【俺に朗報】池袋エンゼルボイス ~時給980円の俺の息が、世界をバグらせるらしい~

ちはやボストーク

第1話:訪問販売と隙間風と歯医者さん

「この悪魔の子が! 塩、塩を浴びるがいい!」


ばさっ、と俺の足元に投げつけられた純白の結晶は、池袋の安アパートの薄汚れた玄関マットの上で、やけにキラキラしていた。


俺、淡島あわしまりく。都内の三流大学に通う、しがない金欠ボーイ 。


人生の一発逆転を夢見て始めた高時給バイト、それが訪問販売会社「ドリームトイ・イケブクロ」 の営業だった。


扱う商品は、知育玩具「ひらめき☆ブレインくん」 。

子供の脳を活性化させる夢のアイテム……らしい。


「ひ、ひらめき☆ぶれいんくんは、お子しゃまの……」

「うるさい! あんたの声を聞いてると、うちの子が夜泣きするんだよ!」


ぷいっ、と目の前でドアが閉まる。いや、あなたん家のガキなんて会ったこともないよ。


はあ、今日も今日とて、完膚なきまでの、ゼロ契約。


サンシャイン通りの喧騒を抜け、無数のアニメショップやケバブ屋がひしめく裏路地を抜け、俺は事務所へと戻った。そこは、スナックと雀荘が同居する雑居ビルの3階にある。窓の外には、隣のビルの室外機しか見えない。


「ちわーしゅ……」


ドアを開けると、先輩の高円寺さんが、ワックスで固めた髪をかき上げながら立ち上がるところだった。


「お、陸じゃん。おつー。俺、午前で3つ売ったから、午後『マッドマックス』観てくるわ。グランドシネマサンシャイン、IMAXの音響がヤバいらしくてさ」


「み、3つもですか……」

「おう。じゃ、あとはよろしく、社長」

「うむ」


高円寺さんは社長にも明るく声をかけ、鼻歌交じりに去っていく。彼の価値観はただ一つ、「いかに効率よくサボるか」だ。


対して、デスクの奥で腕を組んでいたのが、社長の鍋島譲二。 見た目はやり手の経営者だが、実態は常にカツカツの自転車操業だ。


「淡島くん。今日の営業録音テープ、そこに出したまえ」

「は、はい……」


俺は震える手で、ボイスレコーダーを差し出した。社長はすぐに、再生ボタンを押す。


『こ、こんにちはー! どりーむとい・いけぶくろの、あわしまともうしましゅ……』


すきま風みたいな、間の抜けた俺の声が事務所に響く。


子供の泣き声。母親の怒声。そして、ドアが閉まる無慈悲な音。

沈黙。気まずいにもほどがある。

やがて、鍋島社長は深々とため息をつき、そして言った。


「……これは……逆に芸術だな。人の購買意欲をここまでゼロに近づけるとは……」

「す、すみません……」

「いや、謝ることはない。君の声には、ある種の才能がある。あらゆる商談を破綻させるという、稀有な才能が」


価値観が「売れるか、売れないか」しかないこの人からの、最大級の皮肉だった。


そのときだった。ガチャリ、と事務所のドアが開いた。

入ってきたのは、上等なツイードのジャケットを着こなした、白髪の老人だった。


「鍋島くん、いるかね」

「おお、先生! お待ちしておりました!」


鍋島社長が椅子から飛び起き、深々と頭を下げる。誰だ、このじいさん。

心の声が聞こえたのか、白髪男が俺をじろりとにらむ。


「は、はじめまして! わたくし、淡島陸と申します!」


俺はあわてて挨拶をした。マニュアル通りに腹から声を出すのも忘れない。

その瞬間、老人の目が、カッと見開いた。


「……ほ、ほーーーーーーーうっ」


老人は俺にずんずんと歩み寄ると、耳をすませ、俺の顔をあらゆる角度から凝視し始めた。近い近い近い。


「社長、この男の声は……まるで隙間風だ。いや、オーケストラの中に紛れ込んだ、調律の狂ったリコーダーだ」

「は、はあ……」

「君、口を開けなさい」


「え?」


有無を言わさず、老人の指が俺の口に突っ込まれ、こじ開けられた。


「なるほど、これか! 歯間が……国道か? これでは息がダダ漏れだ。全ての音が、この国道を通って霧散している」


意味が分からない。俺の口の中に首都高でも通ってるってのか。


「この不協和音! この完璧なまでのノイズ! 破壊される寸前の楽器だけが奏でる、なんと甘美な響きだ! しかし、しかぁし……これを調律すれば……!」


老人は鍋島社長に向き直ると、断言した。


「鍋島くん。こいつを借りるぞ」

「え、先生? と言いますと?」

「素材だ。こいつは、磨けば神にも悪魔にもなる、最高の素材だ」


わけがわからないまま、俺は老人に腕を引かれ、事務所から引きずり出された。


連れてこられたのは、池袋西口公園の裏手にある、古びたビルの最上階だった。看板には『四谷デンタル研究所』とある。なんだ、研究機関? いや、ただの歯医者か。


だが、「研究所」の中に並んでいたのは治療器具だけではなかった。壁には様々な動物の顎の骨格標本が飾られ、診察台の横には、いくつもの音叉を組み合わせて作られた、歯の形をした奇妙なオブジェが不気味に佇んでいた。


俺は、半ば無理やり診察台に寝かされ、部分麻酔を打たれた。意識が朦朧とする。何か、口の中で機械が高速で回転する音と、接着剤みたいな匂いがした。


どれくらいの時間が経っただろうか。


俺が目を覚ますと、例の白髪の老人が、満足げな顔で俺を見下ろしていた。

口の中が腫れぼったくて、うまく喋れない。


「あ、あの……」

「まだ喋るな。すぐに馴染む」


老人は俺の胸ポケットに、一枚の名刺を差し込んだ。

そこにはこう書かれていた。


超 絶アルティメット 口 腔オーラル 調 律 師チューナー 四谷弦蔵』


四谷と名乗る老人は、白衣のポケットに手を突っ込み、神託のように告げた。


「君は天使になるのだ」


麻酔で痺れた頭で、俺はその言葉の意味を、全く理解できずにいた。


これが、俺の平凡な日常がバグり始め、やがて世界のシステムをクラッシュさせることになる、記念すべき第一日目の出来事だった。(第2話に続く)

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