月と太陽
俐月
報せの花
世界は人間族、幻種族、魔族がいた。
各種族は長きに渡り、戦いを繰り返してきた。
世界は疲弊しきっていた。
しかし、それぞれの種族は己の矜持のために、戦いをやめることはなかった。
幻種族は、自然を操り人知を超えた力と、長寿故の粘り強さを持って。
魔族は、彼らが誇る幻種族にも劣らぬ暴力と、勝つためにはどんな犠牲も厭わぬ執念を持って。
その二種族より力も寿命も劣る人間族は、知略と戦略を駆使して敵を欺き、短命故に進化してきた技術と結束力を持って――
平和な時代があったことすら、ほとんどの者が覚えていない。
そんな波乱の時代に一人の人間の女児が生まれた。
初代聖女――後に神より、世界に遣わされた聖母と呼ばれる女性だ。
彼女は広い世界を三つに分けた。文字通り分けたのだ。
大きな地殻変動により海は隔てられ、三大種族の住まう土地の間には行き来不可能の、虹色の結界が張られた。
そうして、しばらく後に世界に平和が訪れた。
それからというもの、きっちり百年に一度、人間族の間に、聖女が誕生するようになった。
◇ ◇ ◇
ねぇ、名無しの不死者。
え?
だって君、自分の名前すら覚えてないんでしょ?
あ、わかった。
じゃあ不死の王ってのはどう?
はは、そんな顔しないでよ。
じゃあ私が名前を考えておくよ。
え? あー何か聞きたかったんだけど、忘れちゃった。
忘れるくらいだから多分どうでもいいことなんだよ。
そう、どうでもいいことってびっくりするくらい多いからね。
◇ ◇ ◇
花の香りがする。
懐かしいようで、とても煩わしいそんな香り。
鼻腔をくすぐる甘ったるい匂いで、彼は目を覚ました。
頭がぼんやりとしていて、色んなことがはっきりとしない。
彼はまず、肌寒さを感じた。
――肌寒い?
また長い間、この大樹のウロの中で眠っていたのか、と彼は思った。
眠ってから、どれくらい経ったのだろうか。
揺籠のようなウロの中で体を起こすと、辺りには色とりどりの花が広がっていた。
この広場――大樹の周りを囲むように一面の花が咲いている。
これは″報せ″だ。
彼女を見送ったすぐあと、ウロの中で眠りについたときには、もう花は枯れていたはず。
「もうそんな時期か」
彼は気怠そうに首を左右に傾けたあと、大きなため息をついた。
″報せ″には三通りがある。
一つは聖女が誕生し、この土地へやってくるとき。
その聖女が役目のために、旅立つとき。
そして、もう一つは……
「随分老いたな。アリア」
「あら、意外なこと。私の名前、覚えてくださったのですね」
大樹を中心に花畑が広がり、その花畑を更に囲むように木々が生い茂っている。
ウロの正面――その花畑の中に、一人の腰の曲がった老女が、笑って立っていた。
″報せ″のもう一つ――
その聖女が役目を終えたとき。
「覚えてるも何も、たった百年足らずのことだろう」
まだ小さな幼子だったアリア。
その彼女が当時と同じくらいまで背の縮んだ老婆になるまでに、百年も必要ない。
彼は、こうして何人もの聖女の旅立ちと、その最期を見送ってきた。
「たった。そうですね、貴方にとってはたったの七十八年。私、九十になったんですよ。九十のおばあちゃんにしては、元気でしょう?」
「それだけ口と頭が回るなら、しばらく心配なさそうだな」
彼は失笑を隠さず、ようやくウロから離れて立ち上がった。
アリアはゆっくりと――しかし九十の老婆とは思えない、しっかりとした足取りで、彼の前へ歩み寄る。
「長い間使ってないからな、まぁ、いいか」
彼は大樹のウロの裏側に立つ小さな家を見た。
「相変わらず先生は無頓着というか、だらしがないというか……
私たちとは時間の感覚が違うから、仕方ないのかもしれませんね」
「荷物はそれだけか?」
アリアが先生と呼んだ彼は、そんな小言を何一つ気にした様子もなく、彼女の提げる小さな鞄を見て尋ねた。
「役目を終え、死期を悟った聖女はこの地に還る。先生が1番よくご存知でしょう?
必要最低限のものしか、持ってくる必要はないですからね」
「そうか。そういうものか」
彼は今までの歴代の聖女を思い出しながら、小首を傾げた。
なぜなら、歴代の聖女の中には馬車三台分の荷物を、この地に持ってきた聖女もいたからだ。
そう思うと、アリアはこの世界では、禁欲的で模範的な聖女だったのかもしれない。
しかし彼にとっては、どの聖女も大して変わりはない。
″彼女″との約束を果たすその時まで、ただただ百年に一度生まれてきた聖女を迎え入れ、旅立ちを見送り、最期の時を看取る――それだけだ。
この地は初代聖女の結界で守られていて、あの家は‘’彼女‘’の小さな城だ。
彼女はその城がいつでも綺麗であるように、聖女の力を駆使して埃一つ出ない家を作った。
彼はそのことを思い出して、百年足らず放置していたところでなんの問題もないだろう、と安心した。
そして、アリアの持つ小さな鞄を半ば奪い取るように持ったあと、これまた荷物を持つようにアリアを抱え上げた。
「ちょ、先生」
「この方が早い。老いた人間は歩くのが遅いからな」
「私は荷物じゃありませんよ! それに、老体は労わるのが紳士としての行いでしょう!?」
肩に担がれたアリアは、足をジタバタさせながら訴える。
『君はほんと、レディーに失礼な人ね。
自分より小さなレディーは、ガラス細工のように大切に扱うのが紳士の嗜みよ。
わかった? 返事がないけど? ねぇ、わかったって聞いてるのよ?』
そんな声が彼の脳裏によぎって、彼は足を止めた。
「先生……?」
「そうだな、すまない」
彼はアリアを一度降ろすと、今度はそっと横抱きにした。
「もう……気を遣ってくれなくても、自分で歩けますのに」
「だから老いた人間は歩くのが――」
「はいはい、そうでしたね」
言葉を遮られて、彼は苦虫を噛み潰したような顔を顰めた。
そんな彼を見て、アリアは苦笑する。
「全く……、全然変わってませんね、先生は」
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