四月七日(木)
何度も目が覚めた。
目が覚める度に唯香の姿を確かめた。彼女は僕の枕の横で寝ている。僕の顔との距離は二十センチくらい。少し背中を丸め、顔をこっちに向けて眠っている。それは、どんなに上手く造られたフィギュアよりも精巧で緻密だった。一瞬、遠近感がおかしくなった感覚にとらわれる。僕の方が巨大化したのではないか、と勘違いする変な感覚だった。小さい頃に読んだ『ガリバー旅行記』の挿絵が頭に浮かぶ。横たわるガリバーに小人がロープで身体を縛っている場面だ。そういえば、小さい頃に読んだあの話も小人の住む島にガリバーが漂着する話だったな、と思い出した。実際は僕が大きくなったのでない。彼女が小さいのだ。
エイプリルフールはとうの昔に終わっている。ここ最近に起こったことは嘘でも夢でもない出来事なのだ。僕はこっそり自分の太ももをつねってみた。この所作は彼女の存在を知った時から何度となく行われた。確かな痛みがそこにあった。もしかしたらこれは痛みのある夢なのではないだろうか、とも思う。しかしテレビを付けると現実が目の前に際限なく広がった。大地震は確かにあったし、原発事故や被災地の状況は地震の直後よりリアリティーを増していた。空からの津波の映像や家や車が流されているといった現実離れした映像よりも、連日放送される避難所の様子や福島原発のニュースの方が何倍もリアリティーがあった。本当にあの悪夢のような大地震はあったのだ。
ベッドに横たわったままカーテンを少し開けて外の様子を見た。まぶしい天気だ。今日も満開の桜が程よい風に揺れていた。陽気が視覚的に伝わってくる。散歩にでも彼女を連れて出かけたいと思った。
カーテンを閉め、再び唯香の方に視線をやる。彼女の目はいつの間にか開いていた。起きて僕を見ている彼女の目はとても澄んでいる。
「おはよう」と唯香の方から言った。「おはよう」と僕も言う。
写真で見たあの顔よりさらに愛くるしい。僕をじっと見つめるその目を、僕は見続けることが出来ない。目が合うとそれだけで重罪のような気がした。僕は何度もあったこの状況を全て僕の方から目を逸らすという行為で終らせてきた。そしてそれらのことを全て彼女は知っていて、またそれらのことを楽しんでいるようにも見えた。うぶな少年をからかう親戚のお姉さんの雰囲気にそれは少し似ていた。しかし実際は僕の方が年上だし、この雰囲気を丸ごと許せない自分もそこにはいた。
沈黙と静寂は違う。沈黙とは自分以外の誰かを意識した場合の静寂だ。唯香がこの部屋にやって来てから度々訪れた沈黙は、いつしか心地の良い静寂になっていった。彼女がここにいても気まずい沈黙はもう無い。無理矢理、何かを話す必要も無かった。彼女がそこにいても自然だし、その静寂から満たされた気持ちにもなれた。
ワンルームのこのアパートの部屋にあるものは限られている。六畳の部屋に生活に必要な全ての物があった。ベッド、ローテーブル、テレビ、テレビ台、冷蔵庫、二百枚のCDが収納できる木製のラック。全身鏡。小さなクローゼットに服は全部入れてあった。そんなに多く入るわけではないので、服を買う時はかなり迷ってから買うことにしている。買う時は何かを売ったり捨てたりしないといけないからだ。一番高いものはギター。フェンダーUSAのジャズマスターで色はサンバースト。ヴィンテージものでお茶の水の楽器屋で二十三万円した。まだローンが一年残っている。
これが僕の部屋にある大まかなものだ。
ふと、唯香と僕にとっての世界の全てが、この狭い六畳間だったら面白いのに、と思う。そうすれば誰かに唯香の存在を説明する必要が無い。彼女がこんなふうに不自然に存在していることさえも、僕さえ受け入れればそれはごく自然なこととなる。世界が広がっているからこの状況はおかしいし、僕達以外の人間が存在しているから彼女の存在がおかしなものになる。
時間の概念もそうだ。
今は二〇一一年、四月七日。
これは誰かが決めたことにならっていることだ。ほぼ全世界の人が共有している事実であるからそういうことになっている。しかし、この部屋で住む僕達がそのことを放棄して、今日が『○○暦元年の一月一日』としたならば、それはそれで良いはずなのだ。
僕は白い天井を眺めながら、そんなとりとめの無いことを考えていた。
まだ眠れない日が続いている。長い時間眠れない。
長い時間寝たとしてもせいぜい四時間くらいのものだ。自分自身ではそれほど感じていないつもりなのだが、実際は地震の影響が大きいのかもしれない。心の奥底で今までには無かった死に対する恐怖が芽生えたのかもしれない。そして、それはどんどん大きくなっている気さえする。
