【華は散るらむ】

神田或人

第1話 いとまつぶし




 ――悪の華。

 祓い屋・焔。その名を知らぬ者など、この街にはもういない。


 強く、そして美しい。

 白い髪に赤い瞳、妖艶にして冷酷。見上げるだけで息を詰まらせるほどの容貌。

 だが人々が恐れ、噂に囁くのは、その美貌だけではなかった。


 焔は術を使うたびに、命を削っていた。

 霊を祓う代償として、自らの寿命を削り、血を流し、魂を摩耗させる。

 そんな祓い屋は他に存在しない。だからこそ、最強だった。


 けれど、その躰はあまりに脆い。

 肉がつかず、体力もなく、結核に蝕まれ、しょっちゅう血を吐いては細い肩を震わせていた。

 対悪霊ならば、負ける気は微塵もなかった。だが人間を相手にすれば、刃を交える前に倒れてしまうかもしれない。

 しかも焔は、依頼を奪った同業者や恨みを持つ依頼人に狙われていた。襲撃されるのは時間の問題だった。


 それ以上に、彼を苛んだのは退屈である。

 孤独には慣れている。だが夜ごと煙管をふかし、酒に溺れても、時間はただ空しく過ぎるばかりだった。

 あまりに退屈で、ついには話し相手が欲しいと思った。


 ――だから、人型の式神を作ろうと考えた。

 どうせなら、美しい男がいい。用心棒にもなり、見飽きぬ容姿を持つものを。

 そして名は「雅」と決めた。

 華やかで、優雅で、音の響きだけで美しい。きっとその名にふさわしい言葉を話すだろう、と胸が高鳴った。


 普段の焔は何事にも期待しない性質だった。

 だが、このときばかりは違った。

 自らが初めて「生み出す」側になる。その滑稽ささえ愉快で、胸を膨らませずにいられなかった。


 白紙を折り、人形を形作る。

 小刀で腕を切り、滴る血を紙に垂らす。

 咳き込み、唇を血で濡らしながら、焔は低く呪文を唱えた。

 白い紙人形はぼう、と青い火に包まれ、燃え広がる炎の中から影が浮かび上がる。


 やがて炎が収まると、そこには男が立っていた。

 闇色の衣を纏い、細身ながらも鍛えられた肉体。年は焔より少し上に見える。

 そして――その容姿は、あまりに整っていた。高い鼻梁、切れ長の瞳、薄い唇。人の手では決して届かぬ、完成された《美》。


 唇がゆるみ、にやりと笑む。生意気な笑みだった。


「よろしく、主。俺の名は?」

「……雅」


 焔は眉を顰め、低く呟く。


「おいおい、失敗作かァ?」


 けれど心の奥底では、笑みを堪えることができなかった。







 真冬の深夜。

 外は凍りつくように冷え込み、吐く息は白く凍り、音すらも吸い込まれていく。

 その静けさを破るように、焔は煙管を吸い、酒を煽っていた。頬は赤らみ、目元はどこか艶めき、酔いに揺らめいている。


「アア、いい気分だァ」


 酔いに溺れる声に、雅が低く言った。


「主は結核を患っているのに煙管か?……死ぬぞ」


 言葉は心配ではなく、むしろ愉快そうな響きだった。

 焔は眉を顰め、苛立ったように唇を歪める。


「生意気なんだよ、オマエは」

「煙管、俺にも吸わせてくれないか?」

「式神様が煙管? まあいいが」


 嘲るように言いながらも、焔は自分の煙管を差し出した。

 雅は迷わずそれを受け取り、一口、深く吸う。白い煙が吐き出され、灯りの中でふわりと揺らめいた。


「……うまい」

「味なんかわかるのかィ?式神ごときが」

「分からないと思う? 俺は式神だが、人と同じか、それ以上に深く味わえる。煙も、酒も、寒さも、孤独すらも。……羨ましいだろ」


 焔は一瞬、赤い瞳を見開き、それからふっと嗤った。


「式神の戯言よ。何も分からぬ癖に。――俺ァ、両親をこの手で斬殺した。双子の弟は陰間茶屋に売った。祓い屋は霊も依頼人も、すべて破壊するつもりでやってる。わかるか? 俺の狂気が」


