1 リヨン
土曜日の朝は静かだ。OPLの場合、同じプログラムで連日コンサートが開かれる時は2回め以降のコンサートの前に練習はほとんどない。だから金曜か木曜に一回目のコンサートをした後、土日は夜のコンサートまで好きに過ごしていられる。
久しぶりに落ち着いて長く練習時間が割けると張り切り僕はフラット系の嫌な長調をターゲットにスケールからエチュードへとしっぽりきめ込んだ。練習中のパガニーニの4と7を通り、オーケストラレパートリーを少し触ってからコンチェルトにも着手する。ターゲットはもっぱら1楽章だけをやってて2.3楽章をやってないロマン派王道系だ。OPLの譜読みもあるが譜読みは体が疲れて、頭が体より回り始める時間帯がいい。なんの練習にもこのコンディションの時にはこれ、というのがあるものだ。
シベリウスの三楽章を触っていたらいきなり扉が開いた。親父だ。どういうご用なのか、楽器も持たず綺麗なネクタイを締めている。こんな天気のいい土曜の午前から、フケンゼンな雰囲気を漂わせるアラフォーなんて、ぜんぜん見たくないもんなのだが。
「おう。リュウか。」
自分の息子をなんだと思っているのだろう。
親父はしばらくダイニングと寝室の間をうろうろしてなにかしたあと、ダイニングソファに居座ってコーヒーを飲み始めた。そんなにめかしこんでるのだからさっさと家を出れば良いのに、なにを待っているのだろう?お気に入りのブルーマウンテンを片手に、ただ練習する僕を眺めている。
「リュウ。」
しばらくして親父が声をかけた。僕は弾きやめて首だけ傾けた。
「いま、ソロの20分プログラムでなにができる?」
嫌な予感がした。こういうことがたまにあるのだ。普段は息子のことなど意にも介さずの親父が急にあれは弾けないのか、これをやってくれなどと言ってくる。そいうい場合は大抵、まるでとてもいい機会かのように言って、実際にはいい話だったためしがない。
「イザイの6、もしくはバルトークの1番、パガニーニなら1、5、7、バッハならパルティータの1、お好みならクライスラー。」
親父は少し考えるそぶりをしてから言った。
「12月4日、そのプログラムでいい。場所と時間はまた連絡する。」
「待った。場所によるな。4日って水曜じゃないか。」
「なんだ、なにかあるのか。」
「こちとら真面目な学生なもんで。」
「ああ、なんだ授業か。」
まるで僕が落第しても知ったこっちゃないといったご様子。
「心配するな、リヨンだ。とにかく、ピックアップはな。」
親父はそれだけいうとコーヒーを飲みきり、オーバーを着て出て行った。残された僕は仕方がない、僕の愛する十八番たちを真面目にひととおりさらっていった。だが弾きながらも考えが頭を巡ってしょうがない。嫌なのは、あまりにも情報が少ない点だ。プログラムだって、僕の挙げた曲を全て弾いたら長すぎる。親父はどれを選べともなにも言わなかった。たぶん、プログラムはおよそどうでもいいのだろう。ただの話の流れだ。今までも何度かこういうことはあったが、どんなに情報が希薄でも、"場"の確実性がない状況で、親父が僕に話を振ってくることはない。詳細を話さないのは、決まってないからか、話せないからの2択だ。だから4日にコンサートが行われる、ということだけが確かで、場所も時間も決まっていない、もしくは、言えない。これがもう一つの嫌な点だ。こうなるともう、これが街のホールで行われる真っ当な出資元をもつコンサートである可能性は限りなくゼロに近いからだ。
健気なリュウくんはその後もプログラム全てをさらうのに午後いっぱいもかかった。そのあとは短い日が落ちる前にひとあそびと、アパートを飛び出した。今日のぼくはジーンズにノルディックジャケット、モノトーンのマフラーにベチバーのオードトワレだ。夕焼けを見ながらソーヌ川沿いを下り、サン・ポールまで来た。16時前だというのに、エレファント・キャッセルが開いている。お気に入りのバーだ。思わず入っていって一杯と言いたいところなのだが、さすがに本番前に酒はよくない。まあ、OPLで20年も弾いているようなベテラン団員の中には、一杯くらいは平気でやってる人もいそうなもんだが。
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