妖精のお茶屋さん
揺満雪花/Reun
第1話
森の中。いつの間に、こんなところに迷い込んでいたんだろう。ついさっきまで、私は会社にいたはずなのに。気づいた時点でスマホは確認したが、圏外で地図すら見えなかった。
「……あっ!」
やばい、まだ期限が明日の仕事、終わってない!後輩に指示出しとくのも忘れたし、明後日の休みの分の仕事の引き継ぎも!あぁぁ〜、早く帰らないと……。
とぼとぼと方向も分からずに歩いていくと、どんどん地面がぬかるんでいく。ここら辺、雨降ったのかな。よく見れば、木々の葉っぱや草には水滴が付いている。今は晴れているが、雨が降ってからあまり時間が経っていないらしい。
濡れた草の青臭い匂いと、湿った土の匂いが混じりあって鼻を抜ける。なんだか懐かしい気分になった。
普段はあんなコンクリートジャングルで暮らしているからなー。
「ん?」
一瞬、なにか違う匂いが混ざったような……。もしかして、野生の動物?そうだとしたら最悪すぎる。
でも、そういう匂いじゃなかった気がする。なんか、もっと……。
ほら、また漂ってきた。やっぱり、野生の動物みたいなムッとした、獣臭い感じじゃなくて、お菓子みたいに甘い香り。なんでそんな匂いがするのかは分からないけど、そっちの方に行けば人に会えるかも。
あんまり鼻は良くないけど、非常事態になって感覚が研ぎ澄まされているのかもしれない。くんくんと鼻を動かしながら、匂いの強くなる方向へ向かった。
どんどん道が細く、険しくなっていって不安になったが、人は意外といけるものだ。大丈夫、さっきから鳥の鳴き声すらしないし、虫の羽音も聞こえない。動物の足音もない。だから、近くには何もいないはず。
平気、平気と自分を励ましながら歩く。さっきの場所からだいぶ歩いたが、まだこの匂いの正体も、発生源もつかめなかった。
うーん、これ、もしかして私の……幻聴、じゃないや。なんて言うんだろう、幻の匂い……みたいなものなんだろうか。
いや、と頭を振って悪い想像を振り払う。さすがにそんなことはないだろう。こんなにはっきり匂ってるし!……でも、ここまでどうやって来たか覚えてない時点で怪しいかも。
うだうだ考えながらも足は進む。不意に辺りが明るくなり、まぶしっ、と少し目を細める。
木々がはけて、ぽっかり空間が空いているのだ。
雨粒に濡れた草がキラキラと輝いている。甘い匂いも、一段と強くなった。ここが、この香りの発生源なのだろうか。
チリン、と音が聞こえた。ほんの微かに、だけどはっきりと。下ばかり見ていたから、そこで初めて顔を上げた。
そこにあったのは、赤い屋根で石造りの小さな……家?
窓が空いていて、アイボリーのカーテンがはためいているのが見える。
「やっぱり、あそこから匂いがしてるんだ」
もう一度、チリンと音が聞こえる。その澄んだ音と甘い匂いに惹かれるようにして家に近づいた。
一歩近づくごとに、甘い匂いがどんどん強くなっている。そこで、複数の匂いが混じっていたことに気がついた。バター、生クリーム。主に匂いが強いのはこのふたつで、少し小麦の匂いも混じっている。
……昔ならこれだけで『幸せ空間』って言えたのになぁ。今は、もう胸焼けしそうだよ。とってもいい匂いなのはそうなんだけど。
少し悲しくなりながら、木製のドアの前に立つ。
近くには『Cafe・Fleur』という看板があり、ドアにかかったプレートにはOPEN、の文字が並んでいた。
こんなところにカフェ?珍しい。ここにお店構えててお客さん来るのかな。今私が来たところだけど。
お金あったっけ?と肩に下げていた鞄を漁ると、しっかり財布が入っていた。中身は少将心許ないけど、まあカフェで少し休むくらいだったら足りるだろう。
勇気を出して、ドアを押す。カラン、チリンという音の後に、元気のいい声で「いらっしゃいませー!」と聞こえてきた。
成程、さっきの音はドアベルだったか。二種類つけてるのかな。見上げると、大きめなベルがひとつと小さな鈴がいくつかついていた。あと、何故かどんぐりも。大きくて、つやつやしていた。
どんぐりに気を取られていると、こちらまで来ていた店員さんらしき女の子に声を掛けられた。
「いらっしゃいませ、お席に案内しますね」
「あっ、はい、お願いします!」
急に話し掛けられたからテンパって、大声を出してしまった。店員さんはニコニコと笑って、こちらへどうぞーと案内してくれる。は、恥ずかしい……。
店内は暖かい光に満ちていた。外装は石造りだったが、内装は木でできている。開かれた窓にはカーテンがついていて、端っこにクローバーやら猫やらの刺繍がしてあった。席はカウンターと小さなテーブル席があって、椅子には全てカバーが掛けられている。
素敵なお店だ。童話に出てきても違和感がない。私、もしかしたら童話の世界に紛れ込んじゃったのかも。……そんな訳ないよね。
案内された席に着いたあと、店員さんはお冷を置いてすぐに去って行ってしまった。
お冷に口をつけた途端、喉が渇いていたことに気がついた。一気に飲み干してしまう。テーブルの上にピッチャーがあったから、そこからコップに水をついだ。
さて、さすがに水を出してもらって何も頼まずに道だけ聞いて帰るのは失礼だよね。と思ってメニューがないか探すが、テーブルの上には見当たらない。
どうしよう、店員さん呼んで、メニュー持ってきてもらう?うーん、奥に引っ込んじゃったしなぁ。でも、今はお客さんは私一人しかいないし、これがチャンスかも。
「あのっ……!」
「お待たせ、しました」
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