第2話:最初の取引
次に意識が浮上した時、身体を焼いていた熱は嘘のように引いていた。
まだ空腹による脱力感は残っているが、頭はクリアだ。俺はゆっくりと身体を起こし、まず自分の状態をアセスメントする。
(バイタルは安定。解熱を確認。ただし…なんだ、この奇妙な疲労感は…)
身体的な疲れとは違う。まるで、頭の中心、魂とでも呼ぶべきコアの部分がすり減っているような、空虚な感覚。
これが、あの力の代償――精神力(WP)の消費、というやつか。前世で感じた「燃え尽き」の感覚とよく似ていた。無闇に使える力ではないと、身体が警告している。
俺は隣に目をやった。
少女――リナは、穏やかな寝息を立てていた。真っ赤だった顔色は戻り、荒かった呼吸も落ち着いている。俺はそっと彼女の額に手を当てた。まだ少し熱っぽいが、峠は越したようだ。
「…よかった」
安堵のため息が漏れた、その時だった。
「…お前、何をした?」
鋭い声が、背後から投げかけられた。
振り返ると、十歳くらいの少年が、俺を警戒心丸出しの目で見つめていた。痩せてはいるが、その目には他の子供たちにはない、厳しい光が宿っている。カイの記憶によれば、この孤児たちのグループで一番年長の「ダン」だ。
俺の`ノンバーバル・コミュニケーション`が、彼の状態を読み取る。全身から発せられるのは「不信」と「警戒」。だが、その奥に、リナの身を案じる「心配」の色が混じっているのが見えた。彼は、この荒んだ場所で必死にリーダーとして振る舞おうとしているのだ。
「何をした、と聞いている」
ダンの声が、再び鋭く飛ぶ。
「…祈っただけだ。リナが助かるように、ってな」
本当のことを言っても信じられるはずがない。今は、そう答えるのが最善手だろう。
ダンは納得いかない顔で俺を睨みつけたが、リナの穏やかな寝顔を見て、追及の言葉を飲み込んだようだった。
「…チッ。まあいい。それより、水だ。俺たちも、そいつにも水が必要だ」
その通りだ。解熱後は脱水症状に陥りやすい。特に子供は顕著だ。
「どこで手に入る?」
「…西の広場に、金持ちが作ったまま放置された噴水の跡がある。そこに雨水が溜まってるはずだ。だが、そこは『ハイエナ』の連中の縄張りだ」
ハイエナ。カイの記憶にもある、このスラムで最も厄介な、年長の子供たちで構成されたグループだ。暴力で食料や水を独占している。
前世の`リスクマネジメント`が警報を鳴らす。危険だ。だが、行かないという選択肢はない。
「俺が行く」
俺は、ぼろ布の切れ端をいくつか手に取り、立ち上がった。ろ過材の代わりだ。気休めにしかならないだろうが、何もしないよりはマシだ。
「…正気か? 半殺しにされるぞ」
「それでも、水がなきゃ俺もリナも死ぬ。違うか?」
俺の言葉に、ダンはぐっと詰まった。
俺はよろめく足で、倉庫の出口へと向かう。
ハイエナの縄張りである広場には、すぐに着いた。中央の涸れた噴水に、濁った水が溜まっている。そして、その周りには三人の少年が座り込んでいた。ハイエナだ。
俺が近づくと、リーダー格らしい赤毛の少年が立ち上がった。
「なんだ、チビ。死にに来たか?」
俺は無言で、彼らを観察する。`メンタル・ビジュアライズ`を起動。三人のオーラは、攻撃的な赤色と、飢えを示すどす黒い色が混じり合っている。だが、それだけじゃない。赤毛の少年の左腕が、ひときわ暗い「痛み」の色を放っていた。よく見ると、腕に巻かれた布には血が滲んでいる。
これだ。これが、俺の武器だ。
俺は暴力ではなく、介護士としてのスキルで交渉する。
「取引をしないか」
俺はまっすぐ赤毛の少年を見据えて言った。
「その腕の痛みを和らげてやる。代わりに、水を少し分けてくれ」
少年たちの間に、嘲笑と困惑が広がった。
だが、赤毛の少年だけは、驚いたように目を見開き、俺を――そして、俺の持つ不思議な雰囲気を、値踏みするように見つめていた。
スラムの片隅で、元介護士の孤児による、最初の「取引」が始まろうとしていた。
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