閻魔姫

ヘカテ

第1話 冥府の裁き


銃声が、夜を裂いた。


次の瞬間、柊咲夜の視界に映ったのは、血に染まって崩れ落ちる両親の姿だった。


「おかあさん……、おとうさん……?」


掠れた声は届かない。震える指先で伸ばした手は、二度と返らぬ温もりに触れた。


血の匂いが鼻を刺し、床を濡らす赤が広がっていく。


「いやだ……いやだよ……」


彼女にできるのは、失われていく命を抱きしめ、涙で濡らすことだけ。


呼吸の音が遠ざかり、家の静寂が耳に重くのしかかる。


あれほど賑やかで温かかった場所は、わずか数秒で、取り返しのつかない闇に呑まれていった。


その夜、柊咲夜は世界からかけがえのない居場所を奪われた。


残されたのは、少女には背負いきれないほどの孤独だけだった。



遡ること一週間前。


里父が医療研究の縁で出会ったのは、那由多と名乗る一人の研究者だった。


「柊さんの娘ちゃん……えーと、咲夜ちゃんだっけ?その子、すごく珍しい才能を秘めているらしいね。俺の勘がそう言ってる。ねぇ柊さん!咲夜ちゃんを俺の研究に協力させてほしい!この通り、お願いだ!」


軽々しい調子で頼み込む男に、里父は眉をひそめた。


さらに那由多は、無邪気さを装った笑みを浮かべながら続ける。


「それに、俺は咲夜ちゃんの“本当の家族”のことを知ってるんだよ?もちろん柊さんの知らない家族の部分もね。どうかな、咲夜ちゃん――興味あるでしょ?」


「……本当の家族?」


その一言が、決定打となった。


「今後、咲夜に近づくのは許しません。そして金輪際、私たちにも関わらないでください」


きっぱりと告げた里父に、那由多は肩をすくめ、引き下がるしかなかった。



――だが、一週間後。


柊家の里親は、反政府組織“天逆”の銃弾に倒れる。


それは那由多の仕業ではなかった。


だが、咲夜の胸に残されたのは、深い絶望と孤独だけ。


そしてその奥底で、まだ幼い彼女自身も気づかぬ“何か”が、静かに芽吹き始めていた。




血に濡れた夜の中で、彼女の前に現れたのは――他ならぬ那由多だった。


「話は聞いたよ。……両親のことは、災難だったね」


男は静かに咲夜を見下ろす。


「殺された両親の復讐しない?」


「……え?」


「もし君が復讐を望むというなら、俺はその力を与えてあげられるよ。だけど、それは柊さんたちの願いと復讐は真逆だろうね。あの人たちは君に手を汚して欲しくないし、君の幸せを願っているからね。……でもね、――大切な両親を殺した奴が今ものうのうと生きている。それを咲夜ちゃんは受け入れられるのかな?まぁ、普通はできないだろうね」


那由多は薄く笑みを浮かべる。


「俺は君を使って研究がしたい。だから君の復讐に手を貸すのも、結局は俺自身のためだよ。まぁ俺が何を言おうと、決めるのは咲夜ちゃんだけど……。」


差し伸べられたその手は、冷酷で――だが確かに、絶望に沈む少女を導く光でもあった。

そして咲夜の決断は、震える唇を噛みしめ、静かに頷いた。




それからの日々、那由多は医師としての知識と、殺人の技術を惜しげもなく咲夜の身体と頭に叩き込んだ。代償として咲夜は、那由多の研究に“被験体”として身を捧げることを受け入れる。


「これは全て、咲夜ちゃんを強くするための研究だからね。ここから先は未知な世界。命の保障だってない。だけれど成功すれば、君は望むだけの力を手に入れられる。……俺と共に強くなろうね」


