第7話 未来へ
夜の風は乾いていた。
都市の循環空気とは違い、ざらつきが喉を刺激する。
彼は何度も咳き込み、肺の奥まで広がる冷たさに身震いした。
それでも、息を吸うたびに胸の内に新しい熱が芽生える。
「大丈夫?」
彼女が笑いながら肩を叩いた。
「……平気だ」
「慣れないとキツいでしょ。でも、これが本物の空気」
彼女は大きく胸を広げ、誇らしげに夜空を仰ぐ。
都市の壁を越えた先に広がるのは、ひび割れたアスファルトと、崩れ落ちた高速道路の残骸。
街灯はなく、照らすのは雲に滲んだ月明かりだけだった。
背後では警報の赤い光がかすかに瞬いていた。
都市の境界線。その向こうからドローンの羽音が追ってきている気がする。
彼は思わず振り返るが、彼女が肩をすくめた。
「気にすんな。檻に戻るよりマシ」
二人は足を進めた。
廃墟となった建物の影を縫い、砂埃を踏みしめる。
瓦礫の上を歩くたび、靴底が軋む音を立てた。
都市の均一な歩道を歩くときには決して聞こえなかった音だ。
「こわい?」
「……ああ」
「私も」
彼女はあっけらかんと笑った。
「でも、不安を隠すより、ちゃんと怖いって言えるほうがいい」
彼はその笑顔に救われる。
都市で生きてきた二十余年、誰かに「怖い」と言ったことはなかった。
評価を下げる感情は隠すべきものだったから。
だが今、彼女の隣では素直に吐き出せた。
やがて高台に出た。
眼下には広がる荒野、その先に闇の稜線。
そして遠く――かすかに緑が見えた。
「森だ……」
思わず声が漏れる。
夜の薄明かりの中でも、木々の影ははっきりと分かる。
都市では見られなかった色。規格化されていない自然の濃淡。
「見えるでしょ? あそこが目的地」
彼女の声は弾んでいた。
「本当に、行けるのか?」
「行けるよ。行きたいと思えば、ね」
彼は黙り込み、視線を落とす。
足元は瓦礫と砂利。
一歩ごとに転びそうになる。
都市ではあり得ない不安定さ。
けれどその不確かさが、なぜか心地よかった。
「スーツ君」
「……僕の名前は、スーツじゃない」
「ふふ。やっと言えたね」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、今度教えて。あんたの名前」
彼は頷いた。
都市では意味を持たなかった名前が、今はやけに重たく思えた。
彼女にだけは、本当の自分を知ってほしいと思った。
風が強まり、砂埃が舞った。
咳き込みながらも、彼は大きく息を吸った。
喉が痛んでも、胸が熱を帯びても、それは生きている証だった。
背後の都市が、遠くで光を放っている。
整然としたビル群、均一に輝く照明。
安全で、快適で、そして息苦しい檻。
彼は視線を前に戻した。
緑の稜線。遠いが、確かにそこにある。
不安は尽きない。追跡がいつ来るかも分からない。
それでも――。
「きっと、生きていける」
彼は小さくつぶやいた。
彼女が振り向き、にかっと笑った。
「でしょ? だから行こう。私たちの足で」
二人は再び歩き出した。
瓦礫を越え、荒野を踏みしめ、未来へ向かって。
月明かりの下、影が寄り添うように並んでいた。
最適な幸福を拒んだ日 左白 里(サシロ サト) @Sashiro_Sato
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます