へっぽこサキュバスお嬢様の番犬の受難

あたるまひの

へっぽこサキュバスお嬢様の番犬の受難

 魔界の辺境都市ダスクエンド。中央の支配が及ばぬ無法地帯の片隅にあるアパートで、俺の一日は嘆きの声と共に幕を開ける。


「ヴァルグ……おなかすいたぁ……」


 革張りのソファに沈み込んでいるのは、あるじであるサキュバス、ルナ・モルケゴールだ。艶やかな黒髪のロングボブをクッションに預け、手足をぐったりと投げ出している。衣装は黒と紫を基調にしたレオタード風。その腹部は、大胆なハート形にくり抜かれている。いかにもサキュバスらしい、男を惑わすための戦闘服――のはずなのだが。今のルナは力無くぐったりしているせいで、布地は弛み、ハートのくり抜きも間の抜けた形に歪んでいる。これでは色気どころか、腹を冷やさないかと心配したくなる。


「ルナ様。食事は、つい先ほど済ませたばかりだが」


 俺、ヴァルグ・ラスケヴァクは、ため息とともに答えた。ひと昔前に『銀狼ぎんろう』の異名で裏社会に名を馳せた解決屋にして、現在はこのポンコツなサキュバスお嬢様の側仕え……という名の護衛兼お守り役。フェンリルの血を継ぎ、燻銀の毛並みを持つ俺が、まさかこんな平和な(そして頭痛の種だらけの)日々を送ることになるとは……若い頃の自分に教えてやりたいものだ。


「物理的な食事は、ね。私が言いたいのは、精気よ。生命エネルギーが足りないの……!!」

 

 彼女の言う通り、サキュバスにとっての生命線は、精気の摂取だ。そして、このお嬢様は致命的なまでに精気集めが下手だった。

 

 ルナは、淫魔界でも五指に入る名家、モルケゴール家の末娘である。しかしその実態は、サキュバスとして致命的な欠陥を抱えた。生命エネルギーを糧とするサキュバスでありながら、彼女は他者からそれを上手く吸収できない。


 おそらく、根が優しすぎるのだろう。サキュバスの本能と、他者を傷つけたくないという善性が心の中で常にせめぎ合い、本来なら呼吸するようにできるはずの行為にブレーキをかけているのだ。だから、常にガス欠寸前の状態で日々を生きている。そんな有様だから実家では『出来損ない』と蔑まれ、とうとう厄介払い同然に、このダスクエンドへ追いやられてしまったわけだ。


 さらに、他の兄姉たちには、優美な堕天使や才色兼備な配下の夢魔などが側仕えとして仕えている。それに対して、ルナにあてがわれたのは俺。元裏社会のおっさん獣人ときた。その人選が何を意味するのかは、言うまでもないだろう。


「ヴァルグぅ、ちょっとだけでいいから……だめ?」

 

 潤んだ黒い瞳が、熱願するように見上げてくる。その仕草ひとつで、そこらの男なら骨抜きだろう。だが、俺も伊達に裏社会で『銀狼』と呼ばれ、数多の修羅場をくぐり抜けてきたわけではない。こんな小娘の誘惑など……


 ……いや。やはり訂正する。


 ルナの瞳の奥に、抗いがたい魔性の光が揺らめいている。サキュバスの本能が、彼女の意思に関係なく強力な魅了を放ち、俺の理性を直接焼き尽くそうとしている。理性の鎖を引きちぎり、この無防備な主の命に『応えろ』と、俺の獣の血が吠える。そしてさらに厄介なことに、このお嬢様は自分の魅力がどれほどのものか、まるで理解していないのだから、非常に困る。

 

「ったく、仕方ない」

 

 渋々ソファに近づくと、ルナは待ってましたとばかりに身を起こした。期待に満ちた瞳がキラキラと輝いている。

 

「少しで勘弁してくださいよ」


「もちろんっ!!」

 

 差し出した右手に、ルナがいそいそと顔を寄せる。そして、まるで雛鳥が親の嘴をついばむかのように、俺の人差し指の先へ、その小さな唇を添わせた。


 最初は子供が甘えるような、ほんの軽い啄み。しかし次の瞬間、柔らかな唇が指先を包み込んだ。今度は小さく甘噛みする感触が走る。舌先がちろりと触れて、熱を帯びた粘膜が俺の肉球をなぞった。


 さらに、彼女の両手が俺の手のひらを、そして腕を、慈しむようにゆっくりと撫で上げていく。無意識なのか、それともサキュバスの本能か。そのあまりにも無防備な挑発は、ポーカーフェイスを保つ俺の理性をゴリゴリと削ってゆく。

 

「ん……ふ、ぅ……」

 

 ルナの喉から甘い吐息が漏れた。頬が赤く染まり、とろんとした瞳で熱っぽく俺を見上げてくる。その表情は空腹を満たす安堵と、それ以上の何か……種としての根源的な悦びが滲み出ていた。

 

 やめろ、そんな顔で俺を見るな。

 

 俺は心の中で毒づきながら、思わず手を振りほどいた。これ以上は危険だ。年の功で築き上げた理性のダムが、このうら若きあるじの前では、いともたやすく決壊しかねない。

 

「ありがとう、ヴァルグ。少し楽になった」

 

「どういたしまして。だが、根本的な解決になったわけじゃない。いつまでも俺の精気で凌ぐわけには……」

 

「分かってる。分かってるけど……ヴァルグのが、美味しいんだもんっ!!」

 

 悪気なく、無邪気に言い放つルナに、思わず頬を引き攣らせる。このお嬢様は、自分の発言が壮年の雄にどれほどのダメージを与えるか、一切理解していないのだ。


 まったく……番犬稼業も、楽じゃねえな。


 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 穏やかな日々に終わりが来たのは、ある日の午後のことだった。アパートのドアを激しく叩く音が響き、俺は嫌な予感を覚えながら扉を開けた。そこに立っていたのは、できれば二度と会いたくなかった人物とその従者だった。

 

「ごきげんよう、銀狼。駄目な妹の現状を、この目で確認しに来たわ」

 

 挑発的な微笑みを浮かべた女は、ルナの次姉であるリリアーナ・モルケゴール。身体にぴったりと張り付いた、艶やかな漆黒のビスチェドレスが、豊満な胸元と妖艶な肢体を強調している。彼女の後ろには、理知的で狡猾な美貌の悪魔が、氷のような微笑みを浮かべて控えている。

 

「……リリアーナお嬢様。これはまた、急なご来訪で」

 

「ふん。言葉遣いだけはまだ心得ているようね。安心なさい、お前に用はないわ」

 

 艶やかな唇が意地悪く歪む。


「まさか、番犬ごときがわたくしの行く手を遮ろうというのかしら?」

 

