家督 宗盛 その二
その夜更け、宗盛は短い眠りの底で、ただ一度の夢を見た。
衣を深く被いた女が、柱の影に立ち、声だけが落ちる。
「よく言葉を聞き、相手の真意を汲みなさい。」
それきり、気配は途切れた。
宗盛は闇の中でひとつうなずいたが、胸の小石はなお重い。
(聞け、汲め……言うは易し。父上なら、どうした。……いや、己で歩け。)
翌日、白河北殿(院御所)へ詣でる。
廂は冷たく、言葉は礼で包まれて硬い。
「都の静謐、なにとぞ。市を乱さぬよう。兵の出入り、荒々しく見せられますな。」
宗盛は、まず額面どおりに受け取ってしまった。
「は……市は閉じます。兵は止めます。ええと──」
近臣の眉が、笑みの下でわずかに動く。言外の針が遅れて刺さる。
(閉じよ、ではない。乱すな、だ。止めよ、ではない。見せるな、だ。こちらを立てよ……父上なら、どうする……)
言葉が喉でからまり、宗盛は咳払いをひとつ。昨夜の一言が耳の内側で合図を送る。
「失礼。……具体にお尋ねいたす。
市は開けたまま、何を慎むべきか。兵の出入りは、どこで、何を控えるべきか。」
近臣は少し姿勢を和らげた。
「御物見の鎧直し、市中では控えられたし。
検問は門外にて静かに。徴発は文書を通し、価を置く。それで市の顔は立ちまする。」
宗盛は遅れて頷き、同じ言葉を繰り返して自分に刻む。
「市は開けたまま。鎧は市で見せぬ。検問は門外。徴発は文書、価。」
御所を出るや、六波羅へ早馬を立てた。
宗盛は勢いで「入京の兵、しばらく止めよ」と書きかけ、筆を止める。
(止めれば、市は持たぬ。……聞け、汲め。父上ならどうする)
米座の年寄を呼び、短く問う。
「兵を止めずに、荒く見せぬ道は。」
年寄は指を折る。
「鎧に布、槍先に覆い。隊は朝に、通りは裏へ。」
宗盛はそれをそのまま写す。
徴発は文書と価。鎧直しで市中を走るな。
検問は門外にて静かに。
鎧は布で覆え。槍先は布で包め。
通りは裏へ、朝のうちに。
言い回しはぎこちない。だが、届く。
寺社の僧には、社領を踏まぬ代わりに施粥と湯薬を願い、隊頭には面前で命じた。
「札を見せて言え。言わずに取るな。」
宗盛はなお不安で、同じ指示を二度言う。
若党が小声で「承知」と笑い、足音を静めた。
都の声も耳で拾う。
米座の年寄は丁寧に言い、丁寧に刺す。
「値を保たねば市は壊れまする。兵の銭が荒れまする。」
宗盛は頷き、言葉を探してもたつき、やっと絞る。
「……蔵出しは段で分けよ。子と老の分を先に。兵の銭は札で数えよ。数えたぶんだけ渡す。」
路地では女たちの井戸端がざわつく。
「徴発の札が来た」「駄賃が出た」「六波羅は荒れぬらしい」
宗盛はそこに立ち止まり、黙って聞いてから、隊頭に向き直る。
「札を見せて言え。言わずに取るな。」
やがて宗盛は、飢饉への備えにも手を伸ばした。
施薬院の僧と米座の年寄を広間に呼び、短く置く。
「粥座は常に開け。米は段で分け、子と老を先に。
田の声はすぐ上げよ。水が悪ければ、人をやる。
麦・稗・粟の播きを妨げるな。余る米は蔵に入れ、札で記せ。」
言い終えると、言葉が続かない。
(父上なら、もっと巧く言えたろう。……いや、要は届けばよい。)
その日のうちに井戸端の噂は変わった。
「六波羅は、飢えの前に粥を置くのだ」と。
その頃、東から荒い風が吹きはじめる。
以仁王の令旨が走り、源氏が旗を上げたと報せが重なる。
勝っただの敗れただの、声だけは先に走り、六波羅の広間で若い者が昂る。
「この機に東を撃破すべし。」
宗盛はしばらく黙り、昨夜の一語を胸で反芻し、いつもの調子で繰り返す。
「誰が、何を、言っているか。全部聞け。
聞いてから、動け。」
決め手の文句ではない。だが、宗盛はそれしか持たない。
報は集まり、地図の上に針が増える。
相模で敗れたと聞けば、どこかで立て直したと返る。
(勝ち負けの声は速い。……だが都の米は遅い。人の腹は待たぬ。……父上ならどうする)
宗盛は訴え所にも顔を出し続けた。田の水はけ、橋板の割れ目、粥の塩加減。
取るに足らぬことかもしれぬ。けれど、人を想ふ道は、そこにこそ落ちている。
やがて、駿河・甲斐・信濃の名が地図の端で濃くなった。
富士の裾に焚き火が点るとの報が入る。
目が宗盛に集まり、喉の奥でひと呼吸止める。父の二行を思い、女のひと声を思い、ゆっくり言う。
「兵を向ける。
道を荒らすな。価を置け。まず言葉を聞け。
……できるだけ、そうしてくれ。」
最後の一語は、祈りのように小さかった。
甲の緒を結ぶ指はぎこちなく、胸の小石はなお残る。
(父上ならどうした。……いや、己の足で、聞いて、汲め。)
空は高く、風は乾いている。
富士川は、まだ静かに流れていた。
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