 赤い瞳は爛々と輝いているのに、その奥底は底なしの空洞。

 語る言葉は残虐だが、細い肩は力なく揺れ、血を吐き続ける身を支えるのがやっとだった。


 雅は、そんな主を見て胸が熱くなる。


 ――俺の主はただの祓い屋じゃない。

 ――美しく、孤独で、胸を裂くほど儚い。


 そう思うと、鼓動が速まった。


 ゲホッ、と焔が血を吐く。掌を染める赤を見て、彼は顔を歪め、嗤った。

 その痛ましい姿が、なおさら彼を特別なものに見せた。少なくとも、雅には。


「寒いなァ」

「布団に入るか?」

「ああ、そうしようか」


 雅は黙って布団を敷き、焔を中におさめる。

 細い身体が布に沈み、焔はくぐもった声で言った。


「寒いなァ。凍えそうだ。おい、式神」

「雅だ」

「中に入って、温めてくれないか?」


 一瞬、雅の心臓が跳ねた。

 温める。それはただ体を寄せ合う意味か、それとも……。


「特に足が冷えた。オマエの体温で温めてくれ」


 肩から力が抜ける。


「……お誘いではないわけか」

「なんだって?」

「いや、なんでも」

「……ん? もしや、いかがわしいことを想像したか?」

「してない。かろうじて。まだ」


 焔は嗤い、にやりと唇を吊り上げる。


「生意気だねェ、うちの式神様は。主を抱こうだって? それとも抱かれる方か? 想像するには百万年はやい。実際にヤるには……そうさねぇ。百億万年はやいってな」


 あまりの言い分に、雅は眉を引き上げた。


「さァ、はやく温めろや。俺が凍っちまうだろ」


 挑発的に言う主に、雅は深いため息をつき、布団に滑り込んだ。


「はいはい。我儘なご主人様。今温めて差し上げますよ。ただし、襲われても文句はなし」

「主を襲うだってェ? そしたらオマエは消える運命よ。命をかけたくなったら、襲うがいいさ」


 飄々とした焔の態度には、どこか愉しげな色が混じっている。

 完全に揶揄われているのに、雅はそんなところにさえ惹かれてしまう。


 これは主従故の感情なのか、それとも己の奥底から芽吹いたものなのか。

 わからない。ただ、惹かれる。求める。


 恋とか愛とか、そんな生ぬるいものではなかった。

 《宿命》という言葉だけが、頭を過ぎる。


 いけない。そう思いながらも、肌を寄せ、脚を絡め、焔の匂いに包まれる。

 欲情は躰を焦がし、熱を孕み、理性を試す。


 ――命をかけたくなったら。


 その時は、きっと遠くない。

 雅はそう感じていた。





 黄昏時。

 祓い屋の仕事を終えた帰り道、焔と雅は神社を抜けて家へ向かっていた。

 朱の鳥居を潜れば近道になる。日が暮れかけ、境内は長い影で満たされていた。


「主よ、アンタ、あんなに金をふんだくってどうするんだ? 城でも建てるのか?」

「金は命の対価だ。たんまり取って当然だろ? ――それに、上等な酒がいくらも飲める」

「酒代でそんなにかかるかよ」

「遊郭にでも行くか?」