 挑発を受け止めながら、俺は言葉を返さず道を開けた。ここで衝突するのは得策ではない。

 

 リリアーナは裾を翻し、まるで自分の館であるかのように部屋へ足を踏み入れる。そして鼻先をひくりと動かし、すぐさま顔をしかめた。


「……この安っぽい空気。辺境の下層民そのものね。よくもまあ、こんな穴倉で生き恥をさらせるものだわ」


 ヒールの音を響かせながら、リリアーナはリビングへと進む。ソファで菓子を頬張っていたルナを一瞥するなり、侮蔑のため息を吐いた。

 

「まだ精気以外の食べ物に頼っているの? 名家のサキュバスとして恥ずかしくないわけ? そのだらしない様は、モルケゴール家の恥よ!!」

 

「お、お姉様……!!」

 

 ルナの顔からさっと血の気が引く。リリアーナは、ルナが最も苦手とする相手の一人だった。優秀で、高慢で、ルナの劣等感を的確に抉ってくる。

 

「フラビアナ姉様は魔界でも有数の公爵家との婚約が調い、弟のバレリアンも魔王軍の方面司令官に就任した。それに比べて、この出来損ないときたら」

 

 リリアーナは肩をすくめるようにして嘲笑う。

 

「母上も嘆いているわ。いつまで辺境で油を売っているつもりかと。さっさとまともに精気を集められるようになるか、できないなら、家のための道具になるか。どちらかを選びなさい、ですって」

 

「道具……?」

 

「ええ。政略の駒として、オーグルの財閥の慰み者になる道もあるということよ。醜聞好きなオーグルなら、あなたのような出来損ないでも喜んでもらえるでしょうから」


 青ざめるルナの反応を楽しむように、リリアーナはさらに畳みかける。


「出来損ないをいつまで遊ばせておくのかと、一族会議でも議題に上がったのよ」

 

「そ、そんな……」


「今日来たのは、その一族会議の決定を伝えるためでもあるわ。猶予はあとひと月。それまでにまともなサキュバスになれなければ、オーグルの下に嫁がせるから覚悟なさい」

 

 ルナの唇がかすかに震え、目が潤む。そのか細い肩を、俺は衝動的に抱き寄せそうになり、堪えた。


 俺は番犬。主人の家族間の問題に口を出す資格はない。だが、主を侮辱されることは、自身を侮辱されることと同義だ。

 

「お言葉ですが、リリアーナお嬢様」

 

 立場を忘れ、俺は思わず声を上げていた。


「ルナお嬢様は、あなた方の道具ではございません」

 

 リリアーナの目が、まるで面白いものを見つけたかのように細められる。

 

「ふん。銀狼ともあろう者が、なぜこんな出来損ないの番犬に成り下がったのかしら。愚かになったものね」

 

「何とでも。だが、主を侮辱された番犬が牙を剥くとなれば、その矛先は誰に向かうか……聡明なお嬢様ならお分かりだろう?」

 

 リリアーナの従える悪魔が警戒態勢を取った。俺の放った殺気を、間近で感じ取ったのだろう。リリアーナの妖艶な顔にも、一瞬だけ恐怖がよぎる。しかし、すぐに持ち前の高慢さでそれを塗りつぶし、唇の端を吊り上げて嗤った。

 

「あらそう。……いい番犬じゃない。出来損ないには過ぎた代物ね」

 

 そして満足そうに微笑み、踵を返した。

 

「でも覚えておくことね。あなたがどれだけ吠えようと、出来損ないの運命は変わらないのよ」

 

 そう言い残すと、リリアーナは従者の悪魔を伴い、まるで自分の勝利を誇示するかのように優雅な足取りで部屋を出て行った。

 

 

 嵐のような女が去り、部屋には沈黙が落ちていた。ルナはソファの端で膝を抱え、小さく肩を震わせている。


 「……ヴァルグ、ごめんなさい。こんな私を庇わせてしまって……」

 

 か細い、蚊の鳴くような声だった。俺はやり場のない怒りで握りしめていた拳をゆっくりと開き、努めて穏やかな声で答える。


「気にするな。あんたは俺の主だ。守るのは当然だろう」


 俺はゆっくりとルナの隣に腰を下ろした。ぎしり、とソファが軋む音が、やけに大きく響く。


「ルナ様。あんたは出来損ないなんかじゃない。ましてや、誰かの道具になるために生まれてきたわけでもない」

 

「……」


「家族が何と言おうと、あんたがどう生きるかは、あんた自身が決めるんだ」


 不器用な慰めしか出てこない自分がもどかしい。もっと気の利いた言葉をかけてやれればいいのだが、生憎と俺は裏社会で血と硝煙に塗れて生きてきた男だ。か弱いお嬢様の慰め方など、知る由もなかった。


 だが、その拙い言葉は、ルナの心に届いたらしい。俯いていた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「ヴァルグ、ありがとう。私、もう逃げるのはやめる」


 濡れた黒い瞳が、俺をまっすぐに見つめている。そこには、初めて強い意志が浮かんでいた。


「お姉様の言葉は悔しいけど、このままじゃ運命は変わらない。もう変わりたいの。自分で選んだ道を歩けるようになるために」


 ルナは震える手で涙を拭うと、小さな拳を握りしめた。その姿は、まるで嵐に立ち向かう決意を固めた小動物のようで、危なっかしくて目が離せない。


「私、ちゃんと一人前のサキュバスになってみせる。そのためにも、まずは一歩、踏み出さなくちゃ」


 やっと前を向いてくれた。その手助けができるなら、俺は何でもしてやりたい。


「そうか……よく決心したな。俺に手伝えることがあるなら、何でも言ってくれ」


 安堵と期待を込めて、俺はできる限り優しい声で言った。そうだ、狩りの仕方でも、護身術でも、何でも教えてやろう。この銀狼の持つ知識と経験の全てを注ぎ込んで、誰にも踏みにじらせない立派なサキュバスレディに育ててやる。


 俺がそんな決意を固めていると、ルナはこくりと頷き、真剣な眼差しで俺を見つめ返した。そして、一度ためらうように唇を開閉させてから、意を決したように、はっきりとした声で言った。


「じゃあ、さっそくだけど、お願いがあるの」


「ああ、何だ?」


「サキュバスとして一番大切なこと。精気をちゃんと集められるようになるための、練習がしたい」


「なるほど。いい心がけだ」


 ついにこのお嬢様も本気になったか。俺は思わず口元を緩ませた。街に出て、手頃な男でも探すのだろうか。それならそれで、俺がしっかりと相手を見極め、安全を確保してやらねばなるまい。


 しかし、俺のそんな殊勝な決意は、続く彼女の一言で木っ端微塵に砕かれることとなる。


「それで、ヴァルグには練習台になってほしくて」


「……ああ?」


「今までも指先から少し分けてもらっていたでしょう? いつもちょっとの緊張だけで済んでるから、きっとその先も……ヴァルグとなら、安心して練習できると思うの」


 ルナは一度深呼吸をして、勇気を振り絞るように続けた。

 

「だから……お願い」

 

「……」

 

「私を抱いてくださいっ!!」


 時が、止まった。

 

 俺の耳は現役時代の修羅場を生き抜いてきた信頼できる相棒だが、今ほど自分の聴力を疑ったことはない。

 

 目の前のルナは、頬を赤くしながらも真剣そのもの。冗談ではないようだ。


 彼女の言葉を脳内で反芻する。精気を集める。練習台。安心して練習できる。だから、抱いてほしい。


 頭が真っ白になり、まともな思考が働かない。そんな状態の俺から出てきたのは、情けないほど締まりのない声だった。


「…………は?」


 この番犬稼業、どうやら命より先に、理性の方が砕け散りそうだ。

 

 

 ◇ ◇ ◇



 あれから半月が過ぎた。


 ルナの唐突すぎる申し出を、俺は言葉を尽くしてうまく収めた。いや、正確には『練習台になるのはやぶさかではないが、まずは街に出て、獲物を見定める目と相手を誘惑する話術を磨くべきだ』とかなんとか言って、どうにかこうにかその場を煙に巻いたのだ。


 街の宿場や酒場で、手頃な相手を見つけて精気を吸う実践練習を提案した。もちろん俺が目を光らせているから、ルナに危険が及ぶことはない。相手にとっても、ルナの現在の能力なら、多少吸われたところで軽い疲労感程度で済むだろう。我ながら名案だと思った。実践を積めば、ルナの技能も向上するだろうし、俺の理性も無事に保たれる。

 

 ……だが、現実は甘くない。


「ごめんなさぁぁいっ!!」


 今夜も宿の前で待っていると、2階の小さなバルコニーへ下着姿の金髪の女が飛び出してきた。相手の男にあわせて変身したルナだ。


 そして彼女の後を追うように、窓から男の怒声が響いた。


「おい、ちょっと待て!! 俺はまだ何もされてないぞ!?」


「すみません!! すみませんっ!!」


 ルナは羞恥で顔を真っ赤にしながら男に何度も頭を下げてから、バルコニーから身を乗り出した。俺の姿を捉え、助けを乞うような目で見下ろしてくる。


「ったく……」


 俺は数歩うしろへさがると、勢いをつけ地面を蹴った。石造りの壁面を軽々と駆け上がり、バルコニーの手すりを掴んで身軽に着地する。


「すまない。連れの不始末だ」

 

「だ、誰だ、お前は!? こ、このといったい、」

 

「ボディガード、といったところか。これは詫びの印だ。受け取ってくれ」

 

 俺は金貨を数枚、男の手に押し付けた。裏社会で数々の交渉をこなしてきた経験から、この程度の額なら文句は出まい。案の定、男は金貨の重みを感じて表情を緩ませる。

 

「こ、これは……いや、別にそんなつもりじゃ」

 

「いや、時間を無駄にさせたからな。今夜のことは忘れてくれ」

 

 男が金貨の輝きに見とれている隙に、俺は羽織っていたロングコートを脱いでルナの肩にそれを掛けた。


「……ヴァルグ」


 安心しきった声で俺の名を呼ぶ主に「行くぞ」と告げ、返事を待たずにその華奢な身体を抱き上げる。


「きゃっ!?」


 小さな悲鳴を上げたルナを抱えたまま、俺はバルコニーの手すりを軽々と乗り越えた。そして、石畳の敷かれた路地裏へ向け、躊躇なく飛び降りる。ほとんど音も立てずに着地すると、腕の中のルナをしっかりと抱え直し、夜の闇に紛れてその場を後にした。


 人通りのない裏路地まで来て、ようやく彼女を地面に下ろす。ルナは、いつの間にか金髪美女の姿から、見慣れた黒髪ロングボブの姿へと戻っていた。俺のコートを羽織った小柄な彼女は、まるで子供が大人の服を借りているようで、無性に庇護欲をかき立てられる。


「やっぱり、だめだった……」


 ルナは俯いたまま、蚊の鳴くような声で呟いた。この半月、様々な男に手当たり次第に誘惑を試みてきたが、ルナは毎回途中で逃げ出してしまい、精気を得ることは一度もできなかったのだ。


「また同じパターンか?」


「うん、良い雰囲気にはなってたんだけど……いざ触れ合い始めたら、なんだかすごく怖くなっちゃって……それで、結局何もできないまま、逃げ出しちゃった」


 説明はいつも同じだった。いざという段階になると、理由もなく恐怖に襲われ、次に進めなくなってしまうのだという。


 この半月の観察で、俺なりに見えてきたことがある。やはりルナの優しすぎる性格が、サキュバスとしての本能に致命的なブレーキをかけているのだ。他者から精気を奪うという行為に対する拒絶反応――それも意識下の深い部分での忌避感が、彼女の成長を阻んでいる。このままでは、どれほど実践を重ねても解決には至らないだろう。

 

「やはりルナ様の根底には、他人を傷つけることへの抵抗があるんだ」

 

「でも、私はサキュバスなのに……」

 

「サキュバスである前に、あんたはあんただ。優しい心を持つことは、決して恥ずべきことじゃない」

 

 こんな風に慰めの言葉をかけるたび、俺の胸の奥で何かが疼く。


 このままでは彼女の未来が危うい。猶予の残り2週間など、あっという間に過ぎ去ってしまう。ルナを救うためには――もういっそ腹を括って、俺が練習台になるのが一番確実で手っ取り早い方法なんじゃないのか。

 

 だが、その考えは危険すぎる。

 

 俺はルナを、ひとりの女として見てしまっている。単なる練習台として割り切れるほど、俺の気持ちは軽くない。このお嬢様に触れた瞬間、果たして俺は理性を保っていられるのか。サキュバスの魅力に当てられ、獣の本能に支配されて、彼女を傷つけるようなことにならないか。年の差も、立場も、何もかもを忘れて、このか細い体を貪ってしまいそうになるだろう。そんな自分が恐ろしかった。

 

 それに、もし俺が彼女を抱いて、途中で怖がらせてしまったら。ルナが恐怖で逃げ出す相手の一人に、俺自身がなってしまったら。

 

 ……いけない。今はルナのことだけを考えろ。

 

 俺は深く息を吸い、渦巻く欲望を理性の奥底に押し込める。そして、出来れば使いたくなかった方法を提案することにした。

 

