第二章 運命の転落
午前五時三十分。アラームが鳴る十分前に、紅子は目を覚ました。十年間続けている習慣だった。規則正しい生活リズムは、成功者の条件の一つだと信じていた。
シャワーを浴び、プロテインスムージーで軽く栄養を補給する。鏡に映る自分を確認——完璧な体型、艶やかな髪、引き締まった表情。今日も「勝てる」自分の出来上がりだ。
ランニングウェアに着替え、GPSウォッチを装着する。今日のコースは皇居一周七・五キロメートル。いつものように、五分三十秒のキロペースで走る予定だった。
マンションを出ると、東京の朝の空気が頬を撫でていく。まだ薄暗い街並みに、ところどころ明かりが灯っている。早朝のこの時間は、競争の激しい日中とは違って、どこか静寂に包まれていた。
皇居外苑に着き、軽くストレッチを済ませる。他にも何人かのランナーが準備運動をしている。互いに軽く会釈を交わしながら、それぞれが自分のペースで走り始める。
最初の一キロメートルは順調だった。呼吸も安定し、足取りも軽い。昨夜の奇妙な感情も、朝の清々しい空気とともに消えていくようだった。
「やっぱり私には、これが一番合っている」
走ることで頭がクリアになり、今日のプレゼンテーションの段取りを再確認する。午後二時から始まる重要な会議。今回の案件が成功すれば、さらなる昇進も見えてくる。
二キロメートル地点を通過。ペースは完璧だ。心拍数も理想的な範囲内を保っている。すべてがコントロール下にある——そう思った瞬間だった。
突然、視界がぼやけ始めた。最初は汗が目に入ったのだと思った。しかし、瞬きをしても、視界は改善されない。それどころか、だんだんと焦点が合わなくなってくる。
「おかしい……」
紅子は走るペースを落とした。しかし、足に力が入らない。まるで足が自分のものではないような奇妙な感覚だった。
めまいが襲ってきた。周囲の景色が揺れ、地面が傾いているように感じる。他のランナーたちの姿も、霞んでよく見えない。
「大丈夫……大丈夫よ……」
自分に言い聞かせながら、紅子は道の端に寄ろうとした。しかし、体が思うように動かない。足がもつれ、バランスを失いそうになる。
激しい頭痛が襲った。まるで頭蓋骨の内側からハンマーで殴られているような痛み。紅子は頭を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
「助けて……」
小さな声で呟いたが、周囲のランナーたちには聞こえない。視界がさらに暗くなり、意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、朝日に照らされた桜並木だった。まだ葉桜の季節で、薄緑色の若葉が風に揺れている。その美しさが、なぜかひどく切なく思えた。
そして、紅子の意識は闇に包まれた。
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病院のベッドで目を覚ましたとき、紅子は自分の置かれた状況を理解するのに時間を要した。白い天井、消毒薬の匂い、遠くから聞こえる機械音。ここは病院だと分かったが、なぜ自分がここにいるのか、記憶が曖昧だった。
「紅子! よかった、気がついたのね」
母の声だった。振り返ろうとして、紅子は愕然とした。
首が動かない。
それどころか、体のどこも動かない。
「お、お母さん?」
声を出そうとしたが、かすれた音しか出なかった。喉の奥に管のようなものが入っているのを感じる。
「紅子、落ち着いて。今、先生を呼んでくるから」
母の足音が遠ざかっていく。紅子は必死に状況を理解しようとした。体が動かない。声もまともに出ない。これは夢なのだろうか? それとも……。
白衣を着た中年の男性が現れた。医師だと分かる。その後ろに、両親と雄一郎が心配そうな顔で立っている。
「葉桜さん、私は神経内科の佐藤です。気分はいかがですか?」
紅子は答えようとしたが、やはり言葉にならない。
「まず、落ち着いて聞いてください。あなたは脳幹梗塞を起こされました。幸い、生命に別状はありませんが……」
医師の言葉が続く。しかし、紅子の頭にはその深刻さが理解できなかった。脳梗塞? 二十九歳の自分が? そんなはずはない。
「現在の症状としては、閉じ込め症候群という状態です。意識ははっきりしているのですが、体の動きや発話に障害が出ています」
閉じ込め症候群。
その言葉が、紅子の心に重くのしかかった。
「ただし、眼球の動きと瞬きは可能です。コミュニケーションは、瞬きの回数で行うことができます。一回が『はい』、二回が『いいえ』という具合に」
医師の説明を聞きながら、紅子は必死に現実を受け入れようとした。しかし、頭の中は混乱の渦に巻き込まれていた。
「リハビリテーションにより、ある程度の改善は期待できます。しかし、完全な回復には……時間がかかるかもしれません」
その「時間」という言葉の持つ意味を、紅子はまだ理解していなかった。
夕方になって、ようやく一人の時間が持てた。両親は一時帰宅し、雄一郎も会社に戻った。病室には、紅子と機械の音だけが残された。
天井を見つめながら、紅子は自分の状況を整理しようとした。
体が動かない。
声が出ない。
しかし、意識ははっきりしている。
まるで健康な心が、動かない体の中に閉じ込められているようだった。
最初に湧き上がったのは、強烈な否認の感情だった。
「これは悪い夢よ。明日の朝には、いつものように目が覚める」
しかし、時間が経つにつれて、これが現実であることを受け入れざるを得なくなった。完璧だった人生が、一瞬にして崩れ去った。キャリア、恋愛、すべてが意味を失ったように思えた。
夜が更けても、紅子は眠れなかった。
闇の中で、様々な思いが頭の中を駆け巡る。
「なぜ私が? 私は人より努力してきた。健康にも気を使っていた。なのに、なぜこんなことに……」
怒りが込み上げてきた。
神に対する怒り。
運命に対する怒り。
この不公平な世界に対する怒り。
だが、どれほど怒っても、現実は変わらない。
深夜、看護師がやってきた。
「葉桜さん、眠れませんか? 辛いでしょうけれど、体を休めることも大切ですよ」
優しい声だったが、紅子にはその同情が屈辱的に感じられた。
今まで同情されたことなど、一度もなかった。
常に周囲から羨まれ、尊敬される存在だったのに。
看護師が去った後、紅子は再び天井を見つめた。そこには、何の変化もない白い面が広がっているだけだった。まるで自分の未来のように、何の希望も見えない白い空間。
「私の人生は、これで終わりなの?」
その問いかけに答えてくれる人は、誰もいなかった。
朝が来ても、紅子の絶望は深まるばかりだった。
新しい一日が始まるたびに、自分の置かれた状況の深刻さが、より鮮明に理解されていく。
今まで当たり前だと思っていたこと——歩くこと、話すこと、自由に手を動かすこと——のすべてが、もはや不可能になった。
完璧な人生を築き上げてきた葉桜紅子は、一夜にして完全に無力な存在になってしまったのだった。
しかし、これは長い旅路の始まりでもあった。
絶望の底で、紅子は自分でも気づかない変化の種をすでに宿していた。
だがそれが芽吹くまでには、まだまだ長い時間が必要だった。
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