秋
増田朋美
秋
だいぶ涼しくなってきて、日常生活が大変だと思われなくなってきた。そうなると、いろんな人が外へ出て、新しいことを始められるようになるが、時にこんなことが起きてしまうこともある。
その日、杉ちゃんたちがのんびりと製鉄所で過ごしていると、誰かが、玄関の引き戸を開ける音がして、
「玄関の扉から時計まで13歩。」
という声がした。それと同時に中年の女性の声で、
「本当にいいのでしょうか?」
という声も聞こえてくる。
「ええ大丈夫ですよ。水穂さんはとても優しい方ですからね。」
と、言っているのは涼さんであった。杉ちゃんは車椅子で玄関先に行って、
「ああ涼さん今日は、なんの商いでござるな?」
というと、涼さんと一人の女性は、すみませんと言って製鉄所の中に入ってきた。
「涼さんこの女の人だれや?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。橋口徳子さん。僕のところへ、三ヶ月ほど通っている、クライエントさんです。」
と、涼さんは彼女を紹介した。
「橋口徳子です。よろしくお願いします。「
と、女性本人も自己紹介する。
「それで、今日は、なんのお話なの?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。彼女のことなんですけどね。実は彼女、ピアノ教師の方と軋轢がありまして、大学をやめなければならなかったんです。」
と、涼さんは説明した。
「それがどうしたんだ?」
杉ちゃんが言うと、
「彼女が、もう一度ピアノレッスンを受けてみたいと言い出しましたので、それで、水穂さんにレッスンをお願いできませんか?」
と、涼さんが言った。
「レッスンをですか?どのあたりまで演奏したんでしょうかね?」
水穂さんは橋口徳子さんに聞いた。
「ええ一応、音大は受験しましたので、ショパンの練習曲とか、ベートーベンの月光ソナタとかは弾きましたけど。」
「そうですか、他には何を弾かれたんですか?」
水穂さんが聞くと、
「ええと、ショパンのスケルツオ一番とか、ブラームスのソナタ3番などをやりました。」
と、徳子さんは答える。
「はあ、随分難しい曲ばかりですね。穏やかな曲はやらなかったのでしょうか?」
水穂さんが聞くと、
「やりませんでした。やってはいけないと言われました。」
と、徳子さんは答えた。
「やってはいけないって、なんでやってはいけないんだよ。」
杉ちゃんが聞くと、
「わかりません。でも、やってはいけないと言われたんです。もう一人の先生は、ハイドンとかモーツァルトとか、古典派のソナタを中心にやってくれましたけど。」
と、徳子さんはいうのである。
「もう一人の先生?誰か別の先生に師事してたのか?」
杉ちゃんが聞くと、彼女はしていましたと答えた。
「それはあなたが自主的に師事したいと言ったんですか?」
水穂さんが聞くと、
「いえ違います。地元の先生の紹介だったんです。東京の先生と、伊東に住んでいた外国人の先生に習っていました。その外国人の先生は地元の先生が紹介してくださって、東京の先生には知らせていなかったから、すごい騒動になってしまって。私は、先生方に逆らうわけにもいかないから、そのとおりにするしかなかったんです。」
と、徳子さんは言った。
「はあ、いい子ちゃん症候群も辛いねえ。東京の先生には、他の先生に習うっていえなかったのか。まあ確かに、先生に反抗はできないし、そうしろと言ったら、そうするしかないわな。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「もしかすると、外国人の教師にピアノを習わせようとしたのは、なにか理由があったからかもしれません。とりあえずそこのピアノでなにか一曲弾いていただけますか?」
水穂さんがそう言うと、徳子さんは楽譜がないと言ったが、
「ああその本箱の中にある楽譜から適当に一冊出して弾いてみてくださいますか。曲は何でも構いませんので。」
水穂さんは本箱を指さした。
「わかりました。じゃあ、この本箱にある、セシル・シャミナードの秋を弾かせてください。」
と、徳子さんはそう言って、一冊の楽譜を取り出してピアノの前に座った。そして、秋という曲を弾き始めた。確かに弾けてはいるのであるが、後打ちの右手の音がうるさく、とても曲という感じではなかった。