「……明日は、別の手段を試してみましょう」

 

「別の手段?」

 

 ルナが不安そうに問い返してくる。

 

「ああ。実は、当てがあるんだ。街の娼館で、他のサキュバスから話を聞いたり、実技を見せてもらう」

 

「えっ、娼館?」

 

 ルナの目がまん丸になった。

 

「もちろん、あんたが客を取るわけでも、店を利用するわけでもない。同業者から技術を学ぶんだ。プロのサキュバスなら、ルナ様が抱えている問題についても、何かしら助言をくれるかもしれないだろう?」

 

 俺は努めて冷静な口調で説明を続ける。

 

「信頼できる店がある。そこの店主なら、事情を話せば協力してくれるはずだ」

 

「で、でも、そんなところに行って、私なんかが教えてもらえるのかな……?」

 

「俺も同行する。大丈夫だ、心配するな」

 

 ルナはまだ迷っているようだったが、やがて小さく頷いた。

 

「……分かった。ヴァルグがそう言うなら、私、やってみる」


 

 そして、翌日の夕方。


 俺たちはダスクエンドの歓楽街へ来ていた。石畳の通りには色とりどりのランタンが灯り、夜でも昼間のように明るい。酒場や賭博場、そして娼館が軒を連ね、様々な種族の男女が行き交う。魔界の辺境都市とはいえ、こうした歓楽街だけは他の都市に引けを取らない賑わいを見せている。その中でも、ひときわ上品な佇まいを見せるのが、俺たちの目的地だった。

 

 『Rose of the Hellfire』。深紅の薔薇と地獄の炎をモチーフにした看板には、筆記体の店名が妖艶な光を放っている。建物は3階建てで、外観は貴族の邸宅のような贅沢な造りだ。ダスクエンドの歓楽街でも、指折りの高級店として知られている。

 

「すごく立派なお店ね。もしかして、ヴァルグはよくここに?」

 

 ルナが、どこか不安げな声で聞いてきた。

 

「勘違いするな。俺がここに足を向けるのは仕事の時だけだ」

 

「仕事って、どんな?」

 

「情報収集や、一時的な隠れ家として使わせてもらったりな。店主は古い知り合いなんだ」

 

「そ、そうなのね……」

 

 彼女は少しほっとしたような表情を見せた。が、すぐに頬を赤らめて俯く。

 

「べ、別に私、ヴァルグがどこに通ってても気にしないから!! ただ、その……ちょっと、気になっただけで……」

 

 慌てて取り繕うその様子に、俺は思わず口元を緩ませる。

 

「言っておくが、俺がここのを受けたことは一度もないですよ」

 

「そ、そんなこと聞いてないっ!!」

 

 真っ赤になって抗議するルナを見ていると、胸の奥が妙にくすぐったくなる。まったく、このお嬢様には敵わないな。


 重厚な扉を開けると、むせ返るような甘い香りと、熱を帯びた空気が俺たちを迎えた。外観に違わず、店内は高級な絨毯が敷き詰められ、壁には趣味の良い絵画が飾られている。下品な喧騒はなく、どこからか流れてくるジャズの音色が、退廃的でありながらも洗練された空間を演出している。


 俺が店の奥に視線を向けた、その時だった。


「あらぁん、いらっしゃ……って、ヤぁダ!! ヴァルちゃんじゃないのぉ」


 カウンターの奥から、絹を裂くような、しかし妙に響きの良い声がした。声の主は、銀糸のような髪を優雅に揺らしながら、こちらへとしなやかな足取りで歩いてくる。体の線を強調する紫の詰襟ワンピースの裾には大胆なスリットが走り、その下には黒い細身のパンツ。鍛え上げられた肉体を惜しげもなく見せつける装いの中性的な美丈夫こそ、この店の主、インキュバスのアルビンである。


「相変わらず騒々しいな、アルビン」

 

「やぁねぇ、つれないこと言ってぇ。アタシがどれだけアンタのこと待ってたと思ってんのよぉ」


 アルビンはそう言うと、俺に抱きつこうと両腕を広げてきた。俺はそれを片手で無造作に制する。


「あん、もう。ヴァルちゃんたら、こんな可愛いお嬢ちゃん連れて。どういう風の吹き回し? まさかアンタ、ついに年貢の納め時が来て、お見合い相手でも紹介されちゃったんじゃないでしょうね!? それとも、人生初のデートってやつかしら!? いやぁんっ♡」

 

「茶化すな、アルビン。いつもの部屋は空いているか?」


 俺が低い声で言うと、アルビンは芝居がかったため息をついた後、紫色の瞳をきらりと光らせた。その表情は、先ほどまでのおふざけが嘘のように、鋭い店主のそれへと変わっている。


「……分かったわよ。さ、こちらへどーぞ」


 通されたのは、最上階にある貴賓室だった。アルビンが人払いすると、部屋には俺たち三人だけが残された。その瞬間、彼の纏う空気がふっと変わる。椅子に深く腰掛けたアルビンは足を組み、値踏みするように俺とルナを見比べた。


「で、本題は何だ? 銀狼。アンタが女連れでうちに来るなんて、よほどの事だろう」


 先ほどまでのふざけたような態度は消え、甘ったるかった声も低く落ち着いた男の声になっている。これが、彼の本性だ。裏社会でも名の知れた情報屋であり、この歓楽街を支配する実力者。現役時代、俺は彼のこの顔に、何度も助けられてきた。


「彼女は、ルナ。俺が護衛をしているサキュバスのお嬢さんだ。本来の力を発揮できずに困っていてな。お前の店の子たちから、何か教えてもらえることがあるんじゃないかと思って頼みに来た」


「ふぅん……」

 

 アルビンはルナに視線を移した。インキュバスの魔眼が、彼女の魂の奥底まで見透かそうとしている。


「なるほどねぇ。こりゃ、根が深そうだわ」

 

 再び軽薄な口調に戻りながらも、その瞳は笑っていない。

 

「アタシのとっておきの子を呼んであげる。ちょっと待ってなさい」


 アルビンがそう言って席を立つと、ほどなくして、一人の女を連れて戻ってきた。


「紹介するわ。うちの看板娘の一人、ヴィヴィアンよ」

 

 現れたのは、落ち着いた美貌を持つサキュバスだった。艶やかな栗色の髪を肩で切り揃え、深い緑の瞳には知性と慈愛が宿っている。露出の多い衣装を身に纏いながらも、どこか上品な印象を与える女だ。

 

「初めまして。ヴィヴィアンと申します」

 

 彼女は丁寧に一礼すると、ルナに微笑みかけた。

 

「アルビン様から事情をお聞きしました。お力になれるよう、努めさせていただきます」

 