冷酷でありながら、どこか父親のような声色だった。




十四歳になった咲夜は、ついに両親の仇を突き止める。


選んだ手段は――毒。


その夜、男は苦悶のうちに床をのたうち、そして命を落とした。


咲夜はただ無言で、それを冷ややかな眼差しで見下ろしていた。


彼女の中には涙も、迷いも、もはや存在しなかった。


満足げにその姿を眺めながら、那由多は口元を綻ばせる。


「……ようやく、人を殺めることができたね。これは大きな一歩だよ。とりあえず――復讐おめでとう。今日から君は“閻魔姫”。きっと闇の世界ではそう呼ばれるだろう」


その言葉が、柊咲夜という少女の名を葬り、新たな名を与えた瞬間だった。




閻魔姫の異名は、瞬く間に裏の世界を駆け抜けた。


――そして現在。


十七歳となった咲夜の身体には、那由多の研究によって仕組まれた“毒”が宿っている。


那由多への不信は拭えぬまま。だが、その力なくしては殺人を果たすことはできない。


だから咲夜は今もなお、彼の傍らに立ち続けていた。



白衣の袖を整え、咲夜は扉を開く。


看板の灯りが消えかけた柊病院に、また小さな足音が響いた。


「先生……今日も、お願いします」


現れたのは八歳の少年。痩せ細った身体に不釣り合いなほど大きな瞳が、まっすぐ咲夜を見上げていた。


名を健太という。毎日のように通ってくる常連患者だった。


「熱は?」

「……ちょっとだけ。でも平気です」


強がる声に、咲夜は小さくため息をつき、聴診器を当てる。


病気は深刻ではない。適切な治療を続ければ、数か月で完治する見込みだ。


だが――問題は別にあった。


健太の家庭は貧しい。母は細々と働き、幼い妹を抱えて暮らしている。


健太自身も子どもながらに日雇いの仕事を探し、家計を支えようとしていた。


そして、追い打ちをかけるように。


「……父さん、昨日……帰ってこなくて」


小さな声が落ちた瞬間、咲夜の手が止まった。


詳しく問う必要はなかった。少年の瞳がすべてを語っていた。


――父は、借金取りに追い詰められ、命を落としたのだ。


健太は涙をこらえ、必死に笑みを作った。


「でも僕が、お母さんと妹を守る。だから……治してください」


咲夜は返す言葉を失った。


医者として、病を治すことはできる。だが――家族を奪った元凶までは救えない。



――その夜。


 病院の灯りを落とした咲夜の耳に、ひらひらと軽い声が蘇る。


『最近、借金絡みで健太君のお父さんみたいに死んだ人、増えてるらしいねぇ!金を握る奴らの方が、病原菌よりよっぽどタチが悪いと思わないかな?』


何気なく放たれた那由多の言葉。


だが咲夜の胸には、鋭い針のように突き刺さっていた。


「……借金取り、ですか」


独り言のように呟き、白衣を脱ぎ捨てる。


代わりに袖を通したのは、血のように紅い着物。

 夜の闇に馴染むよう、長い髪を結い上げる。



――閻魔姫が目を覚ます。


標的は、もう決まっていた。


少年の家族を奪った借金取り。

 

その毒牙は、今宵、咲夜の毒によって報いを受ける。



―翌日。


病院の扉を叩く足音は、もう聞こえなかった。代わりに飛び込んできたのは、血の気を失った近隣住人の声だった。


「先生……!健太くんの家が……」


咲夜が駆けつけた先に広がっていたのは、あまりに残酷な光景だった。母と妹は床に崩れ落ち、二度と目を開くことはなかった。まだ温もりの残る小さな手を握りしめ、健太は声にならない嗚咽を繰り返す。


