第9話 裏切りの星図――“盗まれた半刻の未来”

 ベルデラを後にして、〈ホワイト・ウェイク〉は再び西の海へ向かった。

 交易都市で契約を拒んだとき、商会の長たちの顔に浮かんだ怒りは、海風よりもしつこく私の背中に張り付いている。

 資金は得られなかった。

 けれど名を守れた。

 航路の名はまだ私たちのものであり、歌は港に残った。


 だが――港を出て二日目の夜。

 甲板に広げた星図に、不自然な“線”が見つかった。


◇◇◇


 エルドの指が震えていた。

 赤銅色の目が、蝋燭の火を映して揺れる。


「ここを見てくれ」

 彼は星図の一角を押さえた。

 潮流を示す矢印が、一本だけ違う。


「こんな線は引いていない。俺の癖でもない。……誰かが、地図を書き換えた」


 舷側に身を寄せていたユーグが、剣に手を置いた。

「船に裏切り者がいる、ということか」


 空気が一気に張り詰めた。

 少年たちが不安そうに顔を見合わせ、ミレイは鍋の蓋を強く握った。

 ロザンヌは手帳を開き、冷静に視線を走らせた。

「星図は常に箱に収め、施錠していたはず。鍵は?」


「俺と、船長と、監察官の三人だけ」

 エルドの声は低い。

「けれど、この矢印は……外からではなく、中から引かれた線だ」


◇◇◇


 私は息を整えた。

「考えられる可能性は三つ。

 一つ、誰かが鍵を盗んだ。

 二つ、船内に“もう一つの鍵”を持つ者がいる。

 三つ……星図そのものが、最初から“仕掛け”を抱えていた」


 ロザンヌが頷く。

「三つ目の可能性を軽く見るべきではありません。地図は売られるときに細工されることがある。特にベルデラの商会は、契約書に名を刻むよりも、裏でこうした“線”を刻む方が得意です」


「だとすれば、盗まれたのは地図ではなく“未来”だ」

 エルドが呻くように言った。

「この線通りに進めば、船は岩にぶつかる。半刻のずれが仕込まれている」


 胸が冷たくなる。

 半刻――あの笛の音。

 銀笛の同盟とベルデラの陰謀が、ここで重なった。


◇◇◇


 翌朝。

 私は全員を甲板に集めた。

 星図を広げ、問題の線を指差す。


「これは“罠”だ。誰かが私たちを海に沈めようとしている。……でも、この線を利用する」


「利用?」

 ユーグが眉を上げる。


「偽の線に従う“ふり”をする。敵は、私たちが沈むのを待っている。ならば逆に、沈んだと思わせて姿を消す」


 ロザンヌが目を細めた。

「危険ですが、賢い。罠を逆用して、敵を炙り出すのですね」


 少年たちの顔に緊張と恐怖が浮かぶ。

 けれど、彼らの瞳は逃げていなかった。


◇◇◇


 その夜。

 〈ホワイト・ウェイク〉は偽の線に従って進んだ。

 海は闇に沈み、星だけが道を示す。

 舵を握る手に汗が滲む。

 セリーヌが香炉に火を入れ、煙が甲板を覆った。


「火は消えません。……あなたが航路を選ぶ限り」


 彼女の声に、私は小さく頷いた。


 やがて、海が変わった。

 波が急に荒れ、船体が揺さぶられる。

 岩礁が潜んでいる証拠だ。


「来るぞ……!」

 ユーグの声。


 その瞬間、闇の中に光が見えた。

 小舟の松明。

 海賊だ。

 彼らは私たちが岩にぶつかるのを待ち、財宝を奪うつもりだったのだ。


◇◇◇


「舵、右へ全力!」

 私は叫び、偽の線から一気に外れる。

 エルドが星を読み、正しい航路を指し示す。

 クォートが帆を操り、ミレイが鍋の蓋を叩いて合図を飛ばす。

 少年たちが一斉に縄を引き、船体が揺れながらも方向を変える。


 海賊たちは驚いたように叫び、松明が揺れた。

 彼らの舟は岩礁に近づきすぎていた。

 次の瞬間、激しい音が闇に響き、松明の火がいくつも消えた。


「やった……!」

 少年の一人が歓声を上げる。


 だが私は舵から目を離さなかった。

「まだよ。敵は海賊だけじゃない」


◇◇◇


 翌朝。

 海は嘘のように穏やかになった。

 だが星図の上には、まだ“偽の線”が残っている。

 私はそれを見つめ、深く息を吐いた。


「この線を引いた者は、船の中にはいない。……ベルデラから渡されたとき、すでに刻まれていた」


 ロザンヌが頷く。

「つまり、敵は“未来”を売りつけたのです。あなたが署名しなかった代わりに、地図に署名した」


 私は拳を握りしめた。

 未来を盗む契約。

 それは、血よりも冷たい。


「……次の航路では、この偽の線を証拠として王都に突きつける」

 私は言った。

「敵は必ず動く。半刻の影は、まだ消えていない」


 風が帆を揺らし、白い航跡を描いた。

 その線はまだ白かった。

 けれど、その向こうには黒い影が待っている。

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