「は、はい。よろしくお願いします」

 

「じゃあ、さっそく見せてもらいましょうか」


「え、っと……」

 

 ルナは困惑した様子で俺を見上げてくる。俺がアルビンへ視線を向けると、彼は任せておけと言わんばかりに片目を瞑って見せた。俺は小さく頷き返し、ルナの肩にそっと手を置いた。


「心配しなくていい。彼女は信頼できる」


 ヴィヴィアンは優しく微笑みかけ、ルナの手を取りソファへ導いて向かい合うように座らせた。


「まずは、あなたの心の奥を少しだけ覗かせてもらいますね。さぁ、リラックスして」


 そう言うと、ヴィヴィアンはルナの頬にそっと手を添えた。その瞬間、彼女の緑の瞳が神秘的な光を帯びる。


「きれいな瞳……まるで新月の夜の湖面みたい。でも、とても深いところに、何か重いものを抱えている」


 ヴィヴィアンの指先が、ルナの頬から首筋を降り、左右の鎖骨をゆっくりと撫でていく。まるで恋人同士のような、親密な仕草だ。


「ん……」


 ルナの頬がほんのりと赤らんでいく。ヴィヴィアンの愛撫を受けて、彼女の心の扉が少しずつ開かれているのが見て取れた。


「怖がらないで……そう、力を抜いて……」


「……ぁっ」

 

 小さな吐息を漏らしたルナの瞳が、とろりと潤む。

 

「良い子ね……私に、委ねて」


 ヴィヴィアンの囁きは、甘い媚薬のようにルナの抵抗を溶かしていく。彼女の指はルナの身体を慈しむように滑ってゆく。


「あなたの心はとても優しいわ。傷つきやすくて、脆い。でも、その奥には、マグマのような熱い力が眠っている……」


 ヴィヴィアンは絡めたルナの指を一本一本確かめるように撫でると、その甲にそっと唇を寄せた。そして、ルナの耳元に顔を寄せ、囁く。


「どうして、その力を使うのを怖がるの? 本当は、誰よりも強くなれるのに」


 その言葉と同時に、ヴィヴィアンはルナの身体をソファにゆっくりと押し倒した。ルナの上に覆いかぶさるようにして、その瞳を覗き込む。緑の瞳は、魂の深淵を覗き込む神秘の輝きに満ちている。


 俺は眉間に皺を寄せながらも、固唾を飲んでその光景を見守っていた。腹の底で苦い感情を燻ぶらせながら。


「……見えた」


 ヴィヴィアンの呟きに、部屋の空気が張り詰めた。


「あなたの心の、一番深い場所。固く閉ざされた、記憶の扉が。……あぁ、なんてこと……これは……!!」


 ヴィヴィアンの表情が驚愕に変わる。そして、憐れむような、どこか悲しげな瞳でルナを見つめた。


「緑豊かな野原……幼いあなたと……人間の少年。ああ、そう……これが、あなたの最初の……」


 ヴィヴィアンの口を通して、俺の脳裏にも鮮明な光景が流れ込んでくるようだった。無邪気に笑う、幼い日のルナ。その隣には、快活そうな人間の少年。二人はじゃれ合い、そして、ルナが背伸びをするように、少年の頬にキスを贈る。微笑ましい、子供同士の戯れ。だが、その直後、光景は一変した。


「違う、あなたは力が弱いんじゃない。むしろ、その逆……!! そのキスに、莫大な潜在能力が、制御できないまま……!!!!」


 ヴィヴィアンの声が悲痛に歪む。少年がその場に崩れ落ち、顔面を蒼白にさせ、苦痛に喘ぐ。みるみるうちに生命力を奪われ、衰弱していく。その光景を前に、幼いルナが絶望に顔を染め、悲鳴を上げる。


「あなたの優しすぎる心が、その強大な力を”他者を害する呪い”だと、魂に刻みつけてしまったのね……」


 全ての原因が、白日の下に晒された、その瞬間。


「っいやぁぁぁっっ!!」


 ルナが絶叫した。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!! 私……私のせいでっ……!!」


 瞳は恐怖に見開かれ、激しい過呼吸を繰り返し、ガタガタと震えている。忘れていた悪夢が脳裏にフラッシュバックしているのだろう。

 

 そして突然、ルナの身体から力が抜け、糸が切れた人形のように動かなくなった。


「ルナ!!」


 俺は即座に駆け寄り、意識のないルナを抱きかかえた。その顔は蒼白で、びっしょりと冷たい汗が滲んでいる。


 ヴィヴィアンは自らの額の汗を拭い、疲労の滲む声で言った。


「……こんな潜在能力、私も初めて見ました。優しすぎる心が、その強大な力に魂レベルで蓋をしてしまっているのでしょうね。自分の力が大切なものを壊してしまうという、根源的な恐怖……それが、彼女の枷です」

 

 アルビンはヴィヴィアンの肩を労るように叩くと、下がって休むよう目で合図した。部屋には俺と、腕の中で眠るルナ、そしてアルビンの3人が再び残された。


「そりゃポンコツになるしかない。淫魔の血筋に生まれたのに、慈悲深い心が自分の本質と戦い続けてるんだから。こんな矛盾を背負わされるとは、哀れな子だな」

 

 低い声で、アルビンは核心を突く。その声には、もう軽薄な響きはなかった。


「どうすれば、この枷を外せる」


 俺の問いに、アルビンは組んでいた足を組み替え、やれやれと肩をすくめた。

 

「都合の良いことに、このお嬢ちゃんはアンタのことをタダの護衛だと思ってない。あれは雛鳥が親を見る目じゃなくて、雌がつがいを見る目だからな」


「……何が言いたい」


「呪いを解く方法なんて、昔っからアレと相場が決まっているだろう?」

 

 アルビンはそう言うと、芝居がかった仕草で口元に人差し指をあて、片目を瞑って見せた。先ほどまでの鋭い情報屋の顔はどこへやら、再び軽薄なおふざけスタイルに逆戻りしている。


「そ・れ・は……愛のチカラ、よっ♡」


「……ふざけんなコラ」


 ドスの利いた声で凄むと、アルビンは「あ~ら、怖い」とわざとらしく肩をすくめた。だが、その紫の瞳はもう笑っていない。


「でも、これがあながち冗談でもないのよ。言葉にすると、途端に陳腐に聞こえるけどね」


 彼はひとつ息をつくと、声のトーンを落とした。

 

「”精気を奪うことは、相手を傷つける罪深い行為だ”というトラウマを、”精気を分かち合うことは、至上の愛を証明する行為である”という、強烈な記憶で上書きするのさ」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。


