気が多い婚約者からの婚約破棄を受け入れて、心から良かったと思わずにはいられません

ひだまり堂

第1話 婚約破棄の惨劇


――私は、今日こそ婚約破棄を言い渡されるのだろうか――


 王立学園の卒業ダンスパーティ。天井から垂れる無数の水晶灯が、最後の夜を惜しむようにきらめいている。


 弦の音色が甘く波打つ中、私、サファイア・ブランディアは裾を踏まぬよう注意しながら、壁際に居場所を求め、礼儀正しく微笑みを貼りつけ、王族の婚約者として相応しい所作でゆっくりできる場所を求めていた。


 ランドル・メーンバレン第三王子。

――私の婚約者は、気まぐれな猫のように気分屋で、けれど時折、優しく笑うときは本当に眩しくて、私はその瞬間にだけすがっていたのだと思う。


 彼の周りには常に噂が渦巻いていた。名を呼ばれるたび胸がひやりとする。いつか私ではない誰かの名を選ぶだろうと、首筋に落ちる影を知っていた。


 だから、彼が私の元にやってきた時は、胸の内で小さく畳んでおいた覚悟の文をそっと開いた。読み上げられるべき文言は、たぶん――。


「サファイア」


「はい、殿下」


 ランドルはいつものように軽やかな笑みを作ろうとして、作れなかった。そこに私は少し安心した。

 彼のなかで、これは遊戯ではないのだとわかったから。


「婚約を……破棄したい」


「……理由を、伺っても?」


「他に、好きな女性ができた」


(想定内、想定内、想定内。胸のなかで三度唱えて、私は呼吸の形を整えた。涙が出ないように、声が揺れないように、背筋が曲がらないように)


「承知いたしました。婚約破棄をお受けいたします」


 私は言葉を置いた。脈拍は早鐘。けれど言葉は静かに落ち、床に吸い込まれる。これで終わり。――そう思ったのに。


「ありがとうございます、ランドル様! これで私と婚約を――!」


 甲高い声が背中に突き刺さる。振り向くと、一人の少女が紅潮した頬で前に躍り出ていた。続いて、もう一人。


「何を言っているの? 私と婚約するのよ」


「いやですわ、殿下、私こそが――」


 あっという間に女の子たちの円が膨らんでいく。

 たわわなドレスの波、香水の匂い、扇のはためき。十名近い少女たちが我こそはと名乗りを上げ、私と殿下の間に割り込んで、互いの袖を引っ張り合い、言い争いが始まった。


「おい、フロック! お前、俺という婚約者がいるだろう!」


 遠巻きに聞こえた怒声に振り向けば、彼女たちの婚約者たる子息たちが色めき立っていた。

 憤怒の赤に染まった顔、握りこまれる拳。音楽はいつの間にか止んでいる。大ホールはざわめきで満ち、誰かのため息が私の耳許をかすめた。


 何が、起こっているの――?


 私が呆然と立ち尽くす間に、ランドルの側近がするりと彼の腕を取り、


「殿下、こちらへ」


 と囁いた。その顔は蒼白い。

 彼は私を見なかった。見ないようにしているのだとわかった。引き攣った横顔が揺れて、すぐに人波に飲み込まれる。


 私は取り残された。

 華やぎは一転して荒れ場へと化し、誰かの涙、誰かの罵声、誰かの笑い声。私は袖口をぎゅっと握り、その場から一歩も動けずにいた。


 王家の馬車はランドルの命で用意されたもの。婚約破棄を受け入れた私に、それはもう与えられない。


「災難だったな、サファイア嬢。ひとまずこちらへ……」


 背後から低く落ちる声に、私は肩を震わせた。

 振り向けば、灰銀の髪を無造作に撫でつけ、瞳の色は空のようなブルーの青年が立っている。


 隣国アルストリアからの留学生、アーノルド・マクレイン公爵家子息。

 いつもは距離を取るように微笑む彼が、今日はほんの少しだけ近い。


「ひとまず公爵邸まで送ろう。馬車も、王家のものだっただろうから」


 彼の言葉は冷静で、けれどそこに柔らかな配慮が滲む。

 私は泡のように浮きかけていた自尊心を掬い上げられたような心地で、深く頭を下げる。


「……お言葉に甘えます。ありがとうございます、マクレイン様」


「アーノルドでいい。こういう時は、形式ばらないほうが早いから」


 差し出された手は、温かった。

 私はその手に指先を重ね、風の抜ける回廊を歩く。途中、追いすがろうとした誰かの腕が、アーノルドの鋭い視線にすぐ引っ込む。


 公爵家の紋章が彫られた黒い馬車が、静かに灯りの下で待っていた。


 乗り込むと、扉が閉まり、騒音が薄い膜の向こうに遠ざかる。私は胸にため込んだ空気を、ようやく少し吐き出した。呆然とした唇から零れたのは、たったひとつの問い。


「……何が、起こっているの?」


 アーノルドは対面に座り、肩肘を窓枠に預ける。月明かりに照らされた横顔は、感情の影を容易に読ませない。


「単純に言えば――隠していたものを覆っていた布が、何かの拍子に剥がれた……というところかな」


「隠していたもの……殿下に恋する女性が、あれほど?」


「女性が一方的に恋していた、ということではないのだろう。なんらか、過去に何かあったからこその今日なんだと思うよ。

 彼が意図的にそれを行ったのか、それとも意図せず行われた結果今日の状況になったのか。

 意図せず行われた場合には、なんらかそうなってしまう能力が使われたか――」


 そこで彼は一瞬、言葉を切る。

 私の反応を伺う視線を感じて、私は自分の指を見下ろす。


 左薬指は、もう空だ。いつ外したのだろう。あの一言を受け入れた瞬間に、私は無意識で指輪を、……そう、床に落としてしまったのだ。


「魅了(チャーム)……?」


 自分でも驚くほど小さな声が出た。王家の血筋に伝わる「祝福(ギフト)」のうわさ。

 メーンバレンの王族は古い伝承で、時に人の心を惹き寄せる甘い香りを纏うことがあると――。


「そう決めつけるのは早計だが、君がそう口にしたことは覚えておく」


「失礼しました。ただ、殿下がそんなものに頼るとは思えなくて」


「頼った覚えがなくても、血は流れている。意志と無関係に作用することもある。……何より、今夜の騒ぎは殿下一人の不始末、というには規模が大きすぎる」


 アーノルドは小さく肩を竦めた。その横顔は、冷たい冬の刃。

 けれど刃は私に向いていない。彼は何かを測っている。私を測っているのだろうか。


「サファイア嬢。家に着いたら、すぐに父上と話を。話は早いほうがいい」


「はい……」


 うなずいたところで、馬車が減速した。門が開き、私の屋敷――ブランディア侯爵家の邸へと続く通りに入る。冬薔薇の生垣が月の白を吸い込んでいる。私は胸の前で手を組み直し、名残惜しさと安堵の混ざった視線でアーノルドを見る。


「ここまで、ありがとうございました。本当に助かりました」


「礼は不要だ。……ただ、これは貸しだ。今日はいくつか私に借りができたと思っておいてくれ」


「貸し、ですか?」


「この貸しはいつか返してくれればいい。形は問わない」


 彼はそれだけ言って、扉を開けてくれた。


 夜気が頬に触れる。私は裾を掻き集め、石畳に降り立つ。振り返ると、彼は短く帽子のつばに指を添えた。黒い馬車は、音もなく闇に融けていった。

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