長く眠れば眠るほど悪夢にうなされる。それは身体の部位が少しずつ切り落とされる夢だったり、砂地獄に埋まって身体の自由が利かなくなる夢だったりした。頻繁に余震が続くこんな状況で眠っている場合ではないと本能が言っているのか。
「眠れないの?」
心配そうな声で彼女がそう言った。時刻は午前六時三十二分。ベッドに入ったのが午前三時過ぎだったからまだ三時間ちょっとしか寝ていない。
「まあね。でも最近ずっとこんな感じ。あまり長く眠れないんだ。死がすぐそこに来ているような気がして」
寝起きのガラガラ声で僕はそう言った後、二度、喉の奥で咳払いをした。彼女は僕と目を合わしたまま、僕の咳払いの音の余韻を聞いているようだった。
「大丈夫。雄太はまだ生きる」
唯香は僕の目を見たままそう言った。
「ありがとう」
僕は目覚めきっていない頭で考える少ない選択肢の中からその言葉を選んで発した。
しばらく眠ろうと努力したが無理だった。
午前七時過ぎ、僕は起きて溜まっている洗濯をすることに決めた。
眠たくなったらまた寝ればよい。
唯香の言葉に含みのあったことに気付いたのは、洗濯物を狭いベランダに干している時だった。彼女は、
「大丈夫。雄太はまだ生きる」
と言った。『雄太は』の『は』には、私は死んでしまったけどという意味が込められていたに違いない。そのことに気付いた僕の手は、洗濯バサミを掴んだまま、しばらくの間、固まってしまった。
もう死んでしまっている彼女にかける言葉が見つからない。
僕が散歩に誘うと、少し迷った後に唯香は、「いいよ」と言った。Tシャツにダンガリーシャツ、チノパンに白のコンバースでアパートを出た。今日はダウンジャケットを着なかった。外の陽気がそんなものはもう要らないと言っていた。
光が丘公園に行くことにした。
トートバッグの底で彼女は僕を見上げている。どうやらさすがに今の姿は人に見られてはまずいらしい。出来る限り人目に付かないように気を付けているようだった。
本当に良い天気だ。雲が一つもない空だ。透き通った空気がつくる薄い青色の空は全人類の好きなものの一つだと僕は思う。こんな空を日本人は放射能で汚してしまっている。
光が丘公園の桜も満開だった。見事な桜たちだった。アコースティックギターを持って弾き語りをする青年を横目に歩く。小さな子供を連れた母親が多い。
平日だというのに多くの人がいた。花見をする若者や日向ぼっこをする老人がいた。
平和な国がそこにあった。地震など無かったかのような平和な国がそこにあった。
自動販売機でペットボトルのお茶を買い、ベンチに腰掛けた。ひらひらと舞う桜を見ながらそれを飲んだ。
ここにもやはり『メランコリー』が存在していると思った。爽やかな憂鬱が。
この桜も必ず散る。
永遠なんて。そう。有り得ない。
「これが最後に見る桜で良かった」
唯香が独り言のように小さくそう言った。
「どういうこと?」と僕は聞き返す。
「ううん。何でもない」
今度ははっきりとそう言った。
一時間半ほどの散歩から帰ると、僕はトースターで食パンを焼き、マーガリンを付けて食べた。今日、六本目のタバコを吸った。インスタントのコーヒーは半分飲んで、半分は流しに捨てた。僕はコーヒーを飲みきることがいつも出来ない。黒く淀んだその液体は大量に摂取するものではない、と僕は考えている。
バイトからの帰りは夜中にバイクに乗らないといけない。まだまだ夜は寒かった。僕は帰りの事を考えてダウンジャケットを羽織るとアパートを出た。
バイトに向かう。
唯香は今日も留守番だ。
ライブが終了し、ホールのモップがけをしている時に地震があった。かなり大きな地震だった。どうやら余震はまだまだ続くらしい。
アパートに帰ると唯香はテレビを見ていた。
おそらく彼女は一日の大半の時間、テレビを見て過ごしているのだろう。帰ってきた僕に対して今日のニュースを教えてくれた。
彼女は食事を取らなくて良いし、当然トイレにも行かなくて良い。汗もかかないしシャワーも浴びない。身体は自由に動くが触覚は無いそうだ。当然、痛みも無い。
しかし、もしかして泣いたりはしているのかもしれない。
見せないだけで絶望もしているのかもしれない。
彼女はもっと生きたかったはずなのだ。
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