第6話 灯台の番――“半刻の空白”に名前を刻む

 王都から半日の道を西へ。

 海沿いの岬に、その灯台は立っていた。

 白い石を積んだ円筒。最上部には銅の覆いがかぶせられ、夜には火が燃え、昼には鏡で光を返す。

 波を削るように岩が並び、足元は潮で常に湿っていた。

 〈ホワイト・ウェイク〉を港に残し、私はユーグとロザンヌ、セリーヌ、少年のシアを連れて陸路を進んだ。


 灯台の番人は三人いると記録にあった。昼番、夜番、補佐。

 けれど、扉を叩いても返事は一つしかなかった。


「ようこそ。アリアナ様……いえ、“航路の令嬢”とお呼びすべきでしょうか」


 現れたのは初老の男だった。背は低く、髪は灰色で、手には油の染みがついている。

 名はエーベル。夜番だという。

 彼はにこやかに私たちを迎え入れ、石段を登らせた。


◇◇◇


 灯火室。

 分厚いガラスの窓越しに、海が見えた。

 昼の光を跳ね返す鏡が、四方に配置されている。火はまだ落ちていて、代わりに油壺と布が積まれていた。

 私は窓際に立ち、潮の匂いを胸いっぱいに吸った。


「これが……半刻、ずらされる」


 エーベルが目を細める。

「その噂、港でも耳にしました。ですが、私どもは職務を全うしてきたつもりです」


 ロザンヌが鋭い声で言う。

「番が買収されたか、記録が改竄されたか。――あなた方以外に誰が火を扱える」


 エーベルは視線を落とし、しばし黙った。

 やがて、ため息のように言った。

「……半刻の空白。それは、あります」


 空気が凍った。

 ユーグが剣に手を置き、シアが震える。

 セリーヌだけが静かに香炉を胸に抱え、視線を外さなかった。


「空白とは?」


「火を交代する時刻、必ず十五分――いや、もう少し長くか。どうしても“二人とも持ち場を離れる”間ができるのです」

 エーベルの声は乾いていた。

「番人の宿舎から塔の上まで、石段を上がるのに時間がかかる。年を重ねればなおさら。だから、その間は火が細る」


 私は目を見開いた。

「それは……制度の欠陥ということ?」


「そう言われれば、そうです。しかし誰も責めなかった。火が完全に消えるわけではないし、岬は穏やかだから」

 彼は言葉を切り、こちらを見た。

「ですが、新しい航路を掲げるなら、その空白は“穴”になります」


◇◇◇


 石段を下りる途中、私は拳を握りしめていた。

 制度の穴。

 誰かがそれを利用して「半刻ずらした」――その可能性が濃厚になった。

 買収や裏切り以前に、“仕組み”自体が甘い。


「塞ぐ方法は?」

 私はロザンヌに尋ねた。


「交代要員を増やす。だが、人件費がかかる」


「火を消さずに運ぶ方法もあります」

 セリーヌが口を開いた。

「聖堂では“聖火”を壺に移し、祭壇から祭壇へと渡します。同じように、火を小さな容器に分ければ……」


「火種を運ぶ」

 私は息を呑んだ。

「そうすれば、交代の間に火が完全に途絶えることはない」


 ロザンヌは短く考え込み、やがて頷いた。

「記録に追加しましょう。――“火種の壺”。航路の新しい習慣として」


 私は胸の奥で、確かに“習慣”という言葉を握り締めた。

 誓いより、法より、強いのは習慣だ。

 人が毎日繰り返すこと。それが最も強固に未来を守る。


◇◇◇


 夜。

 灯火室で火がともされる。

 油に布を浸し、点火する。炎が鏡に反射し、海へと伸びていく。

 その横で、セリーヌが小さな壺に火種を移した。

 赤子のように抱き、祭衣の裾で覆う。


「これで、半刻の空白は埋まります」


 彼女は静かに言った。

 炎が彼女の頬を赤く染め、瞳に影を落とした。


「ありがとう」

 私は呟いた。

 火は人の手で伝えられる。

 そう思うだけで、舵の手触りが少しだけ軽くなった気がした。


◇◇◇


 翌朝、塔を出ると、岬の下に人影があった。

 岩陰に立ち、こちらを見上げている。

 黒い外套に、銀の笛。

 昨日、桟橋で聞いた音と同じ。


 その影は、海風に髪を揺らし、わずかに笛を吹いた。

 ――短く、一音。

 “半刻”。


 そして、姿を消した。


 私は唇を噛みしめた。

 灯台を守る仕組みを築いても、それを壊そうとする者は必ずいる。

 海は正直だ。

 だから、人の影はますます濃くなる。


「行きましょう」

 私は背を向け、舵輪の感触を思い浮かべながら言った。

「灯台の火に、私たちの名を結びつける。白い航跡を、記録に残すために」


◇◇◇


 港に戻ると、〈ホワイト・ウェイク〉の帆柱に白布が結わえてあった。

 青い文字で書かれている。


――“灯台は名を呼ぶ。呼ばせ続けよ”。


 誰が残したのか、分からない。

 けれど私は布を外さず、帆に結び直した。

 帆は風を食べる。

 名は人を食べる。

 だから、航路は生き続ける。

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