「どうして……どうして僕の家族ばかり……!」

その叫びは夜の闇に呑まれ、やがて静寂へと溶けていった。咲夜はただ、その姿を見つめ、唇を固く結んだ。掛ける言葉は見つからない。慰めは、今の彼には届かない。


――救えなかった。


――だからこそ、裁かねばならない。



胸の奥に、氷のように冷たい決意が宿る。


ふと、昨日の那由多の言葉が脳裏を横切った。


『ねぇ、咲夜ちゃん。俺の言う通り、病気より怖いのは人間そのものだったね』


咲夜は黙って健太の涙を見届ける。視線は彼の背後に潜む“人の悪意”へ向けられていた。


「あ~あ、それにしても健太くん、次々と不幸が続いて本当に可哀想だね」


那由多はまるで世間話のように、軽い調子で言葉を零す。


「咲夜ちゃん、健太くんに慰めの言葉をかけてやればいいんじゃない?健太くんの心も少しは落ち着くんじゃないかな」


咲夜は振り返らない。ただ、その声に含まれる冷ややかさを骨の髄まで感じ取るだけだった。


やがて、吐き出された言葉が夜気を切り裂く。


「……私に出来るのは慰めの言葉じゃない」


その声は誓いのように重く、辺りに響いた。那由多は浅く笑みを浮かべる。


「咲夜ちゃんは鬼退治の桃太郎だね!」



その夜、白衣を脱ぎ捨てた少女は、傘に仕込まれた刀を手に取った。


閻魔姫としてのもう一つの顔を呼び覚まし、血に濡れる未来へと歩み出す。


「――あぁ、でも咲夜ちゃん。張り切っているところ悪いけど、健太くんの家族を奪った犯人の情報は持っているのかな?」


那由多は、まるで雑談でもするかのように、口の端を吊り上げた。


「まぁ、もし咲夜ちゃんがどうしても健太くんの恨みを晴らしたいっていうのなら……俺が代わりに、その情報を掴んできてもいいよ?」


わざと軽い調子で言いながらも、瞳だけは鋭く光を宿している。


「最近、よく似た件で死人が続出していてねぇ。犯人の目星くらいなら、もうついているけど?」


「……まさか、お前の手引きか?」


咲夜の声は低く震え、次の瞬間には那由多の胸ぐらを掴んでいた。


「はい、そうやってすぐ疑う~!咲夜ちゃんってば、ほんと短気だなぁ。そういうのよくないよ?」


那由多は苦しげな素振りを見せず、余裕の笑みを浮かべたまま続ける。


「だいたい、俺が咲夜ちゃんの身内を傷つけるメリットがあると思う? 俺は研究対象の咲夜ちゃんを敵に回すなんて真っ平ごめんだよ。むしろ咲夜ちゃんを強くする――それが俺の本心なんだから」


咲夜の力がわずかに緩んだ隙に、那由多は自らの手で胸ぐらを解き、軽く払い落とす。


「……そうですか」


咲夜は険しい眼差しを崩さぬまま、低く告げた。


「分かりました。」

「よし、そうこなくっちゃ!」


那由多は手を叩き、愉快そうに笑った。


「さっさと話せ」


咲夜の声音は冷え切っている。


「そうだねぇ……。まぁ、健太君の家計を調べたけど、家族は多額の借金を抱えていたらしい。その額が払えず……人身売買という手段を提案された。そして内臓を借金のカタに奪われ、命を落としたんだろうね!」

「――人身売買ですって!?」


咲夜の瞳が鋭く光る。


「そうそう。内臓って高額で売れるらしいから、裏の連中にとっては手っ取り早い“商売”なんだ。いやぁ、ほんと怖い話だよねぇ」


那由多は肩をすくめ、まるで世間話のように続ける。


「まぁでもさ、後先考えずに多額の借金を抱えた健太君の家族にも問題はあるし、そういう意味じゃ“自業自得”とも言えるかなぁ?でも――やり口の残虐さは、やっぱりあっち側の罪だと思うね。さて、咲夜ちゃん。どうする?それでも君は、健太君の恨みを晴らすつもりかな?因みにだけど、俺はどっちもどっちだと思ってるから、処刑判断は咲夜ちゃんに任せるし、俺は君の気持ちを尊重する」

「当然、恨みは晴らす」


咲夜の声は冷たく、揺るぎない。


「やっぱそうだよねぇ!」


那由多は満足げに笑い、身を乗り出す。


「じゃあ早速、健太くんの家族を奪った犯人を教えてあげようか。――まず人身売買を仕切っているのは“天逆”って組織さ。」


「天逆・・。私の両親を殺した奴ら」


「そう!そしてその中で臓器を高額で売りさばき、綺麗に内臓だけを剥ぎ取る高等技術を持つ男……“白石武智(しらいし たけち)”。彼が犯人で間違いないね!」


「白石武智……?一体何者ですか」


「俺もちょっとした付き合いがあるけど、アイツは筋金入りの臓器マニアだよ」


那由多は肩を竦め、愉快そうに言葉を続ける。


「因みに俺も、彼から臓器の剥ぎ取り方を教わったことが何度かあるんだ。」

「はぁ?」

「もちろん医療向上の一環としてだよ!だけどさ。まぁ、彼はかなりの異常者でねぇ……こういう手口に関しては、右に出る者はいないんじゃないかな。そろそろ“年貢の納め時”だと思っていたところだし――咲夜ちゃん、どうせなら始末しちゃいなよ?」