「しかも、この子の場合は人間でも一般的な魔族でも相手は務まらない。彼女が心の底から、魂ごと委ねられるほど信頼しきっていて、なおかつ、彼女が万が一にも力を暴走させてもビクともしない……屈強で、生命力に満ち溢れた相手じゃないと」


 アルビンはそこまで話すと、わざとらしく辺りを見回した。


「ヤダわ~、そんな都合のいい相手なんて、どこにいるのかしらねぇ?」


 そして、俺に挑戦的な笑みを向ける。


「ねぇ、ヴァルちゃん。その有り余る精力と、神代の獣の生命力は……こういう時のためにあるんじゃないの? アンタだって、薄々気づいてるんでしょうに」


 アルビンの言葉が、容赦なく俺の胸に突き刺さる。俺がずっと恐れていた、最後の選択肢。それを、この男はこともなげに、そして的確に提示してきやがったのだ。


 

 ◇ ◇ ◇



 娼館からの帰り道、ルナは一言も口を利かなかった。アルビンの部屋で意識を取り戻した時から、彼女の表情には深い絶望が刻まれている。


 アパートに戻ると、ルナは力なくソファに腰を下ろした。

 

「……全部、ヴィヴィアンさんが言った通りなの」


 静かに呟く声は、どこか諦めを含んでいる。


「幼い頃に……私、初めてキスしたあの子を……殺しかけた。あの時の顔、今でもはっきり浮かぶの。息ができなくなって、苦しんで、私のせいで……」


 ルナは両手で顔を覆った。肩が小刻みに震えている。俺はその隣に腰を下ろし、黙って見守っていた。かけるべき言葉は幾つも浮かんだが、どれも彼女の痛みに触れられそうになかった。


「私、怖いの。また誰かを壊してしまうんじゃないかって……だから、サキュバスなのに、誰一人まともに気持良くしてあげられない。……みんなが言う通り、出来損ないだね」


 掠れた声で吐き出すその言葉に、胸が締め付けられる。


「違う」


 気づけば、俺は強い声で遮っていた。


「ルナ様は出来損ないなんかじゃない。むしろ、誰よりも強い。自分の力を恐れて、命を大事に思える心を持ってる。それがどれだけ尊いことか……あんたの家族には分からないだけだ」


 彼女は涙に濡れた瞳でこちらを見つめた。そこにはまだ怯えが残っているが、ほんの少しだけ救いを求める色があった。


「だが、このままじゃあんたが潰れてしまう。力を封じるんじゃなく、受け入れるんだ。アルビンの言葉を借りるなら……その枷を外せるのは、精気を奪うんじゃなく、分かち合う相手だけだ」


「分かち、合う……?」

 

「ああ。アルビンの話では、ルナ様が心から信頼できて、なおかつ……その、力を受け止められるだけの生命力を持った相手でなければならないそうだ」

 

 俺は気まずさから視線を逸らした。

 

「信頼できて……強い生命力の……」

 

 ルナは視線を落とし、しばらく黙り込んでいた。やがて、頬を赤らめながら小さな声が零れる。

 

「……そんなの、ヴァルグしかいない」

 

 その一言で、心臓が跳ねた。深く息を吸い、渦巻く感情を整理しようとする。だが、どれほど理性で抑え込もうとしても、胸の奥で燃える想いは消えてくれない。

 

「ルナ様……本当に、それでいいのか」

 

 俺は低い声で続ける。


「モルケゴールの側仕えが、主の夜の相手を務めるのは承知している。だが、俺があんたを抱くなら、それは義務でも契約でもない。ひとりの雄として、ルナ・モルケゴールという雌を心から求めるからだ。その違いが、分かるか?」

 

 ルナの黒い瞳が見開かれ、頬にほんのりと赤みが差した。それでも、その視線は俺から逸れることなく、真っ直ぐに見つめ続けている。


「あんたはまだ若い。本来なら、もっと広い世界を見て、自分に相応しい相手を見つけるべきなんだ。それなのに、俺のような」

 

「ヴァルグ」


 ルナが俺の言葉を遮った。いつになく強い口調だった。

 

「私ね、気づいたの。お姉様が来た時に。私が本当に欲しいものって、家族に認められることでも、立派なサキュバスになることでもないんだって」

 

 彼女は俯き、膝の上で手を組んだ。

 

「ヴァルグが一緒にいてくれれば、私、それだけで充分幸せ。このアパートで、毎日おはようとおやすみを言って、一緒に食事をしたり出掛けたりして。そんな当たり前の日々が、ずーっと続けばいいって思ってる。……ねぇ、それって、変かな?」

 

 こんなにも純粋で、こんなにも真っ直ぐな想いを向けられて。俺は一体どうすればいいというのか。

 

 きっとこの小さな手を握ってしまえば、もう二度と手放せなくなるだろう。番犬として仕えるという建前も、年の差への遠慮も、全てかなぐり捨てたなら、このお嬢様の枷は今度は俺になってしまうかもれない。

 

「変じゃない。だが、俺は……」

 

 言いかけた言葉を、飲み込んだ。弱音を吐くのは簡単だ。だが、目の前のルナは、自分の恐怖と向き合う決意を固めている。


「ルナ」


 俺はルナの手に自分の片方の手を重ねた。すると、すぐに彼女は俺の手を握り返してきた。

 

「お願い。私を受け入れて。私の全部を、ヴァルグに預けさせて」


 俺も、もう迷いはしない。

 

「分かった。だが、覚悟してくれ」

 

 ルナが首をかしげる。

 

「俺は、間違いなくあんたを手放せなくなる。番犬としてじゃなく、一人の男として。それでも構わないなら……」


 ルナの頬が赤く染まった。だが、その瞳は逸らされることなく、俺を見つめ続けている。

 

「私も、ヴァルグを手放したくない。ずっと、ずっと一緒にいて」

 

 小さな唇から零れた言葉に、最後の理性の糸が切れた。

 

「ああ。分かった」

 

 俺はルナの頬に手を添えると、その顔をそっと持ち上げた。


「俺が、あんたの枷を全て外してやる」


 俺の言葉に、ルナはこくりと頷いた。決意と、そして初めて見せる女の顔をして。部屋の空気が、先ほどまでとは違う、甘く濃密なものに変わっていく。


「……ヴァルグの部屋に、行ってもいい?」

 

 その言葉に含まれた熱と覚悟に、俺は無言で頷き、彼女を自室へと導いた。


 俺の部屋は、ただ寝るためだけの殺風景な空間だ。簡素なベッドと、小さなテーブルが1つ。飾り気のない、男臭い空間。そんな殺風景な空間に、愛しい主を招き入れる。

 