「理由がわかりました。あなたが指示しようとしていた東京の先生は、とても無責任でいい加減な指導をしていたのでしょうね。それで、外国人の先生に見てもらうことで、しっかりとした演奏になるようにしたかったのでしょう。まず初めに、伴奏の恩恵がうるさすぎますね。それに、曲の強弱が全くついていない。きっとその東京の先生は、激しい演奏をしていればそれでいいと思いこんでいたのだと思います。」
水穂さんはそう徳子さんにいった。
「そうなんですか。私の演奏は、」
「はい。ひどいものです。とても曲とは言い難いですね。まず、きちんと強弱をつけて、女性が弾いたとわかる演奏にしなければいけません。シャミナードは女性の作曲家ですし、女性が演奏したように見せても全く問題ありません。」
水穂さんは、そういった。
「そんな、私、女性が弾いたように見せては行けないって、何度も何度も怒鳴られて。」
徳子さんが言うと、
「そういうことなら、ピアノ教師としてはまるでだめですね。そんな先生、どうして音大で教えられたのでしょうか。世の中にはどうしてこんなポジションにつけるのだろうと思われるほど能力の低い人がいますけど、そういうひとに運悪く当たってしまったとしかいいようがないですね。その見極めが大事なんですけど、若い学生には難しいですよね。」
と、水穂さんは言った。
「まあ、そうかもしれんなあ。良縁に恵まれなかったんや。せっかく外国の先生に習わせて、派手な演奏になるのをストップさせてくれようとしていたのに、それもわからなかったんやからなあ。仕方ないことではあるが、まあ、お前さんも二度と繰り返さないようにすることやな。」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「そうですね。確かに今まで正しいと信じてきたことが間違いだとわかったときのショックは大きいかもしれませんが、でもこれからは、少しずつ美しい演奏に近づけていくことは、必要だと思いますよ。」
水穂さんはにこやかに言った。
「じゃあこれからは、定期的にレッスンしてくれますか?水穂さんも体が大変なのはわかりますけれど、こうして必要としてくれる人がいるんですから、できるだけ体調整えて。」
と、涼さんがいうと、
「ええ、わかりました。」
と、水穂さんは言った。
「それでは週に一度来てください。一緒にやりましょう。何も怖いことはありませんよ。ただ、変わればいいだけのことです。」
「ありがとうございます!」
徳子さんはとてもうれしそうだった。
その日から、橋口徳子さんが、週に一度レッスンにやってくるようになった。それに合わせて水穂さんもレッスンに応じてくれるようになり、これで水穂さんも少しは前向きになってくれたのかなと、杉ちゃんたちは密かに喜んでいた。
橋口徳子さんが、水穂さんのもとへ訪ねてくれるようになって、何日か経った日。
一人の女性が、製鉄所へやってきた。もうかなり年を取って、杖無しでは歩けないような女性であった。
「お前さん誰じゃい?」
杉ちゃんが言うと、
「あのう、失礼ではございますが、こちらに橋口徳子さんと言う女性が通っていると思うのですが?」
とその人は言った。
「だからあ、お前さん誰なんじゃ。名前をいえや、名前。」
杉ちゃんに言われて、
「野方と申します。野方えり子。あの、橋口徳子さんに、謝りたくてこちらにこさせてもらいました。徳子さんがこちらに通っていると聞きまして、どうしても彼女に謝りたいんです。」
とその女性は言った。
「何を言っとるんじゃ。お前さんが、徳子さんの話してくれた東京の先生だな。お前さんのせいで、徳子さんがどれだけ傷ついたと思ってるんよ。そんなやつをどうして彼女にあわせるもんか。さっさとかえんな。」
杉ちゃんが、でかい声でそう言うと、
「それは、わかっております。一度だけでいいですから、謝らせてもらえませんか?」
と、野方えり子さんは言った。
「でもさあ、本当にかわいそうだぜ。一生懸命彼女はお前さんのこと忘れようとしてるんだぞ。それなのに、彼女を陥れた張本人にあわせるのはちょっとね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「本当に一度だけでいいのです。私が悪かったのは十分わかっております。彼女に一度だけ会わせてください。」
そういうえり子さんに、杉ちゃんは変なやつだという顔をして、
「じゃあなんで、徳子さんにあんな無責任でいい加減な態度で接してたんだ?その理由を聞かせてもらおうじゃないか。お前さんがいい加減に教えていたせいで、徳子さんはピアノどころかその後の人生までだめにしてしまったんだぞ。」
と言ってしまった。こんな事を言えるのは杉ちゃんだけかもしれなかった。
