灰色の書斎事件

マゼンタ_テキストハック

灰色の書斎事件

 深い霧がロンドン郊外のファーガスン邸を覆い、静寂がその広大な敷地を支配していた。著名な東洋学者、ヘンリー・ファーガスン教授の書斎は、その夜も煌々と明かりを灯していたが、翌朝、彼は机に突っ伏し、冷たくなっていた。内側から固く閉ざされた扉と窓は、完全なる密室を象徴していた。エミリー夫人の嗚咽が響き、助手ハワードは顔面蒼白で無実を訴えるばかり。しかし、長年教授に仕えた執事マクレーンだけは、感情を排したかのように冷静だった。書斎の机上には、グラスが転がり、赤ワインがこぼれていたが、そのワインから毒物は検出されなかった。


 シストシード警部が、かの名探偵ツャーロック・ホオムズに状況を説明した。

 「急性心不全というやつですな。自殺で決まり……と断定したいところですが、遺産が絡んでおりましてね。ご高名な探偵様にお越しいただいたわけです。まあ、探偵様がいなくても、このような事件、私どもだけで――」

 警部がごにょごにょともらしている間、名探偵は本棚を調べていた。そして、机の上に開かれた古書に手を伸ばした。そのページの端には、微かに乾いた赤ワインの染みがあった。


 「教授は、書見しょけんの際、紙片を栞代わりに使っていた」ホオムズは誰かの名刺サイズの紙片を手にしていた。「そして、埃を嫌い、グラスの上に置いていたようだね」

 ホオムズがグラスの縁に残されたわずかな痕跡を指し示す。

「そうかもしれないね」クトスンは頷いた。

「その紙片に毒が仕込まれていたら?」

 クストンは息をのんだ。

「まさに。毒は教授自身の手によって、知らず知らずのうちにグラスへと導かれたのさ」

「でも……」

「紙片にしみ込んだ毒は、徐々に気化して、沈んだ。空気よりも重たかったのだろうね。すると、グラスには毒ガスが充満することになる。教授はそれを吸い込んだのさ」

「なるほど」

「化学の初歩だよ、クトスン」

「でも一体誰が?」

 クトスンはホームズに紙片を渡された。名刺サイズというよりは、まさに名刺だった。クストンにも犯人がわかった。

 名探偵の視線が助手ハワードを射抜く。

「夫人も執事も名刺などもちませんよ。すると、あなたしかいませんね、ハワード君。想像するに、助手としての働きが報われず、遺産からも除外されようとしていた……、という動機ですかね」

 ハワードの顔から血の気が完全に失せ、肩が小刻みに震え始める。

「……あの方は、私を、裏切ったのです……」

 ホオムズは静かに身なりを整え始めていた。

「密室とは、人間の習慣という、最も見落とされがちな鍵によって、いとも容易く破られるのだよ」

 その言葉は、書斎の闇に吸い込まれていった。

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