 俺がベッドに腰掛けると、ルナはおずおずと俺の正面に立った。どう切り出すべきか、さすがの俺も言葉に詰まる。数多の修羅場をくぐり抜けてきたが、こと男女の駆け引きに関しては、素人も同然だ。ましてや相手は、俺が心から焦がれる、うら若き主人。不器用な真似はできん。

 

 俺が内心で逡巡していると、先に動いたのはルナの方だった。彼女はすぅ、と息を吸い込むと、震える手で、俺が着ていたシャツのボタンに触れた。

 

「脱がして、いい?」

 

 頷くのが精一杯だった。細い指が、ひとつ、またひとつとボタンを外していく。やがてシャツがはだけ、俺の胸元が露わになった。彼女の冷たい指先が、俺の燻銀の毛並みにそっと触れる。

 

「腕の毛並みよりも柔らかいのね。それに、すごく、あったかい」

 

 ルナはそう呟くと、子供のように俺の胸板に頬をすり寄せた。その無防備な仕草に、腹の底から熱いものがこみ上げてくる。彼女の指は、俺の左胸に残る古い傷跡を、慈しむようになぞった。

 

「これ、痛かった……?」

 

「昔の傷だ。もう痛みも感じん」


 彼女は「そっか」とだけ言って、その傷跡に優しいキスを落とした。そこから全身へ、熱がじわじわと広がっていく。

 

「じゃあ、始めるね」

 

 ルナが顔を上げ、真剣な瞳で俺を見つめる。その瞳の奥には、決意と不安が同居していた。


 くすぐったいような、焦れるような愛撫が続く。拙い手つき。それでも、懸命さが伝わるたびに胸の奥が熱を帯びていく。彼女の唇が、俺の鎖骨の窪みに吸い付いた。


 瞬間、ぞくりとした甘い痺れが背筋を駆け上がり、身体の芯から生命力が穏やかに吸い上げられていく。魂が直接触れ合っているような、抗いがたい快感。わずかな精気をその身に受けただけで、ルナの頬には熟れた果実のような赤みが差し、瞳がとろりと潤み始める。


「ん……美味しぃ……」


 恍惚とした吐息と共に、彼女はもっと深く精気を求めようと、より強く吸い付いた。すると、俺の身体から力が抜けていくのを、彼女自身がはっきりと感じ取ったのだろう。


「っっ!!」


 突然、ルナが短い悲鳴をあげて唇を離した。その顔は蒼白になり、ガタガタと震えだしている。過去の悪夢が彼女を襲っているのだ。


「ごめんなさい……!! ヴァルグの、力が……!! もし、あの子の時みたいに……私が全部、吸い尽くして、壊しちゃったら? ヴァルグが、私のせいで、いなくなっちゃったら……!!」


 パニックに陥る彼女の震える身体を、力強く抱き寄せた。逃がさないとばかりに、その華奢な背中と腰を固定する。


「ルナ。俺を見ろ」


 低い声で命じると、怯えた黒い瞳が、涙の膜越しに俺を映した。


「俺は誰だ?」


「……ヴァ、ルグ……」


「そうだ。俺は無力な子供でも人間でもなければ、そこらの魔族とも違う。古の神狼フェンリルの血を引く、ヴァルグ・ラスケヴァクだ」

 

 俺は彼女の手を取り、自らの血管の浮き出た太い腕に、硬い腹筋に、そして武骨な頬に触れさせた。燻し銀の毛並みの下で、鋼のような筋肉が脈打っている。


「感じてみろ。俺の力は、まだ有り余ってる。あんたに精気を吸われたくらいで壊れるほど、ヤワにできちゃぁいないんだ。いいか、これは”奪う”行為じゃない。俺と、あんたで、”分かち合う”儀式だ。何も恐れるな。ルナ。あんたの全てを、俺にぶつけてこい」


 俺の言葉と、掌から伝わる圧倒的な生命力に、ルナの瞳から少しずつ恐怖が消えていく。やがて、彼女は涙をぐいと拭うと、決意を固めて頷いた。


「……うん。分かった……ヴァルグ、私を受け止めて」


 ルナが再び俺の胸に顔を寄せてくる。今度は、恐れも迷いもなく。彼女の唇は、先ほど中断した鎖骨の窪みから、ゆっくりと旅を再開した。俺の硬い胸筋の起伏をなぞり、心臓の真上を入念に味わい、そして腹の毛並みへと滑っていく。その軌跡を濡れた舌先がねっとりと追いかけ、同時に華奢な指先が別の場所を擽ってくる。そのたびに、俺の身体の芯から生命力が、甘い痺れを伴う快感と共に吸い上げられていった。


「んぅ……ふ……ヴァルグの味……濃くて、甘くて……大好き……」


 うわ言のように、吐息交じりの声が俺の肌を濡らす。彼女の言葉のひとつひとつが、俺の理性を焼き切っていく。俺はシーツを強く握りしめ、こいつを組み敷いて貪り尽くしたいという衝動を、必死に抑え込んだ。これは、彼女の食事でもあるのだから。


 ルナの唇は、やがて俺の臍のあたりで動きを止めた。そして顔を上げ、うっとりと俺を見つめてくる。精気を吸ったことで、彼女の美しさは、ほんの数分前とは比べ物にならないほど増していた。肌は真珠の光沢を帯び、瞳は潤んだ魔性の光を放ち、唇は熟れた果実のように艶めいている。


「ヴァルグ……」

 

 その声も、以前の少女のような響きではなく、男を惑わす蜜を含んだ甘いものに変わっていた。

 

「もっと、ちょうだい。ヴァルグの、もっと熱いところを……私に、ちょうだい」


 その言葉と視線に、俺の最後の自制心は木っ端微塵に砕け散った。


「好きに、しろ……っ!!」


 許可を得たルナは満足そうに微笑むと、俺の昂りきった中心へ、その小さな顔を寄せていく。俺は思わず息を呑んだ。サキュバスとしての本能が、最も濃密な生命力の源を的確に見抜いたのだ。


 そこから先は、もはや理性の通用する世界ではなかった。彼女の拙くも懸命な奉仕に、俺の思考は快楽の熱で溶かされていく。与えられる快感と、吸い上げられる快感。その2つの波が、俺の全身を繰り返し巡っていく。俺は喘ぎながらシーツに爪を立て、簡単に果てるわけにはと、ただただ耐える。


「ルナっ……っ……これ以上は、俺が抑えきれなく、」


「抑えなくていい」

 

 顔を上げたルナが、有無を言わさぬ力強い声で遮った。その瞳は、紫の炎を宿したように妖しく輝いている。

 

「ヴァルグ。私、もう怖くないよ。全部、私がシてあげるから」


 言うが早いか、彼女は俺の身体を軽々と押し倒し、その上に跨った。


 いつの間に、こんな力を。


 俺が驚愕する間もなく、彼女は俺の猛りをその手で掴み、ゆっくりと自らの蜜口へ導いていく。


「……いくよ、ヴァルグ」


 彼女は囁くと、覚悟を決めて、その身を沈めてきた。

 

