四月五日(火)
天気の良いことが、遮光カーテンの隙間からの光で分かった。ハウスダストが狭い光の中で踊っている。
シングルベッドに横たわる僕の枕元に彼女の姿があった。彼女と言っても女子高生の形をしたただのフィギュアだ。横向きに背中を丸めている。
昨日、「魂は眠るのか?」と尋ねたら、「眠るよ」と彼女は答えた。大抵の場合、生きている人間より多くの時間を睡眠に費やさないといけないらしい。魂によっては、一日の内ほとんどの時間を眠ったような状態で、ただプカプカと宙を浮いているものもあるようだ。彼女はほぼ、生きている人間と同じだけ眠れば良いらしい。
カーテンを開けると満開の桜が見えた。暖かい日差しを背中に浴びた花びらが風にそよいでいる。薄いピンクの花びらが光によって透けて見えた。
春が来たとはこのことだろう。この広い世界の中のまさにこの場所に春が来た瞬間を僕が決めて良いのならそれは〝今〟だと思った。
時刻は午前九時三十二分。
しばらくそのまま窓の外の桜を見ていた。風でひらひらと花びらが舞っていた。
誰もいないのかと諦めかけた頃にプルルルというコールが止んで、「はい、杉田です」という声が聞こえた。声はおそらく彼女の母親だろう。
「もしもし、唯香さんのお母さんでしょうか?」
緊張が声色に表れてしまったが、失礼の無いようには言えた。
「そうですが」と答える声の隙間に不信感があった。声に張りは無い。一人娘を失って間もないのだ。それは当然のことだと僕は思った。
「突然の電話申し訳ありません。僕は井上というものです。唯香さんのこの度のご不幸を知って電話をしています」
僕はあらかじめ決めていた言葉を出来るだけゆっくりと話した。何度も心の中で反芻した文章だった。若干、棒読みのようになってしまったが仕方ない。
「そうですか。ありがとうございます」
「実は生前に唯香さんから借りていたものがあるんです。ご自宅にお持ちしたいと思いまして」
このくだりは昨日彼女と考えた文面だった。
「そうでしたか。そういうことでしたら是非いらしてください。友達が来てくれると唯香も喜ぶと思います」
母親の声がほんの少しだけ明るくなった気がした。上品に年齢を重ねてきた声のように思えた。僕はその後、彼女の母親が言う住所を紙にメモするふりをした。今日の午後でも構わないという事だったので、午後二時に伺いますと伝えた。
フィギュアの形をした杉田唯香は、ローテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンに腰掛けて僕と母親の会話を聞いていた。緊張した顔や使い慣れていない丁寧な言葉のぎこちなさをからかうような表情で僕を見ている気がした。実際にフィギュアの表情は笑顔のまま変わらないのでどうだか分からないのだか、どうしてだかそんな気がした。年下にからかわれるのはどんな状況であってもしゃくにさわる。
電話を切るとフィギュアは立ち上がって「ありがとう」と言った。やはりその言葉には含み笑いがあった。
そのフィギュアが動くことに対して、もうなんの違和感も無かった。
彼女はテレビを見たり音楽を聴いたりした。手の形はグーの形のまま動かなかったのでCDをステレオにセットすることは出来なかったが、テレビのリモコン操作は出来た。
彼女は僕のノートパソコンも器用に扱った。キーボードのそばに立ち、鉛筆の裏でタイピングをした。彼女は彼女なりに様々な事柄を楽しんでいた。
いつもの狭いユニットバスでシャワーを浴びた。田舎育ちの僕はユニットバスというものに、なかなか慣れることが出来なかった。実家は昔ながらの趣きを持った家で、全ての作りが無駄に思えるくらい広かった。小さな頃からその広さに慣れ親しんだ僕に、都会の小さなアパートのユニットバスは本当に狭かった。しかし、それも今ではすっかり慣れた。
簡素なキッチンで髪を乾かす。ドライヤーのブオォーという音が響き渡った。ワンルームなので部屋のどこからでも全てが見える作りだった。チラッと彼女を見る。ローテーブルの淵に座りテレビを見ている。彼女の身長を考えるとローテーブルと言っても相当の高さになる。落ちたら大変だなと一瞬思った。しかし、すぐに考え直す。もし落ちても彼女が痛みを感じることは無い。
髪を乾かし終わるとクローゼットを開けた。バーゲンで買ったBEAMSの紺色のカーディガンに袖を通す。天気が良さそうなのでその上に薄手のコートを着た。
彼女をトートバックに入れて持ち手を肩からかけた。彼女は物体に乗り移っている時は他の魂に存在を見られなくて済むと言った。どうやら他の魂に存在が知られるのは非常にまずいことらしかった。
トートバッグのそこにはバスタオルを敷いてかさ上げをしてあげた。立ち上がるとちょうど顔が出せる。肩にかけたこの距離なら小声で話しても彼女に声が届くだろう。
駅までの道を歩く。
彼女の実家のある町田まではバイクでは少し遠い。新宿まで地下鉄で出て小田急線で向かうことにした。
彼女の実家は普通の二階建ての一軒家だった。築十五年といったところだろうか? 駐車場には5ナンバーの白の乗用車が置かれていた。少し砂埃を被っている様に見える。二階に目をやると出窓があって、外を見るようにミッキーマウスの人形が置かれていた。おそらく杉田唯香の部屋だろうと思った。
門に付いているインターホンを鳴らし名前を告げると、母親だと思われる小柄な女性が出てきた。トートバッグから顔を出したフィギュアが小さく「お母さん」と言った。久々の再会なのだろう。