「主以外にそういう欲求はないので」


 軽口を交わす二人の間に、ふと風が止んだ。

 ざわ、と木々が鳴り、鴉が一斉に飛び立つ。嫌な気配が空気に張りついた。


 次の瞬間、影の中から屈強な男たちが現れた。五人。腕も脚も丸太のように太く、獲物を前にした獣の目をしている。

 焔と雅は、いつの間にか完全に囲まれていた。


「どこの誰だァ? 知らない顔じゃねぇか」

「主、下がってください」

「……ん? 祓い屋か? この辺りの縄張りだと、高田の旦那かな。縄張り荒らしって騒ぐ暇があるなら、術を磨けや。……ああ、才能が、なかったっけなァ?」


 挑発的な声と共に、男たちの背後から一人が進み出た。

 腹の出た体、濁った目。酒と女に溺れ、金で取り巻きを養っているだけの男――高田だった。

 その姿はもはや祓い屋というより、成れの果ての悪霊のよう。


「高田ァ、そんなセコいやり方じゃなく、祓う腕で勝負したらどうだ」

「うるさい、化け物が」


 まただ。白髪に赤い瞳を見て浴びせられる、繰り返しの言葉。――化け物。

 焔はにぃ、と嗤った。


「雅、お手並み拝見と行こうか」


 言葉が終わるより先に、雅は走り出した。

 五人の屈強な男たちの間を、風のようにすり抜ける。

 拳も蹴りも、刃も、ひとつたりとも触れることはできない。

 雅の動きは速すぎて、まるで次の軌道をすでに知っているかのようだった。


 ただ、かわす。

 攻撃を受けず、返すこともしない。

 不思議に思った焔が目を凝らすと――。


 そこには、かすかに光を反射する糸が張り巡らされていた。


 ギャアアアッ!


 次の瞬間、動いた男たちの腕が飛び、足が裂かれ、首が糸に断ち切られる。

 血が地に弧を描き、あたりに鉄の匂いが充満した。


 糸を操る雅。その瞳は金色に輝き、冷酷な美しさを帯びていた。


「アンタも、この糸に血を吸わせるか?」


 ピンと張られた糸を引くと、す、と高田の頬が裂けた。血が一筋、頬を伝う。


「高田ァ、二度と祓い屋を名乗るな。ここはもう俺の縄張りだァ。才能のない奴は消えろ」


 腰を抜かした高田は、泡を吹いて惨めに地面を這い、ついには気を失った。


 その哀れな姿を見て、焔は嗤いが止まらなかった。


「やるなァ、雅」

「このくらい、赤子の手を捻るようなもの。だが、主の期待に応えられたなら光栄というもの」

「大した活躍だ。期待以上。褒美をやろう。何がいい? 酒でも、女でも、金でも、なんでもいいぞ」

「本当に、なんでも?」

「ああ、なんでもだ」

「なら主――アンタが欲しい」


 金色の瞳が真剣に焔を射抜いた。

 一瞬視線を合わせた焔は――


 ――嗤った。

 狂ったように。咳き込みながらも。

 おかしくて仕方ない、とでもいうように。


「雅ィ、可哀想になァ。オマエが俺に寄せる好意は、式神故だ。俺の作った式神だから、主に逆らわぬように、好意に似た感情を植え込まれてるだけ。恋でも、ましてや愛なんかじゃない」

「何故そう言い切れる?」

「じゃあオマエは、命をかけてもいいと?」

「わからない。けど、この渇望は、そんな薄っぺらいものじゃない」

「は。恋も愛も煩わしい。俺を苛立たせるだけだ。頼むから別でやってくれ」

「そういう感情より、もっと強い。深い想いだ。名前は、つけられない」

「ただの思い込みだ」

「じゃあ、試してみるか? 肌を合わせればわかる」

「……いいだろう。俺はオマエを暖をとるのに利用する。オマエは試しに俺を抱けばいい。ただし、後悔することになるぜィ」

「構わない。ただ、アンタが欲しい」


 鳥居は色を失い、社は黙してふたりを見下ろす。

 風が冷たく吹き抜ける。曇天の空には、雪の気配が漂っていた。





 宿の一室。

 赤い布団が敷かれ、雪見窓から冷たい夜気が忍び込む。

 外では風が唸り、行灯の火が時折ゆらめいた。畳の匂いと、遠くで鳴く雪駄の音が、かえって静けさを際立たせていた。


 「屋敷じゃ風情がない」と焔が言い張り、ふたりはここへ来た。

 焔はご満悦で酒をあおっていたが、雅の胸はざわついて仕方なかった。


 襖が閉じ、二人きりになる。

 焔は雪見窓のそばに腰を下ろし、煙管に火を点ける。

 白い煙がゆるやかに漂い、紅の灯りを透かして妖しく揺れる。


「酒でも飲もうや」

「……主は、わざと焦らしているのか?」


 焔は喉の奥でくつ、と嗤う。


「だってなァ? 酒でも飲まねェと、気分が乗らないだろ」

「俺はもう、その気分だが」


 白煙の向こうに覗く横顔があまりに妖艶で、雅は堪えきれず、その腕を掴んだ。

 赤い布団に焔を引き倒す。


「俺で遊ぶな……主。いや――焔」


 名を呼ばれた焔は目を細め、わずかに唇を吊り上げる。

 抵抗はない。むしろ、身を委ねる気配さえあった。

 その仕草に、雅の胸は熱を孕む。


 ――今すぐ抱く。その瞬間。


 と。


 ドサッ、と隣の部屋から大きな物音。続いて「いてぇ!」という、間の抜けた男の悲鳴。

 どうやら酔客が転んだらしい。


 二人は同時に顔を見合わせた。

 緊張が切れる。

 雅の手が震え、焔は堪えきれず吹き出した。


「ぷっ……ははっ、なんだよ間が悪ィなァ」

「……せっかく、いい雰囲気だったのに」

「雰囲気で抱かれるほど、安い主じゃねェよ?」


 焔は煙管をくわえ直し、にやりと笑う。

 挑発的なのに、その赤い瞳には、どこか楽しげな光があった。


 雅は顔を赤らめ、深いため息をついた。

 欲望の熱は確かにそこにあった。

 だが今夜は、赤い布団に並んで横たわり、焔の細い肩を抱きしめ、ただその体温を確かめるだけで終わった。


 外では雪が降り始め、宿の屋根をかすかに叩く音が聞こえていた。





 翌朝。

 雪見窓の外には、白い世界が広がっていた。夜のうちに降った雪が静かに積もり、屋根も木々も音を失っている。


 焔はすでに目を覚まし、窓辺に腰を下ろして煙管をふかしていた。

 赤い布団の上に横たわる雅を振り返ることなく、ただ白い煙を吐き出している。

 その背中はひどく細く、まるで雪景色の中に溶けて消えてしまいそうだった。


 長い沈黙。

 不意に焔が咳き込み、激しく血を吐いた。

 赤が雪見窓の光に照らされ、鮮烈に映える。


「主!」


 雅は駆け寄り、その掌に広がった血を掬い取った。ためらいなく舌でぺろりと舐める。


「――貴方に、永遠の忠誠を」


 焔は呆けたように瞬きをし、それから喉の奥で笑った。


「永遠? 嗤わせるなァ。そんなもん、あるわけない。あるのは、僅かな残火だけだ。俺は長くない。俺が死ねばオマエも消えるんだ。なァ? 式神」

「死してなお、俺はアンタを想う」


 あまりに真剣な眼差しに、焔は思わず目を逸らし、そして――爆笑した。咳き込みながらも、肩を揺らして笑い続ける。


「愛だの忠誠だの、俺にゃ似合わねェ言葉だな! ……だが、退屈はしなくてすみそうだ」


 毒のある笑みを浮かべながらも、その横顔にはかすかな熱が宿っていた。


 雅はそっと問いかける。


「本当に、退屈しないだけでいいのか?」


 焔は煙管をくわえ直し、にやりと嗤った。


「……他に何を望めってんだ。退屈が一番の敵、退屈しなきゃ、あとはどうでもいい」

「アンタの退屈を埋めるためだけに存在するなんて、割に合わない。」

「……ククッ、生意気な」


 焔は咳を抑えつつ、煙を吐き出す。

 外ではまた雪が舞いはじめ、屋根を叩く音が響く。


 二人は笑みと沈黙を交互に交わしながら、白い朝を迎えた。


 冬枯れの空に、雪が降りしきる。

 白い残火のように舞い落ちるそれは、すぐに溶けて消えるはずの儚さを宿していた。

 けれど雅には、そのひとひらひとひらが、永遠の証のように思えた。





《了》

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