「お前に言われずとも」


咲夜の眼差しは鋭く光り、わずかな迷いも見せない。


「そう言ってくれると思った」


那由多は口角を吊り上げる。


「彼がこのまま居続けても、俺たちにとって迷惑になるだけだからさ!」

「それで――その白石武智の居場所は?」

「もちろん。俺は彼の居場所を知っている」

「……それを早く教えろ」


咲夜の冷徹な声が、部屋の空気を凍らせた。


―――



<研究所>


血の匂いと薬品の匂いが入り混じる、暗い部屋。

白衣を纏った男、白石武智は手袋越しに臓器を撫で、狂気じみた笑みを浮かべていた。


「……幼女児の臓器に、女の膨らみかけた内臓。くく……今回の“素材”は当たりだなぁ」


まるで宝石を愛でるかのように臓器を並べ、ひとつひとつに指を這わせる。


「見ろよ、この瑞々しさ!生命の塊が俺の手の中にある……!これを高値で売り捌く瞬間がたまらないんだ……!うへへへ……!」


机の上には番号を振られた小瓶がずらりと並び、中にはまだ温かさを残す臓器が沈んでいる。異常なほど丁寧に整理された光景は、常軌を逸していながらも、どこか狂気の“美学”すら感じさせた。


「次はどんな臓器が俺の元に届くかなぁ……!幼い命ほど、質がいい……!ひひひひひ……!」


武智の嗤い声が、研究所の壁に不気味に木霊した。



―――



武智の嗤い声が響くその頃、柊病院の診察室では、一人の少女が静かに白衣を脱ぎ捨てていた。

ぱさり、と布が床に落ちる。


そこに現れたのは、黒地に紅を差した艶やかな着物姿。


白衣の下に隠していたのは、医者ではなく――裁きを行う閻魔姫としての顔だった。


咲夜は、壁に立てかけられた一本の傘を手に取る。


柄を握り締めると、内に仕込まれた刀の冷たい重みが掌に伝わる。


「……これで、罪を裁く」


瞳に宿るのは冷ややかな光。


慰めも、涙も、優しさすらも、今は必要ない。ただ“裁き”だけが彼女を動かす。


月明かりに照らされながら、咲夜は病院を後にした。


少女ではなく、閻魔姫として――血に濡れた道を歩むために。



研究所の奥。


薬品の匂いと鉄錆の臭気が入り混じる薄暗い部屋に、咲夜は静かに足を踏み入れた。


机の上には血の染みたメスと、臓器標本の瓶。狂気の空気が充満している。


その中心で男が振り返る。


白石武智――異常な光を宿した瞳が、咲夜を射抜いた。


「……なんだお前は!?」


突然の侵入者に苛立ちを隠さぬ声。


だが咲夜は一歩も引かず、傘の柄に手をかける。


「健太君の家族を……よくもめちゃくちゃにしやがって」


低く押し殺した声に、武智の顔は歪んだ笑みへと変わる。


「あぁ……なるほど!あの“当たり臓器”の家族か。で、俺が奴らの内臓を抜いたから、その仇討ちに来たってわけだな?」


彼は肩をすくめ、嬉々として続ける。


「そもそも借金したのはあいつら自身の自業自得だろうが。金が払えないなら、人身売買が手っ取り早い。俺はそれを提案し、奴の母親はそれを望んだ。ついでに娘の臓器も剥ぎ取ってやったが……。これらは騙されたバカ共が悪いのさ。俺はなぁ、ただ需要に応えただけだ!」