「私もわかりません。当時はいい加減にしているつもりはありませんでした。でも、あのあと音大の講師を解雇されて、その後は何も仕事にありつけなくなってから、私は間違っていたんだと知りました。」
えり子さんは言い訳のように答えた。
「それじゃあだめだ。多分、徳子さんに謝っても通じないわ。」
杉ちゃんがそう言うと、ちょうど水穂さんがピアノを弾いていたのか、ピアノの音が聞こえてきた。曲はシャミナードの秋であった。
「この曲、最後に私が徳子さんに教えた曲です。今でも覚えていてくれたんですね。」
えり子さんは、杉ちゃんがちょっと待てといったのも無視して、製鉄所の中へ入ってしまった。こういうとき、製鉄所に入るのは難しいことではなかった。製鉄所はバリアーフリー設備のため上がり框を設けていなかったのだ。もしかしたら、唯一の弱点とも言えるかもしれなかった。
「はいそうですね。大体右と左のバランスは取れてきましたね。それではもう少し左手を抑えてメロディが聞こえるようにしてください。」
と、水穂さんの声がした。えり子さんがその部屋に入ると、紙よりも青白い顔をした銘仙の着物を着ている美しい男が、徳子さんにピアノを教えているのであった。
「なんとまあ!」
えり子さんはそれしか言うことができなかった。彼女にしてみたら、銘仙の着物を着た人物など言語道断で、絶対触れては行けないと教えられてきた人物だったのだろう。
銘仙の着物の男は、徳子さんにそのままピアノを弾き続けるように言った。徳子さんの演奏は、ちゃんと左右の音型のバランスの良いものになっていた。ただうるさくて、激しいとか、叩きつけるようなものではなかった。
「はい。それでいいですよ。それではもう少し、右手を、メロディとして、歌って弾くようにしてくれますか?」
と銘仙の着物を着た男が言うと、徳子さんはそのとおりにした。
「ど、どうしてこの人が!」
とえり子さんは思わず叫んだ。弾き終わった徳子さんもえり子さんがここへ来ているのに気が付き、青ざめた顔つきになった。
「この人がって、徳子さんが、水穂さんにレッスンをお願いしたんだよ。その何が悪いというのさ。お前さんは彼女をこういう演奏にできなかったじゃないか。」
と、追いついた杉ちゃんがそう言うと、
「そうですね。だいぶ音量のバランスは良くなりましたね。どうしても後打ちですと右手が大きくなってしまいがちなのですが、そうなってしまってはなりませんから。そして、左手のベース音が、コントラバスでも弾いてるような響きになるともっと良いと思います。」
水穂さんは指導者らしく徳子さんに言った。
「なんで、なんで橋口さんがこのひとにレッスンをお願いしたの!」
とえり子さんはいきなり叫ぶ。
「お願いしたって、レッスンしてくれるっていうんだからそれでお願いするもんだろう。徳子さんはお前さんの呪縛から離れたかったんだよ。お前さんの演奏なんてどうせ、うるさくて、けたたましい演奏しかできないんだろ?それしかできないやつに習ったって意味ないじゃないか。それなら、他の人にお願いして当然だ。そんなもんだよ。世の中なんて。」
と、杉ちゃんはそういった。えり子さんはまだ悔しそうな顔をしている。その視線が、水穂さんの着物に向いていたのを杉ちゃんは見逃さず、
「はあ、それとも、水穂さんみたいなひとに見てもらってるのが、なんか情けないというか嫌なんかな?」
と言ってしまった。えり子さんは、黙ったまま答えなかった。でもその握りこぶしが震えているので、きっと怒りというかそういう気持ちを感じているのだろうなと言うことはすぐに分かった。
「ははあ、図星かあ。でもさ、身分がどうのこうのというのは確かにあるが、お前さんには徳子さんをそうすることはできなかったんだぜ。徳子さんはお前さんがあまりにもうるさい演奏を強制するから、外国の先生にも習ったんだ。お前さんのこと裏切るつもりはまったくなかった。ただ、お前さんが、そういう演奏ができるように持っていくことができなかっただけだ。それなのになんで、お前さんが怒鳴って、徳子さんを退学に追い詰めたんだ?」
杉ちゃんにそう言われて、えり子さんは悔しそうになき出した。そのような態度を取っている彼女を見て、水穂さんが思わず、
「野方えり子先生、僕が、彼女をたぶらかしてしまったことは謝ります。」
と言って頭を下げた。
「いやあ水穂さんが謝る必要はないよ。こいつが徳子さんを演奏家にできなかったのが悪いんじゃないか。水穂さんはちゃんと指導して、ここまでいい演奏ができるようにしてあげただけだろ。何もたぶらかしてなんかいないよ。」