 信じられないほどの熱と、肉壁の吸い付くような感触が、俺の全てを呑み込んでいく。あまりの快感に、視界が白く点滅した。


「……っは……ぁ……!!」


 初めての経験に、ルナの身体が硬直する。だが、痛みよりも、俺と完全にひとつになったという悦びと、流れ込んでくる圧倒的な生命力の奔流が、彼女の恐怖を打ち消しているようだった。


「あったかい……ヴァルグが、私の中に、いっぱい……」


 彼女は恍惚の表情で呟き、ゆっくりと腰を動かし始めた。最初はぎこちなく、おずおずと。だが、動きを重ねるごとに、そのリズムは滑らかに、そして大胆になっていく。サキュバスとしての本能が、男を悦ばせる術を、その身体に教えているのだ。


 俺はただ快楽に身を委ね、下から彼女を見上げていた。月明かりに照らされたその姿は、もはや神々しいとさえ思えた。黒髪は艶を増し、肌は絹のように輝いている。身体の曲線は、どんな芸術品よりも官能的だ。俺の精気を糧として、彼女は今、この瞬間にも、本来あるべき最も美しい姿へと変貌を遂げている。


「ヴァルグ、……っ好き、大好きっっ……!!」


 愛の言葉を繰り返しながら、ルナの動きが激しくなる。俺の腹を打つ、柔らかな肌の感触。絡み合う吐息。俺の燻銀の毛並みを、彼女の小さな爪が、快感に耐えるように掻き立てる。

 

 もう、限界だった。


「ルナ……!!」


 俺が彼女の名を叫んだのと、彼女が切ないほどに甘い叫びを上げたのは、ほぼ同時だった。

 

 迸る熱が彼女に注ぎ込まれた瞬間、ルナの下腹部から黄金の光が花開いた。俺の精気が彼女の魔力と融合するように、古の符文のような光がルナの全身を包み込んでいく。それは解放の印であり、覚醒の証。ルナという存在が、真のサキュバスとして本来の力を取り戻した瞬間だった。


 

 俺の精気を存分に吸い取った彼女は、そのまま俺の胸の上に、はたりと倒れ込んできた。静寂が戻った部屋で、聞こえるのはふたりの荒い息遣いだけ。俺は力を吸い尽くされ、指一本動かすのも億劫だ。だが、その疲労感は不思議なほど、深い満足感に満ちていた。


 腕の中で、ルナがゆっくりと顔を上げる。その美しさに、俺は息を呑んだ。


 もう、どこにも、へっぽこで出来損ないなサキュバスの面影はない。自信と色香に満ちた、完璧なサキュバスの顔。だが、その瞳には、俺が愛したあの優しく純粋な光が、変わらずに宿っていた。


「ヴァルグ」

 

 そして彼女は、覚醒した美しさの中に、あの人懐っこい笑顔を浮かべた。

 

「おなかいっぱい。ごちそうさまでしたっ!!」


 

 ◇ ◇ ◇



 あの夜から、俺たちの日常は一変した。


 真っ先にしたのは、ルナの過去との決別だ。猶予の期日を待つまでもなく、覚醒したばかりの強大な魔力で、ルナは漆黒の蝶の姿をした遣い魔を生み出した。そして、それに一通の短い手紙を託し、モルケゴール本家へと放ったのだ。

 

 手紙の内容は、簡潔にして苛烈。『私はもう家のための道具ではない。ただのルナとして、愛する者とダスクエンドで生きていく。二度と干渉は無用』という、事実上の絶縁状だった。

 

 以来、モルケゴール家からは何の音沙汰もない。嵐の前の静けさか、それとも、好都合とばかりに切り捨てたのか。どちらにせよ、俺たちの覚悟は変わらない。もし追っ手が来るようものなら、今度は俺の牙が容赦なく奴らの喉笛を噛み千切るだけだ。


 家名を捨てことで、俺たちはこの街で生きていくための糧を得る必要があった。生計を立てるため、俺は再び解決屋の看板を掲げることにした。ただし、血なまぐさい仕事はもう御免だ。アルビンの店を拠点に、人探しや揉め事の仲裁、用心棒といった、多少は表の世界に近い依頼を選んで受けている。

 

 もちろん、当初はルナを危険な現場に連れていくつもりなど毛頭なかった。『あんたは家で待っていろ』と何度言い聞かせても、いつの間にか着いてきて『私も手伝う』と言い張るのだから、始末に負えなかった。


 だが、いざ蓋を開けてみれば、覚醒したルナは俺以上に有能な解決屋だった。値切ろうとする依頼主にウインクひとつで言い値を倍に吊り上げ、口の堅い悪党を上目遣いで見つめるだけで秘密を洗いざらい吐かせる。戦闘になれば、敵の屈強な男たちを魅了し、同士討ちを始めさせる始末。おかげで、俺の剣は鞘に収まったまま、錆びついてしまいそうだ。

 

 ただし、こいつがその魔性の唇で精気を味わうのは、この俺からだけだ。それだけは、金輪際、誰にも譲る気はない。


 昼は、最強のパートナー。そして、夜は――。


 正直に言おう。毎晩、飽きもせずルナに喰らい尽くされている。来る日も来る日も、だ。骨の髄までしゃぶりつくされるとは、こういうことを言うのだろう。


 だが不思議なことに、身体の調子はすこぶる良い。彼女との精気の循環が俺の古傷まで癒しているのか、若い頃よりむしろ頑健になった気さえする。


 だが、それとこれとは話が別だ。昼間の仕事で消費したエネルギーを根こそぎ補給していくのだから、解決屋稼業より、よっぽど骨が折れることに変わりはない。


 ……まったく、番犬稼業も楽じゃない。だが、悪くない。いや、最高だ。こんな幸せな受難なら、いくらでも甘んじて受け入れよう。


 俺がそんな感傷に浸りながら、リビングで酒を煽っていると、寝室からルナが姿を現した。その手には、アルビンのところで仕入れてきであろう、素人目で見てもえげつない形状のが数本握られている。

 

 そして、完全に覚醒したサキュバスの、妖艶極まりない笑みを、ニヤリと浮かべた。


「ねぇ、ヴァルグ。今夜は、ただ食べるだけじゃなくて、こっちも試してみようよ!! そしたら、もっともっと美味しくなれると思うの!!」


 ……前言撤回。


 やっぱり、番犬稼業は楽じゃない。

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へっぽこサキュバスお嬢様の番犬の受難 あたるまひの @atrmhn

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