった。その書棚全体が、まるでガラスのように透明になり、中身の古文書が宙に浮いた。


「これでは、文字のインクが、世界の虚構性に晒されて消えてしまう!」


 リ・ユエは慌てて書棚に駆け寄ろうとしたが、子供はリ・ユエの足元に見えない壁を作り出した。


「リ・ユエは、あっち行って!」


 リ・ユエは、その見えない壁に阻まれ、書棚に近づけない。最強の異能者が、子供のわがままによって、ガラスの壁に閉じ込められた格好だ。


「シン・ジエン! 今すぐこの物理的な障害を排除しろ! 貴君の知略で、この子供を諭すんだ!」


「知略で『感情的なわがまま』は止められないんだよ! あんたも経験しただろ、論理を超えた嫉妬を!」


 俺はため息をつき、子供に優しく語りかけた。


「わかった、わかった。リ・ユエは悪くない。リ・ユエは、お前と同じくらい、俺のことが大好きなだけなんだ」


 俺はそう言って、子供を抱き上げた。すると、透明になっていた書棚は元の木製に戻り、リ・ユエを閉じ込めていた見えない壁も消えた。


 リ・ユエは、解放されるや否や、猛然と俺に近づいてきた。


「シン・ジエン! 私に抱き着くのをやめろ! この子供の独占欲を増幅させている!」


「俺はお前を愛していると示しているんだ。ほら、お前も抱き着け!」


 俺は子供を片手で抱え、もう一方の腕でリ・ユエを引き寄せた。


「嫌だ! この子の嫉妬のオーラが、私の解析回路を乱す!」


「乱せ! 乱れて、恋人と父親の正しい境界線を学べ!」


 俺は、最強の異能者と最強のバグを両腕に抱え、書庫の中心で立ち尽くした。俺の知略は、今、子育てという名の、最も困難なシステム修正に挑んでいる。

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