杉ちゃんだけが平然としている。
「徳子さんも水穂さんも謝る必要はない。大事なのは、こいつが、どれだけ反省しているかどうかだ。悪役はいつまで経っても罪を悔いることはないからなあ。」
「ごめんなさい。」
不意にえり子さんが、そう小さい声で言った。
「なんだって?」
杉ちゃんがもう一度聞くと、
「ごめんなさい。」
えり子さんは本当に小さな声で言った。
「だから聞こえるように謝れや。お前さんも、徳子さんにしてしまったことを謝りに来たんやろ。それを水穂さんに取られたからって、それが免除されるとは思うなよ。水穂さんは、徳子さんに演奏を伝授したんや。それを、お前さんが否定することはないだろう。」
杉ちゃんに言われて、えり子さんは水穂さんを悔しそうに見つめた。
「いくら僕が彼女に教えたって、それが正しいこととして通ることではありませんよね。本当にすみませんでした。」
水穂さんはそういうのであるが、えり子さんはまだ納得しない様子だ。
「きっと、僕みたいな人間には、謝ろうとか、申し訳ないとかそういう気持ちが湧いてくることはなく、むしろ、憎たらしいとかそういう気持ちになってしまうのでしょう。」
水穂さんはそういうのであるが、
「待って!」
といきなり徳子さんが言った。
「あたしは、もう、野方先生のことは許してます。先生はきっと私に自分のできることは全部伝授してくれたんだと思います。私が、別の先生に習っていることが露見したときも、そう言ってましたよね。だから私は、もう大学にはいられないなと思ったんです。あのときは私がそうするしかなかった。だけど、野方先生は私に自分のすべてを伝えてきたんだって私は信じてます。」
「だけどねえ。お前さんのことをただうるさい音楽させるだけしかできなかった野郎だぞ。そんなやつを許していいと思う?水穂さんも、変なところで妥協しないでさ。こいつが悪いってことを、ちゃんと伝えるべきではないのかな?だって、徳子さんは、これからの人生があったんだぞ。それをきちんと、人生とはこうだって、指し示してやるのが教育者じゃないのか?ただ権力振りかざして、難しい曲ばっかりやらせて、大事な事を何も教えないやつが果たして音大の講師としていても良いもんなのかな?」
杉ちゃんは、でかい声でそういったのであるが、
「いいえ、そのときは私も野方先生もああした態度を取るしかできなかったのだと思います。あたしが、あまりにも世の中のことを知らなすぎたというか、そういうことだったんだと思います。だから、もう先生のことは良いんです。あたしの人生は確かにろくな目に合わないものでしたが、こうして、もう一度ピアノを弾くこともできるようになりましたし。だからもう良いんです。」
と、徳子さんはそういったのであった。
「もう良いねえ。でもさ、お前さんが簡単に許してしまったら、こいつがしでかした悪事は罰せられることなく続いてしまうことになるよなあ?」
杉ちゃんが心配そうにそういうのであるが、
「いいえ、もう良いんです。その時にはその時にしかできなかったことってあると思います。」
徳子さんは、静かに言った。
「どうもごめんなさい。」
今度は、野方えり子さんもはっきり聞こえるように言った。もう水穂さんが教えているのを恨むような雰囲気は見られなかった。
「本当に私が間違っていました。私はなんだか、変なプライドだけが高かったみたいです。」
「そうそう。ちゃんと自分の非を認めろよ。」
杉ちゃんに言われてえり子さんは、もう一度徳子さんに頭を下げた。
「本当にごめんなさい。あなたの人生を台無しにするようなことしてしまって。」
「いいえ大丈夫です。えり子先生の顔を見て、やっぱりえり子先生も決して幸せではないんだなってことはよくわかりました。これからは、私も、そういう悲しい思いをしているひとを助けられるような人間で有りたいと思います。」
徳子さんは、笑顔になってえり子さんにいった。水穂さんがえり子さんに徳子さんの手を握るように促した。えり子さんは、水穂さんにそうされる事を抵抗あるかと思われたが、水穂さんに促されて徳子さんの手を握りしめたのである。
杉ちゃんは、まだえり子さんのことを変なやつだなと言う顔で見ていたが、徳子さんもえり子さんも晴れやかな顔だった。お互いの非を認めあったときの人間の顔というものは、こんなに晴れやかなのかと思われるほど、二人は晴れやかであった。そういうことからもしかしたら、平和というものが始まるのかもしれなかった。
秋 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます