凡庸の才 その三
訴えを記す命が出てから、さらに月がひとつ巡った。
六波羅の中は、静かに割れていた。
「殿の御政道は柔らかに過ぎる。清盛公の時ならば、こんな狼藉は許されなかった。」
「いや、民の声を聞くことこそ、今の世に必要ぞ。見守るがよい。」
「見守るばかりで、何が変わる。時を逃せば、源氏に先を越される。」
「宗盛様はお優しい方だ。それがいずれ実を結ぶ。」
声は低く、廊の隅や帳の陰で囁かれた。
誰も表立っては言わない。
けれども、火種は見えずとも、煙だけが漂い始めていた。
その煙の向こうで、また別の動きもあった。
宗盛を“御棟梁に据えて己が手で操ろう”と考える者たちが、
密かに文を交わし、動きの遅い命を代わりに出すようになった。
清盛の名の残る印判が、あちこちで勝手に押される。
六波羅は、まだ倒れてはいない。
だが、もはや同じ方向には歩いていなかった。
宗盛はそのことを知っていた。
誰が何を言い、どこで何をしているかも、耳に入っていた。
しかし、それを咎めようとは思わなかった。
咎めるには、皆の言葉があまりに理にかなっていたからだ。
その折、東山の寺から、ひとりの僧が弔問に訪れた。
清盛の葬礼を執り行った法師である。
宗盛は部屋に迎え入れ、茶を供した。
僧は痩せており、眼光は澄んでいた。
「殿下、世の声を聞かれるとか。よきことです。」
「声を聞いても、応えが見えぬ。皆の言うことも尤もだ。父のように出来ぬ我が身が、もどかしい。」
僧は静かに茶碗を置いた。
「殿下、比ぶるは煩悩にございます。
誰かと己を較べる時、人は心を乱す。
かの清盛公のご威勢も、つまるところ“我を信ずる”ゆえにありました。
“父上なら”と問うは、すでに父上に囚われることです。」
宗盛は言葉を失い、手を膝の上で組んだ。
(……比較は、煩悩か。)
その言葉を胸で転がすうちに、
宗盛の脳裏に、父の生前の姿がよみがえった。
炎のような眼で人を見据え、
一度口にした命は、たとえ誰が相手でも翻さなかった。
朝廷をもねじ伏せ、敵も味方も等しく使い潰した。
だが、その背の奥には、誰にも見せぬ疲れがあった気がする。
夜半に廊を歩く影を、幼い頃、一度だけ見た。
誰にも声をかけられず、目を細めて遠くを見つめていた父の背。
あれこそが「欲に焼かれた」清盛の姿だったのだろう。
(父上は、父上の炎で己を焦がしたのだ。)
宗盛はふと、目を伏せた。
そして、夢枕に立った女人の声が甦る。
――よく言葉を聞き、相手の真意を汲みなさい。
あの声は、炎でも剣でもなく、ただ静かだった。
人の苦しみに寄り添い、導くでもなく、脅すでもなく、
ただ「聞く」ことを教えた。
宗盛は、僧に礼を述べて立ち上がる。
(比べるのをやめよう。父上のようにも、女人のようにもなれぬ。
それでも、言葉を聞くことだけは、私にもできる。)
障子の外では、夕の光が長く伸びていた。
京の空はまだ赤く、風が遠くで鈴を鳴らした。
宗盛はその音を聞きながら、
胸の底で、ようやく小石が動いた気がした。
――もし世が、もう少し穏やかであったなら。
宗盛のような男こそ、
きっと良き棟梁と呼ばれたであろう。
だが、世はそれを許さなかった。
物事の理は、いつも後になって明らかになる。
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