嘲る声。血に濡れた手を誇るような言葉。


咲夜の眼が鋭く燃え上がる。


「……貴様ッ!!」


刹那、咲夜の傘が閃き、仕込み刀が抜かれる。


空気を裂いた鋭い一閃――次の瞬間、武智の右腕が宙を舞った。


「ぎゃあああああっ!!」


切断面から血が噴き上がり、床を赤く染める。


臓器に執着した男は、痛みによってあっけなくみっともない悲鳴を上げ、床を転げ回った。


「冥府で罪を償え」


咲夜の冷酷な声が響く。


その言葉に武智は必死に縋る。


「ま、待て!お前の欲しいものは……こ、これだろ!? せっかくの上品な臓器だがタダでやる! だ、だから見逃してくれ!」


武智は震える左手で、血にまみれた瓶を取り出した。


中に収められていたのは――健太の妹の臓器だった。


咲夜の眉がわずかに動く。だが次の瞬間、怒気が爆発する。


「……ふざけるな」


仕込み刀が再び振るわれ、瓶ごと左腕を切り捨てた。


ガラスの破片と臓器が血飛沫と共に床へ散る。

「ひっ……や、やめてくれ……俺は死にたくな――」


武智の命乞いは最後まで続かなかった。


咲夜の刃は迷いなく胸を貫き、心臓を串刺しにする。


武智の目が見開かれ、絶叫も凍りつく。


力なく崩れ落ちた身体から、血が静かに流れ出した。


咲夜は刀を引き抜き、冷ややかに呟く。


武智の冷たい死体を前に、咲夜の視線はふと周囲に移った。


壁際に整然と並べられた無数の瓶。

中には血に染まった臓器がぎっしりと収められている。


「……なんですか……この気色悪い光景は」


吐き気を覚えるほどの異様な光景。


異常者の執念が、ここまで現実に形を取るものか――。


咲夜は冷たく歯を噛み、決意を新たにした。


傘の仕込み刀を握り直す。その手に宿るのは、裁きの炎。


研究所に火を放つ。


壁に火が走り、次第に炎は天井を焦がし、血と臓器の残骸を飲み込む。


煙と炎の渦の中、咲夜の冷たい影が一際強く揺らめく。


夜空に立ち昇る煙が、今日の裁きを告げる赤い旗となった。


咲夜は燃え盛る研究所を見下ろし、低く呟いた。


「……どうか……安らかに。」



その言葉は、武智に裁かれた臓器の犠牲者たちへの祈りだった。


炎は容赦なく、異常者の執念を焼き尽くしていく。


背後から、軽やかな足音が響いた。


「あーあー、燃やすのは流石にやり過ぎじゃない?」


振り返ると、傘も白衣もなく、飄々とした男――那由多が立っていた。


「見るに堪えない光景なので」


咲夜は淡々と答える。


「ま、いっか。にしても、俺が提供した力は使わなかったね」

「使うまでもありませんでした。そもそもあの力は身体への負担が大きい」

「使ってくれなきゃ俺の研究が進まないんだけどなぁ」


炎の向こうで、咲夜の影は冷たく揺らめき、閻魔姫としての孤高の決意を、静かに世界に刻んでいた。



咲夜が武智を処刑してから5日が経つ。


家族を失い、行き場を失った健太くんは、親切な里親に引き取られることになった。遠い地方で、病気の治療を受けるためだという。


柊病院の前で、健太くんは咲夜に向き直る。


「……ありがとう、咲夜さん」


声は小さく、肩はわずかに震えていた。


まだ胸に残る、家族を失った痛みがその背に影を落としている。


咲夜は黙ってその少年を見つめていた。


慰めの言葉はない。咲夜はただその小さな背中に、かすかな安堵が訪れることを願うだけだった。


健太くんは下を向き、咲夜にお別れの挨拶を告げる。


「……さようなら、咲夜さん」


その声に、咲夜は小さく頷き、静かに見送った。

しばらくの沈黙の後、那由多が咲夜の前に現れる。


「健太くん、これからどうするんだろうねぇ?」

「さぁ……。とりあえず、優しそうな方に引き取られて本当に良かったです。しかし、健太くんから家族を失った傷が癒えることは決してないでしょう。それでも今を生きる健太くんは、失った家族の分まで生きなければならない。だから私は、健太くんを信じることにします」

「もしかして家族のことを思い出したのかな?」


咲夜は淡々と、無言で那由多を無視し、その場を後にした。

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閻魔姫 ヘカテ @Hekate107

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