床の間がある和室に通された。吸い込まれるように遺影に目がいった。白い布がかけられた三段ある祭壇の一番上にそれはあった。
杉田唯香は写真の中でみずみずしく笑っていた。一瞬にして蘇ってくる記憶があった。僕はこの顔を知っている。以前この顔に会った記憶がある。
それが数日前に見た夢の女の子に似ていると気付くのに数秒を要した。立ったまま固まってしまった僕の姿を見て彼女の母親が、「どうぞ。線香を上げてやってください」と促してくれた。不思議な気持ちのまま僕は祭壇の前に置かれた座布団に腰を下ろした。
祭壇の上から二段目には白い布で覆われた箱が置かれていた。骨壷が入っているのだろう。彼女はもう焼かれ、骨になってしまったのだ。
しばらく杉田唯香の写真と向き合った。複雑な心境だった。
彼女はもう死んでいる。しかし彼女の魂は僕のトートバッグの中にいる。改めて突きつけられた彼女が死んでいるという事実を上手く整理出来なかった。トートバッグの中にいるフィギュアに乗り移った彼女は、もっと複雑な気持ちなのかもしれない。
複雑な気持ちのまま、形だけの焼香をした。杉田唯香は死んでいて、そしてまだ死んでいない。そんな人に焼香するのは違う気がした。トートバッグからそんな僕の背中を彼女が見ている気がした。焼香をした後も杉田唯香の写真から目が離せなかった。「どうぞ」という声で我に帰る。振り返るとお茶をテーブルに置く母親の姿があった。
「まだ全然信じられないんですよ。死んでしまったなんて。今すぐにでもただいまって言って元気に帰ってくるんじゃないかって思うんです。だからいつも玄関の鍵は開けたままにしてあるんですよ」
そう言って彼女の母親は精気の無い目を僕に向けた。おそらく物凄く泣いたのだろう。何日にも渡って慢性的に涙を流したのだろう。腫れ上がった目が本来の彼女の持つ目でないことはすぐに分かった。そしてまたその目は今にも涙を流しそうだった。僕はかける言葉が見つからず下を向いてしまう。事態の真相に僕は触れられないままこの場所に来てしまっていた。娘を失った親の気持ちの重みは僕の想像などでは計り知れないものだと思うが、せめてその入り口にくらいは足を踏み入れておくべきだった。
「出来すぎなくらいの子でした。今回の地震も離れて暮らす主人の母親の様子を見に行ってくれた時に遭ったんです。身体が少し不自由で一人で住んでいたものですから私と主人が頼んだんです。高校を卒業した後で時間を持て余してたのもあったのでしょう。楽しそうに福島にある祖母の家に向かう準備をしていたのを覚えています」
「そうだったんですか」
杉田唯香からは、「おばあちゃんの家に遊びに行っていた」とだけ聞いていた。
「おそらく身体の不自由な義母をかばったのだと思います。あの子一人だったら逃げられたのかもしれません。身体の不自由な義母を置いて一人で逃げられなかったのでしょう。崩れてきた天井の下敷きになって二人は死んでいました。古い家だったので地震に耐えられなかったんです」
そう言う彼女の言葉の最後は涙で溢れていた。声が震え、最後まで言葉を発するのがやっとのことだった。僕はかけてあげられる言葉の全てを失った。もしかしたら最初から持ち合わせていなかったのかもしれない。どんな言葉をかけても、一人娘を失った母親が救われることは無いと思った。時間ですら永遠にそれは解決出来ないと思った。正座をした彼女の丸まった背中が嗚咽で上下するのを無言で見ていた。
「想像以上だった」
無言で歩いた町田駅までの道のりの最後に、フィギュアに乗り移った彼女はそう言った。
彼女の父親は震災のあった日から会社に行けていないらしい。二階の書斎に閉じこもったままの彼が僕達の前に顔を出すことは無かった。
母親の振る舞いや家の様子を見た感じから、彼らが真面目で堅実な人生を歩んできたことが伺い知れた。人生という時間を一つ一つ丁寧に積み重ねてきた人間が住む家だった。杉田唯香の母親は、悪人という言葉から最も遠い場所に住む住人の顔をしていた。
疲れ果て、痩せ細った母親よりも、最後まで姿を見せなかった父親の状態は遥かに深刻なのだろう。人の精神というものは身体なんかよりももっともろい。
天災というものは誰の身にも平等だ。そして平等ではない。
大震災の残したものを初めて目の当たりにした。
僕の身の回りには幸いにも今回の震災での犠牲者はいなかった。テレビの映像は衝撃的なものだったが、現実味に欠けていた。遠い国で起こっている出来事のような感覚があった。映画を観ているような錯覚すらあった。
残された家族の現実はこうなのだ。
失ったものの大きさに彼女の両親が立ち直れる日が来るのだろうか?
彼らの人生の目的が違う形に変えてでも復活する日が来るのだろうか?
僕はCD二枚を唯香から借りていた物だと言って母親に手渡した。彼女はそれを受け取ってまた涙を流した。クラムボンの『2010』とYUKIの『WAVE』というアルバムだった。それらは唯香が僕の部屋にあったCDの中で選んだものだった。
フィギュアに乗り移った彼女が僕なんかより遥かに落ち込んでいるのは分かっていた。しかし、僕は自分の気持ちにすら整理がつけられなかった。何か声をかけてあげたかったが、そんな余裕が僕には無かった。
無言のまま僕達は電車に乗りアパートに帰る道のりについた。
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